内田康夫 斎王の葬列 目 次 プロローグ 第一章 流され皇女《みこ》の陵《はか》 第二章 水漬《みづ》く屍《かばね》 第三章 御古址《おこし》の祟《たた》り 第四章 天は怒りて 第五章 人形代《ひとかたしろ》の謎《なぞ》 第六章 びわこ空港建設計画 第七章 あやしい被害者 第八章 破局の真相 第九章 因果はめぐる エピローグ 自作解説 世にふればまたも越えけり鈴鹿山 昔の今になるにやあるらん 斎宮女御  プロローグ  野元末治が「御古址《おこし》」の森で無惨な死に方をした夜は、夜半過ぎてからほんの短い時間、鈴鹿山系特有の叩《たた》きつけるような雨が降った。雨は未明には上がり、翌朝は雲一つない日本晴れになった。  この日、東京では皇太子のご成婚が行なわれ、日本中がその話題で持ちきりであった。午前十時から賢所《かしこどころ》で結婚の儀が、午後二時三十分からはパレードが行なわれ、その模様はテレビでも中継された。皇太子ご夫妻を乗せた六頭立ての馬車が、沿道を埋めた大観衆の歓呼の中を進む光景は、戦後の苦難が終わりを告げ、新しい日本のスタートを象徴するように、美しくも華やかなものであった。  野元末治の死体は、テレビ中継が始まる寸前、御古址の近くで茶畑を栽培する農家の夫婦が発見した。  発見された時、末治は雨に打たれ、泥の飛沫《ひまつ》を浴びて黒く染まっていた。仰向けになった顔の額から上の右半分は、コンクリート塊の一撃をくってザクロのように無惨に潰《つぶ》され、血漿《けつしよう》とも脳味噌《のうみそ》とも判別できない、白茶けた粘液状のものが、黒い地面にドロリと垂れていた。  不気味なことに、末治のカッと見開いたままの眼窩《がんか》の上を、甲羅の赤黒い沢ガニがモソモソと這《は》っている。茨《いばら》のとげのように尖《とが》った足が黒目の上を歩いたときは、夫婦は思わず目を閉じた。  夫婦の知らせで駐在が駆けつけたが、それより先に、近隣から野次馬が集まって、死体を取り囲んでいた。  死体の脇《わき》には「凶器」となった鳥居の残骸《ざんがい》が転がっていた。以前から老朽化を指摘されたまま放置してあったのが、何かのショックで倒壊したのだろう。昨夜は雷も鳴っていたから、ひょっとするとそれが原因かもしれない。その下にたまたま末治がいあわせたのは不運としか言いようがないが、野次馬の後ろのほうから覗《のぞ》き込んでいた老人は「御古址の祟《たた》りや」と、恐ろしげに呟《つぶや》いた。御古址は一木一草たりとも冒してはならないのが、いにしえからの定めであるのに、その禁を破ったから、罰が当たったにちがいないというのである。  みんなも頷《うなず》いて、寒そうに首をすくめながら御古址の森を見回した。  たしかに、御古址は神聖な場所であると同時に、恐ろしい怨念《おんねん》の満ちている空間だという言い伝えは、ずっと昔からこの土地にはあった。その事実を証明する古文書のたぐいはないのだが、ことし九十二歳になる古老に聞いたところによると、彼がまだ子供のころ、祖父から祟りの話を聞いたといい、その祖父もまた祖父から聞いた話として古老に伝えたそうだから、どれほどの昔なのか、見当もつかない。  戦後の混乱期に、御古址の檜《ひのき》を盗伐した男が、それから半月後に狂い死にしたことがあるそうだ。  そういうことがあるから、町の人間は御古址にはなるべく近寄らないようにしている。鳥居が古くなって危険だと分かっていても、なかなか修復しようとしなかったのは、そういう理由からだ。  御古址に小さな拝殿を設けて、祟りを鎮めようとした際も、基礎のための穴を掘ることを遠慮して、地上にコンクリートの土台を作り、そこに柱を立てるほどの気の遣いようだったのである。  末治が何の目的で御古址に侵入したのかは、推測するしかなかったが、中に「賽銭《さいせん》ドロをしとったんや」と決めつける者もあった。カニを賽銭箱の中に垂らして小銭を拾い上げるのは、末治にかぎらず、近隣の者なら、子供のころよく、遊び半分にやった賽銭泥棒の初歩的な技術である。 「末治は、そんなあほなことはせんがな」  末治の父親が遺体をかばうようにして、悲痛な叫びで抗議したが、「そしたら、カニのことはどう説明するんや」と言われて、沈黙するほかはなかった。沢に棲《す》むカニがここまで上がってくるとは思えなかったし、第一、カニは赤い糸で腹を結ばれ、糸の一方の端が末治の体の下にあったのだ。  末治がときどき御古址の拝殿の中にもぐり込んでいることも、この近くでは知らない者はない。しかもその前の日の午後、末治が野洲《やす》川の支流の沢でカニを取っているところと、夕方近くに、御古址へつづく道を歩いて行くのが目撃されていた。だから、二日つづけて、賽銭泥棒を目的に、御古址の拝殿に出掛けたと考えられた。  さらに末治にとって不利だったのは、彼の遺体から少し離れたところの地面が、ほかと違う様相を呈していて、明らかに掘り返した形跡が見られたことだ。  付近にはシャベルも鍬《くわ》も見当たらなかったから、その夜の作業ではないらしいが、いずれにしても、ごく最近、地面を掘ったことは間違いない。となると、末治は何か盗掘をしていた疑いもある。  御古址の森には斎王の時代に宝物類が埋められた——という伝説めいた噂《うわさ》は、かなり昔からあったそうだ。いや、じつは宝物ではなく、埋められているのは、旅の途中で亡くなった斎王の亡骸《なきがら》だという説もある。御古址の杜《もり》が当時のまま残されているのは、ここが斎王の皇女の御陵で、冒涜《ぼうとく》したり侵害したりすると祟りが下されるから、誰も恐れて手をつけなかったためだ——というのである。  末治はその禁を破って御古址の杜を掘り、宝物を探していたのではないか。そのために罰が下ったのではないか——と、まことしやかに噂された。  とはいえ、野元末治は二十五歳になる一人前の男だ。常識で考えれば、効率の悪い賽銭ドロなど——と、ふつうなら首をひねりたくなるところだが、日頃から奇行の多い末治のことだから、常識だけでは推し量れないという説もなくはなかった。  末治は子供のころから一風変わった、まあ一種の困り者として扱われていた。と言っても、べつに頭が悪いわけではない。それどころか、幼いころから利発で、学校の成績はいつもトップクラス。  ろくすっぽ勉強もしないで、教師も驚くほどの成績を上げるから、自然、他人を見くびるようになる。しかし、本来の勉強をしていないために、ふつうなら何でもない、基礎知識に欠けていて、テストの結果が信じられないような低い点になって現れたりもする。そのことを家族が指摘すると、末治は「ふん」と鼻先で笑って、「わざと間違えてやったんや」とうそぶいた。「あんまりいい点を取ると、妬《ねた》まれるさかい」と言うのである。これには、さすがの両親たちも二の句が継げなかった。  末治の屈折した、陰険で狡猾《こうかつ》な一面を物語るエピソードがある。末治がまだ小学生だった頃、急な増水で川の中州に取り残された年寄りが、岸辺を通り掛かった末治少年に助けを呼んできてくれと頼んだとき、「なんぼくれるん?」と訊《き》いたというのだ。  そんな性格だから、親しい友人も出来にくく、末治はいつも孤独だった。ことに、中学を卒業して、自分より頭の悪い連中が高校へ進むのを、指を銜《くわ》えて傍観しなければならなかったのが、彼をますます人嫌いに追いやった。  復興途上にあるとはいえ、日本はまだ貧しく、就職難の時代であった。末治の祖父と父親は地元の林業に従事していたが、息子を上の学校に行かせるほどの収入があるわけではない。中学を出ると、末治は名古屋の会社に就職したが、長つづきせず、いくつかの勤め先を転々としたあげく、家に舞い戻った。何かよほどいやなことでもあったのか、末治は「おれはもう、余所《よそ》へは行かん」とだけ言った。  末治が二十三歳の頃、名神高速道路の建設が始まって、工事事務所に仕事の口が見つかった。末治も今度は腹を決めたのか、順調に勤めがつづくように思えた。勤めて一年ほどすると、勤め先の関係で恋愛結婚をした。そう美人ではないが、気立てのいい嫁で、家族にも気に入られた。  もっとも、末治の「変人」ぶりが完全に収まったというわけではなかった。近所付き合いは以前よりも悪くなって、町の寄合などには出ようとしない。野元家は集落を少し外れたところにぽつんと建っているが、その距離以上に離れたところに、末治の心はあったようだ。  末治の死に対して、人々が比較的冷淡だったのは、そういう背景があったからだが、末治の妻が自殺した時はさすがに寝覚めの悪い想《おも》いだったにちがいない。  末治の死を警察が事故死と断定してからも、末治の妻だけは、そんなはずはないと否定し続けていた。「あの人は殺されたんや」と言い張るのである。この反発には、警察も手を焼いた。  死因は落下した鳥居の石材によって、頭蓋《ずがい》が破壊されたためであることははっきりしているのだが、じつは警察としても、多少はひっかかるものを感じていないではなかった。末治の着衣に、見ようによっては、何者かと争ったと思えないこともない乱れがあったのと、現場の地面に末治のものとは異なる足跡があったのである。  しかし、それらはいずれも、野元末治の死に何者かが介在したことを示す、決定的な要因とはなりにくいものであった。警察当局にしてみれば、何にも増して、鳥居の一撃がまぎれもない死因であることが、「事故死」説の根幹を成しているのだし、末治の妻の主張を入れる余地はすでになかった。  末治の死から三月後、妻は野洲川に身を投げて死んだ。末治がカニをとっていたという場所からほんの少し遡《さかのぼ》ったところにある、通称「カニが淵《ふち》」と呼ばれる滝壺《たきつぼ》のような深い淀《よど》みの底に、彼女の死体が沈んでいた。袂《たもと》や懐には河原の石が詰められ、覚悟の自殺であることを思わせた。  自宅の末治の遺影の前に残された遺書には、具体的な自殺の理由は何も書いてなかったが、末治に与えられた不当な侮蔑《ぶべつ》に対して、死をもって抗議しようとしたことは確かだ。なぜなら、遺書にはただ一文字「怨」とだけ書かれてあったからである。  第一章 流され皇女《みこ》の陵《はか》     1  久米美佐子のところに役場から自宅待機通知が届いたのは、京都の下宿を引き上げる前日のことである。  謹啓 ますますご清栄のこととお慶《よろこ》び申し上げます。さて、当町新年度人事といたしまして、あなた様をご採用申し上げる予定になっておりましたところ、当方の都合により、しばらくのあいだご自宅にて待機されたく、右お願い申し上げます。   平成×年三月十日      滋賀県|甲賀《こうか》郡|水口《みなくち》町役場総務課  いとも事務的で、まるで三下り半のように簡単|明瞭《めいりよう》、あっさりした内容であった。 「何なのよ、これ。どういうこと?……」  美佐子は呆《あき》れて、手にした通知書に向かって、思わず毒づいてしまった。  大学を出たら地元に戻って、役場に就職するというのが、一年も前からいまのいままでの美佐子の予定であった。いや、町だってそれを保証してくれていたのだ。だからこそ、ほかのどこにも就職活動をしなかったのではないか。 (冗談じゃないわ——)  頭にきて、すぐに役場に電話しようと思ったら、その日は土曜日。そうだった、明日の日曜日に父親が軽トラックを運転して荷物を運びに来てくれる手筈《てはず》になっていた。  その父親の良治も、元来が短絡的な性格だから、美佐子以上に怒った。 「そんなあほなことがあるかい」  ハンドルを握りながら、目の前をのんびり走るトラックの後部に突っ込みそうな勢いで、怒鳴った。 「あの町長め、うちのお蔭《かげ》で当選させてやったようなもんなのに」  息巻いて言うが、さすがにそれはどうかな——と美佐子は疑った。小なりとはいえ、水口町の人口は二万七千あまりもある。両親のたった二票ばかりで、町長選挙の行方が左右されるとも思えない。 「役場にもそれなりの事情があるのよ。とにかく、明日になったら役場へ行って、事情を聞いてみるわ」  父親の憤慨と反比例して、なんとなく美佐子の怒りは冷めてしまった。美佐子にはそんなふうに、物事に拘泥しつづけることが苦手なところがある。ちょっとややこしくなると、「ま、いいか……」と思ってしまう。  森川忠雄が離れて行ったときも、最初は許せないと思ったけれど、じきに「ま、いいか」になった。学生時代の恋愛なんて、所詮《しよせん》はそんなものかもしれない。もっとも、そう割り切ったつもりでいるのに、ときどきふっと(あんちきしょう——)と思い出す。  四年に満たない下宿生活だし、しょっちゅう「里帰り」していたのだが、こうして生まれた町に戻ってみると、どことなく気恥ずかしいような気分になるものである。ことし高校に入る弟の正孝も照れて、「ねえちゃん、なんだかブスになったな」と悪態を残して、どこかへ出かけて行った。 「あほなこと言うて、ほんまは美佐子、きれいになったで」  母親の博子は取りなすように言ったが、そんな言い方をされると、かえって(あたしって、ほんとはブスなのかな?——)と疑いたくもなる。  翌日、早速役場に出かけて「事情」なるものを聞いた。担当の小島係長は定年近そうな初老のおじさんで、「すんませんなあ」と頭を下げた。 「じつは、年度代わりを機会にお辞めになるはずやった職員が、急に気が変わったいうて、欠員がなくなりましたんや。まことに困ったことで……」 「そんなこと言われたって、私のほうだって困りますよ。役場に入れていただけることになっていたので、ぜんぜん就職活動していないし、いまさらどこも勤め口なんかないのですから」 「そうですやろな、よう分かります。まことに申し訳ないことで……しかし、四月の新年度までには何とかしますよって、ちょっとだけ待っとってくれまへんか」  何とかするって、欠員がない現実をどう何とかするの? と訊《き》いてみたかったが、ひたすら低姿勢なおじさんを相手に怒っても仕方がない。それではよろしくお願いしますと、こっちも負けずに頭を下げた。  そんなわけで、半月ばかり何もするあてのない日々が生じた。「のんびりしとったらええのや。べつに無理して勤めに出ることなんかないで」と良治はおこったように言うけれど、先行き不安でもあるし、落ち着かない毎日であった。  中学や高校時代の友人の中には、すでに結婚してこどもがいる連中も少なくない。スーパーなんかで顔を合わせると、「なんや、遊んどるの? ええご身分やな」とやっかみ半分のいやみを言われる。そのつど「勤めは四月からやがな」と言い訳がましいことを言わなければならない。  だいたい水口の女は働き者が多いというのが定説なのである。  滋賀県甲賀郡水口町は明治維新まで、水口藩二万五千石の城下町であった。もともとは農業主体の町で、特産品は干瓢《かんぴよう》と籐《とう》細工。全国的にも珍しい女子農業高校があった。現在は積水化学の工場などが進出しているが、いずれにしても女性の労働力がものをいう土地柄だ。  小さな町だが高校は二校、甲賀高校と水口東高校がある。久米美佐子は水口東高校の出だ。高校時代に紫式部に興味を抱き、それに惹《ひ》かれるように京都の大学に入った。  はじめは教師になろうと思っていたのだが、役場から父親に話があって、卒業したらぜひ役場にということになった。もともと先方からの申し入れだった上に、大学を卒業して、さていよいよという矢先のキャンセルだから腹も立つ。  役場からは一週間後に連絡があった。どうやら「何とかする」道が開けたような口ぶりである。  すぐに役場へ行ってみると、例の初老の係長はにこにこ顔で、「いいところが見つかりました」と言った。 「あのォ、いいところって、それじゃ、役場ではないのですか?」  美佐子は警戒した。甘い言葉に乗せられて、とんでもないところに就職させられるのではないかと思った。 「はい、まあ当役場ではないが、ほぼ似たようなものです。えーと、あなた、たしか大学では国文学を勉強しておったのでしたな。それやったらぴったしのクチです」 「はあ……」  大学の勉強なんて、高が知れている。とはいえ、それが役に立つようなところがあるのなら、べつに文句を言う筋合いではない。 「じつは、隣の土山《つちやま》町の社会教育課に文化財調査委員会いうのんができることになって、そこで学芸員を求めておるのです」 「学芸員というと、何をするのですか?」 「私もよう知らんですが、頓宮《とんぐう》を調査研究するとか言うてましたな」 「トングウ?……」 「頓宮を知りませんか?」  小島係長の意外そうな表情を見て、これは常識の範疇《はんちゆう》に入るものなのかな——と、美佐子は赤くなった。 「ええ、詳しいことは知りません」 「頓宮いうたら、斎王《さいおう》さんの群行《ぐんこう》が泊まりはったお宿みたいなもんだが」 「ああ、あれですか」  順序だてて言われれば、美佐子にだってすぐに分かることだ。就職先が「トングウ」だなんて、いきなり言われたら、誰だってまごつくに決まっている。斎王なら、美佐子が専攻した源氏物語の「葵《あおい》の巻」と「賢木《さかき》の巻」に、六条|御息所《みやすどころ》の姫君が斎王に選ばれ、伊勢《いせ》にわたる経緯が描かれている。  美佐子は、源氏物語の中で、とりわけ、この六条御息所が葵の上を呪《のろ》い殺すくだりに心|魅《ひ》かれるものを感じている。愛する源氏の子を宿した葵の上に嫉妬《しつと》する六条御息所の生霊《いきりよう》が、本人も知らぬ間に葵の上に取りつき、ついには出産を終えて間もない葵の上を死に追いやる——というストーリーで、能楽の名曲のひとつでもある。  そこに描かれた女の業の極致も恐ろしいけれど、六条御息所の姫君が、斎王としての慎ましやかな精進潔斎の日々を送っているという状況設定が、作者紫式部のただものでないすごさを感じさせる。清く気高い斎王と、嫉妬に狂う母親——その対比が、いっそう、おぞましさを醸し出しているのだ。  京都に住んでいたころ、美佐子は葵祭《あおいまつり》を二度、見物した。葵祭は賀茂《かも》社(上賀茂=別雷《わけいかずち》神社と下鴨=御祖《みおや》神社の併称)の祭礼で、本来は賀茂祭というのが正しい。葵祭と呼ぶようになったのは江戸時代(元禄《げんろく》)からだといわれる。その葵祭のヒロインともいえる「斎王代《さいおうだい》」の行列が、何といっても葵祭の圧巻である。  斎王は奈良時代に定められた制度で、天皇の名代として伊勢神宮に仕える皇女のことだが、平安遷都からまもなく、嵯峨《さが》天皇のときに王城鎮護のため、伊勢にならって京都の賀茂社にも斎宮《さいくう》を置くようになった。葵祭の「斎王代」とは、その斎王の代わりに民間から選ばれた未婚の女性のことである。  小島係長の言う「頓宮」とは、伊勢へ向かう斎王の宿である——といった程度の知識は、おぼろげながら、美佐子にもあった。 「でも、それをどうして土山町で調査するんですか?」  美佐子は率直に訊《き》いてみた。 「そら、あんた、土山町には垂水《たるみ》頓宮があるからでしょうが」  小島は呆《あき》れたような顔をした。 「あ、なるほど……」  かろうじて相槌《あいづち》を打ってはいるものの、タルミトングウが何なのか、さっぱり知らないから、内心は冷や汗ものであった。 「そういうわけで、土山町では平安時代の王朝文化のことに詳しいひとを探しておるのです。あんたにはまさにうってつけでしょう、うん」  小島は自分で頷《うなず》いて、納得している。美佐子は慌てた。 「だめですよ、私なんか。平安文学っていったって、紫式部のことを少し研究しただけなんですから。ぜんぜん勤まりませんよ」 「まあそう言わんと、先方さんに会うだけでも会って、その上で、あんたがどうしても気に染まないいうのやったら、断ればよろしいでしょう」  なんとなくお見合いの話のような具合になってきた。  美佐子が躊躇《ためら》っているのを尻目《しりめ》に、小島は勝手に電話をかけてアポイントメントを取ってしまった。 「そしたら明日の十時に土山町へ行ってください。社会教育課に行けば、分かるようになっとりますので」  参ったなあ——と思ったが、とにかく出かけることにした。隣町といったって、水口町から見ると、土山町は山側に入ったところである。車で二、三度、国道1号線を通って三重県側へ抜けた以外、そっちのほうにはほとんど行ったことがない。  ただし、全国的に名が知られている点では、水口なんかより土山のほうがむしろ上なのかもしれない。峠の近くに鈴鹿の鬼退治で有名な坂上田村麻呂を祀《まつ》った田村神社という大きなお社がある。  人口は一万、水口より小さな町だが、江戸期から明治初期まで、東海道を京都から下って来て、最初の難関である鈴鹿峠にかかる手前の宿場として賑わった。有名な鈴鹿|馬子唄《まごうた》に〔坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る〕と歌われているほどだ。  いくら何でも、「タルミトングウ」について何も知らないのはまずいから、美佐子は出掛ける前に土山町の資料を調べてみた。それで分かったが、垂水頓宮というのは、五つあった頓宮のうちで現在その史蹟《しせき》の位置がはっきりしている、唯一の頓宮跡なのだそうだ。 (ふーん、そうなんだ——)とは思ったが、だからどうなのよ——という気もしないではない。  翌日、父の車を借りて、十時十分前に土山町役場の駐車場に到着した。車の中でバックミラーを見ながら化粧を直し、指定された十時きっかりには、社会教育課のドアをノックするつもりだ。同じ断るにしても、あとであれこれ言われないようにしたい——と、妙なところで几帳面《きちようめん》な性格が出る。  車から降りたところへ、「やあ、久米君ではないか」と声をかけられた。  振り向くと水口東高校時代の望田校長が立っていた。丸い顔に丸い銀縁のメガネをかけた、気のいいおっちゃんみたいな温和な風貌《ふうぼう》はその頃と少しも変わっていない。 「校長先生、ご無沙汰《ぶさた》しています」 「ははは、もう校長は辞めたのだよ」 「あ、そうだったのですか。ちっとも知りませんでした」 「二年前に退職してね、いまは土山に戻って、ここの文化財の調査に当たってます」 「えっ、先生が、ですか?」 「ははは、もともとそっちのほうが専門ですのでな。そうや、きみらに源氏の講義をしたことがあったでしょう」 「ええ、それがきっかけで、私も大学で源氏を勉強しましたけど……そうだったのですか、そしたら、先生が私を推薦してくださったのですか」 「は?……」  望田は(何のこっちゃ?——)という目で美佐子を見て、すぐに気がついたらしい。 「あっ、そうか、そしたら、調査委員会を手伝うてくれる人いうのは、きみのことやったのですか」  目を丸くして「そりゃええな」と嬉《うれ》しそうに言った。どうやらまったくの偶然だったようだ。その点はむしろありがたかった。紹介や推薦つきの就職は、いろいろ気兼ねをしなければならない。  とはいえ、高校時代の自分の資質を知っている望田校長の下で働くのは、べつの意味で気が重い。 「じつは、私はこのお話、お断りしようと思って来たのです」  美佐子は思い切って言った。 「えっ、どういうことやね?」 「斎王だとか頓宮《とんぐう》のことなんか、ぜんぜん知識がないですし、何のお役にも立ちませんので」 「何を言うてるのかね」  望田はうろたえて、「ま、とにかく、ここでは何やから、中へ入ってくれませんか」と先に立って歩きだした。  社会教育課の部屋へ行くと、担当職員が望田の顔を見て立ってきた。「まもなく見える思いますが……」と言いかけるのに、望田は「この人や、この人や」と美佐子を指さし、さっさと応接室へ案内した。 「大学で王朝文学を専攻しとった女性が来てくれるいうもんで、大いに期待しとったのですよ」  望田はソファーに坐《すわ》るなり、昔のままのせかせかした口調で切り出した。 「土山町から大学へ行った若者は、みな東京やら大阪やら、現地で就職してしもうて、安月給の文化財調査委員会みたいなところには誰も来てくれんのでねえ。それで、あちこち手を回して探しよったら、京都の大学で王朝文学を専攻した女性がいてはるいうので、すぐに申し込んだんや」 「でも、私は斎王のことなんか……」 「そやから、そんなもんぜんぜん気にせんかてよろしいがな。とにかく王朝文学をやっとったいうだけでも、この際、ダイヤモンドみたいに貴重なんやから」 「私がダイヤモンドですか?……」  美佐子は思わず笑ってしまったが、望田は真面目《まじめ》そのものである。 「いや、これはお世辞でもなんでもない。ほんまに有能な人がこの委員会に参加してくれるいうことは、ありがたい。何しろ、垂水頓宮いうのは、当土山町のみならず、日本全体を通して考えても、じつに価値の高い史蹟《しせき》でしてな。斎王の群行いうのは、何百年ものあいだ行なわれとったにもかかわらず、はっきり頓宮跡として現存しているのは、垂水頓宮だけなんやから」 「そうだそうですねえ」 「そやからして、一刻も早く垂水頓宮を調査し、併せて土山町の史蹟やら古文書のたぐいを、きちんと整理せなならんのです。よろしいな」 「はい、分かりました」  詳しいことは分からないなりに、望田の熱弁に圧倒されたように、美佐子も少し心が動き、こっくりと頷《うなず》いてしまった。     2  四月一日から、久米美佐子は土山町の文化財調査委員会に勤めはじめた。隣町といっても、水口町の自宅から車で二十分ばかりの距離である。東京あたりの、片道一時間も二時間もかけての通勤とは較べようもない。調査委員会室は役場の建物ではなく、少し離れた高台にある文化ホール内にある。真新しい建物で窓からの眺めもよく、気分のいい勤め先であった。  とはいえ仕事は手探り状態。最初はとにかく、斎王の何たるかを、あらためてイロハのイの字から勉強しなければならなかった。  斎王(または斎宮《さいくう》=いつきのみこ)とは、天皇に代わって伊勢神宮の神に仕えるために、宮中から派遣される皇女のことである。記録に残る最初の斎王は、天武《てんむ》天皇の娘であり大津|皇子《みこ》の姉である大来皇女《おおくのひめみこ》。以来、南北朝のころ、朝廷が力を失うまで、約六六〇年のあいだその制度はつづいた。  斎宮《さいくう》というのは斎王の住居である御殿や事務を司《つかさど》る斎宮寮《さいくうりよう》の総称でもあり、そこにはおよそ五百人にのぼる官人が、祭祀《さいし》や日々の生活を営むための業務に従事していたといわれる。斎宮がどこにあったのか、正確な位置は長いあいだ不明だったが、昭和四十五年ごろ、伊勢神宮の少し北にある三重県|多気《たき》郡|明和《めいわ》町で「斎宮」跡が発掘された。その規模は想像を上回る壮大なもので、現在もなお、発掘調査がつづけられている。  ところで、斎王の任期はとくに定まっていない。天皇の譲位もしくは崩御、または近親者に不幸や不祥事などがあったとき、斎王は解任され、新しい斎王が都から送られることになる。大津皇子が反逆罪で刑死した際には、大来皇女が斎王を解任され、伊勢から大和《やまと》に帰った。万葉集にある有名な「うつそみの人にある我や明日よりは二上山《ふたかみやま》を弟背《いろせ》と我れ見む」はそのときに詠まれた歌である。  斎王は原則として天皇家の皇女の中から、卜定《ぼくじよう》によって選ばれ、ただちに自邸の中で隔離された生活に入る。この生活は宮中に設けられた初斎院、都の郊外|嵯峨野《さがの》の野宮《ののみや》へと場所を移し、足掛け三年におよび、その間きびしい慎みの毎日がつづく。  三年目の秋九月、斎王は伊勢神宮の神嘗祭《かんなめさい》に合わせて都を出発、伊勢に向かう。  その日が来ると、斎王は野宮を出て、桂川で禊《みそぎ》を行ない、平安宮に入り、大極殿《だいごくでん》での発遣《はつけん》の儀式に臨む。天皇は高御座《たかみくら》ではなく平床の座で斎王を待ち、手ずから御櫛《みぐし》を斎王の額髪に挿す。つまり、斎王を天皇自身と同格と認め、伊勢神宮の祭祀《さいし》を依頼するわけだ。このとき、天皇は「都の方に赴きたもうな」と別れの言葉を告げる。都には帰って来るなという意味である。  こうして斎王は都をあとに、五泊六日の旅に出る。総勢およそ五十人の行列で、これを「群行《ぐんこう》」と呼ぶ。近江国府《おうみこくふ》、甲賀、垂水、鈴鹿、壱志《いちし》の五カ所に頓宮(仮の宮)があったと伝えられているが、現在は土山町の垂水頓宮跡を除くほかの四カ所は、正確な位置が分かっていない。  以上が斎王に関する基本的な知識である。六六〇年もつづいた斎王群行の史蹟《しせき》が、まったくと言っていいほど残っていないのだから、その中で、かろうじて痕跡をとどめていた垂水頓宮跡を、望田が「貴重な文化財」と力説するのは当然といえる。  土山町に勤めるようになった二日目に、美佐子は垂水頓宮跡を訪ねてみた。  国道1号を水口のほうから来ると、旧東海道と国道1号線の合流点に近い、白川橋の手前、国道の左手奥に頓宮跡はある。片側二車線の広い直線路なので、注意していないと行き過ぎてしまいかねないが、「垂水頓宮跡」の看板が出ている。  国道から二百メートルほど茶畑の中の道を行くと、檜の繁る森がある。百メートル四方ばかりの小さな森だが、畑の中にそこだけが取り残されたような鬱蒼《うつそう》とした森には、なんとなく異様な雰囲気が漂っていた。  すぐ近くの国道はひっきりなしに大型トラックが通り、周辺の風景は明るく牧歌的なのだが、一歩森の中に入り込んだとたん、美佐子はひんやりした気配を感じて、思わず周囲を見回した。  檜はそれほど大きな木ではない。もちろん古い木は朽ち、新しい芽が育ち、大木になり、また倒れ朽ち——と、幾世代も生まれ変わってきた森なのだろう。地面にはほとんど土のように平らに磨耗してしまった切り株の残骸《ざんがい》が残っている。それにしても、下草がほとんど生えない暗い森は不気味だ。  森の中央に、鰹木《かつおぎ》を載せた、祠《ほこら》といったほうがよさそうな小さな社が建っている。足の運びを早めようとしたとき、祠の向こうからゆっくり現れた人影を見て、美佐子は立ち止まった。  男が二人——その一人は望田であった。もう一人は望田と同じくらいの年配で、ベージュの薄手のコートを着ている。もちろん、美佐子の知らない顔だ。  二人とも腕組みをして、何やら深刻そうな表情で地面を見つめている。三十メートル程度しか離れていないのだが、よほど話に熱中しているのか、美佐子が来たことに気づかない様子だ。くぐもった声がかすかに聞こえるけれど、話の内容までは聞き取れない。  会話を妨害するのはいけないような気がして、美佐子は歩みを停めたきり、動けなくなった。  そのうちに、見知らぬ男のほうが天を仰ぎ「呪い殺す気かな……」と乾いた笑い声で言った。一瞬遅れてふっと望田の視線がこっちに向いた。まるでいたずらを見つかった少年のように、ギョッとした狼狽《ろうばい》の色が望田の顔に走った。美佐子は理由もなく、気まずさを感じながら頭を下げた。  望田は相手の男に二言三言、何かを囁《ささや》きかけた。相手の男も美佐子を見たが、べつに挨拶《あいさつ》をするでもなく、無表情で望田に言葉を返すと、腕組みをほどいた手をコートのポケットに突っ込み、美佐子に背を向けて歩きだした。あまり面と向かいあいたくない気配があるのを、美佐子は感じ取った。 「なんや、来とったんかね」  望田は笑顔を取り繕って、こっちにやってきた。 「ええ、頓宮を見ておきたかったものですから」 「それはちょうどよかった。そしたら、私が解説して上げようかね」 「はい……でも、お邪魔ではなかったのですか?」 「ん? ああ、いや、べつに構わんです」  望田は「行こか」と美佐子を誘って、ふたたび祠に向かった。 「この祠は割と新しいみたいですね」  美佐子は言った。 「ああ、そうやね、まだ二十年ばかしかな。垂水頓宮跡を保存する象徴として、建てたもんや。もちろん、斎王の霊を祀《まつ》る信仰の対象にもなっておるけどね」  祠の前には小さな賽銭《さいせん》箱が置いてある。美佐子はあまり信仰心の深いほうではないが、一応、礼儀として、賽銭箱に十円玉を入れて拝礼した。  祠の背後の空き地に、周辺に四本の細い柱を立て、しめ縄《なわ》を巡らせた、深さが五、六十センチ程度の窪《くぼ》みがある。 「これは頓宮当時に掘られた井戸のなごりやそうや」  望田にそう言われてみると、たしかにそれらしく見える。この井戸の水で、斎王が禊《みそぎ》を行なったのだろうか。 「でも、この森にしろ井戸の跡にしろ、七百年近くも、よく残っていましたね」  美佐子は感心して言った。 「そう、それは私も不思議に思ったのだが、たしかにここの佇《たたず》まいは、私が子供のころと少しも変わっておらんのだねえ。いや、森の木の大きさや形は変わったのだろうが、それがほとんど分からない程度でしかない。戦後のドサクサで、材木が欲しいさかりでも、この森には手をつけんかったようだなあ」 「ふーん、そうなんですか。どうしてなのでしょう?」 「祟《たた》りを恐れたのやね」 「祟り?」 「この土地は、一般庶民は頓宮とは言わず、御古址《おこし》と言うとった。いや、いまでもそう呼んでいる。地元の人間たちは、何かよう分からんなりに、天皇家にまつわる特別の場所であり、神聖にして冒すべからざる土地であることを、先祖代々|弁《わきま》えてきたいうことやな」 「でも、祟りがあるっていうのは、本当のことなのですか?」 「さあなあ……いや、もちろん祟りなどというのは迷信とせなあかんのやろけど、しかし、いろいろ言い伝えを聞くかぎりでは、いちがいにそうとも言いきれんものがある。げんに、昔、この辺りで……」  望田は言いかけた言葉を喉《のど》の奥に戻した。 「何かあったのですか?」 「ん? あ、いや、三年ばかし前だが、そこの道路で車にはねられたイヌの死骸《しがい》を、森の中に捨てた運転手が、鈴鹿峠で事故死したことがあってね」 「でも、それやったらイヌの祟りとちがいますの?」 「いや、イヌをはねたのはべつの車だった。死んだんは、善意で死骸を片づけた人や」 「それはひどいわ、気の毒やないですか。祟るほうが間違《まちご》うてますよ」 「おいおい……」  望田は周囲を見回しながら、慌てて美佐子を制した。 「ここでそんなことを言うたらあかんよ」 「あら、誰も聞いてませんよ」 「そうやない、聞いてはるかもしれん」  望田は首をすくめた。「聞いてはる」と尊敬語を使ったことに、美佐子は奇異な感じがした。 「聞いてはるって、先生は斎王さんのことを言うてはるのですか?」 「ああ、まあそういうことやね」  さすがに照れ臭そうな苦笑を浮かべながら、望田は言った。 「でも、斎王さんが祟るわけはないのとちがいますか? 頓宮いうのは、単に斎王さんが旅の途中、一夜の宿をとりはったところでしかないのでしょう? べつにお墓があるわけやないし」 「いや、お墓はないが、霊魂はこの地に残っておるのかもしれんのです」  望田は真顔になって、言った。 「斎王さんがどなたも喜んで伊勢神宮へ行かれたわけやないのやさかいな。内親王さんいうても、まだ五つか六つのいたいけな嬢ちゃんもおられたし、あたら青春真っ盛りの乙女もおられたやろ。宮中の華やかな暮らしや、ひょっとすると恋人とも別れて、神に仕える身になるいうのは、やっぱりご本人にしてみれば、つらいものがあったにちがいない。悲しい悲しいと思いながらここまで旅してきて、明日は鈴鹿越え。鈴鹿峠を越えれば、そこから先はもう都の風の吹かないべつの世界や。そうでなくても、慣れない道中、急病にかかるいうこともあったやろしな。実際、群行の途中で亡くなられた斎王さんがおられたいう話も、伝えられておるのです」 「そうなんですか……」  美佐子は首筋にひんやりしたものを感じた。望田の言うように、何人も亡くなった斎王がいるのなら、この垂水頓宮で亡くなったケースがあっても不思議ではない。 「こんな寂しい山の中で亡くなったら、ずいぶん心残りなことやったでしょうねえ」 「ああ、それは死んでも死にきれん思いをされたことやろなあ。その想《おも》いはいつまでも残っておるかもしれん」  望田は自分の言った言葉に、また寒そうに首をすくめてみせた。     3  御古址からの帰り途《みち》、美佐子は望田と別れ、独りで土山の町を散策してみることにした。この町の施設に勤めるからには、多少は町に関する知識を仕込んでないと申し訳ない。  美佐子が生まれ育った水口町も相当な田舎だと思っていたけれど、土山はそれよりはるかに田舎であった。田園の中にポツンポツンと集落がある、町というよりは村といったほうがぴったりするような、牧歌的で、のどかな風景だ。  町の中心は役場のある辺りだが、中心といっても、それほど大きくない集落である。国道1号線を境に役場のある側が北土山、反対側を南土山という。かつて宿場町だった本来の土山は南側のほうで、北土山はいわゆる新開地。ゆるやかな斜面に役場をはじめとする公共的な建物が点在している。  南土山は国道から二百メートルばかり南に下がったところを通る旧東海道沿いに、細長く連なる家々の集落である。  灯台もと暗し——で、いままでは隣町のことにまったく関心がなく、垂水頓宮すら知らないくらい知識もなかったが、この辺りには宿場町の面影がたっぷり残っているのであった。  鈴鹿峠を越えた向こう側の三重県|関町《せきちよう》は、古い町並みの保存が行き届いて、宿場町として観光名所になっているけれど、滋賀県側にもちゃんとした宿場町が現存していることを、美佐子ははじめて知った。  町でもそれを観光の目玉にしようと、旧東海道の雰囲気の再現に努めているらしい。南土山の集落に入る手前の、人家が疎《まば》らな畑の中を行く何の変哲もないような道の両側に松並木を植えて、昔の面影を復活させようと試みている。道はアスファルト道路だし、松が成長して、かつての街道の雰囲気を取り戻すまでには、この先何十年もかかりそうだが、それなりに観光政策に腐心している様子が窺《うかが》える。  松並木を過ぎて町中に入る。二階家ばかりの平面的な町並みである。ほとんどの家々が新建材の安っぽい建物だけれど、中にところどころ、宿場当時をしのばせる古い佇《たたず》まいが残されている。瓦葺《かわらぶ》き白壁の土蔵のような二階部分、細かい格子戸と格子窓のはまった一階部分——という、いまにも中から丁髷《ちよんまげ》姿の番頭か、お女郎さんでも現れそうな建物が五、六軒つづく。  本陣だった家の前後は、とくに昔ながらの風景を彷彿《ほうふつ》させる。本陣の建物の前には由緒を書いた看板も出て、あたかも観光用施設のようだが、ここはふつうの民家なのであって、いまも本陣の子孫が住んでいる。  本陣の少し先に、畳一枚分ほどもある、渋い草木染の日除《ひよ》け暖簾《のれん》を、間口の両側に下げた茶店があった。右手の暖簾には大きな文字で「茶」と書いてある。そういえば土山は滋賀県下一の茶の産地と聞いたような気がする。頓宮跡の周辺も、一面の茶畑であった。  もう一方の暖簾には、鈴鹿|馬子唄《まごうた》を染め上げてある。「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」という、民謡としては全国的によく知られたものだ。  暖簾の奥に、初老に近いおばさんが一人、ひまそうな顔で店番をしている。美佐子は軒下の緋毛氈《ひもうせん》を敷いた縁台に腰を下ろして、お茶と「茶々丸くん」という名物のまんじゅうを注文した。  まんじゅうは平凡だが、お茶のほうはとろんとした、風味のいいお茶であった。  この旧道は幅がせいぜい四メートルほど。車はもちろん、人通りもごく少ない。腰を下ろして十分以上も経つのに、古い乳母車に買い物を積んだおばあさんが一人、のんびりと通って行っただけだ。春の陽射《ひざ》しが穏やかに舗道に降りそそいで、眠たくなるような昼下がりであった。 「こんにちは」  頭の上で声がして、ふり仰ぐと、男が店に入ってきて、女の一人客に戸惑ったような顔をしながら、「どうも」とお辞儀をした。  美佐子も反射的に頭を下げた。  三十歳を少し越えたぐらいだろうか、地元の人間らしく、馴《な》れ馴れしい様子で奥のほうに「おばさん、おれにもまんじゅうとお茶をくれんか」と声をかけた。 「なんや、明正さんかね。またサボッとるんかいな」  おばさんは厭味《いやみ》を言いながら、それでもお茶を入れてきた。 「ここ、いいですか?」  明正と呼ばれた男は縁台の空いたところを指さして言った。美佐子は(いやだな——)とは思ったけれど、べつに借りきったわけではないから、「ええ、どうぞ」と答えるしかない。  男は縁台に腰掛けて、無造作な手つきでまんじゅうを頬張《ほおば》り、お茶を飲んだ。 「あんた、さっき、御古址《おこし》のところにおったひととちがいますか?」  男は、まるで値踏みするような無遠慮な目で美佐子を眺めながら言った。 「ええ、そうですけど」 「観光客やなさそうやし、見かけない顔のひとやし、どういう?……」  執拗《しつよう》に問い質《ただ》そうとするのに、おばさんが「うちのお客さんに、失礼なことせんといてんか」と文句をつけた。よほど遠慮のない間柄らしい。 「土山町の文化財調査委員会いうところに勤めております」  美佐子はおばさんの言葉に、かえってあおられたように言った。 「ああ、そしたら望田先生のところにきたいうのは、あんたですか」 「ええ、久米美佐子といいます」  美佐子が畏《かしこ》まって、あらためてお辞儀をすると、男も慌てて頭を下げ、「長屋です。長屋明正いいます」と自己紹介をした。 「そうでっか」と、おばさんがお茶を注ぐ手を停めて、まじまじと美佐子を見つめた。 「おたくさんが望田先生のところに見えた方ですか」 「はあ……」  美佐子は面食らってしまった。自分が文化センターに勤めることが、町の中でこんなに注目されているとは考えてもみなかった。 「失礼やけど、久米さんいいましたか、おたく、どこのひとです?」  長屋明正が訊《き》いた。 「水口の者です」 「ふーん、水口のひとかァ……」  青年は空っぽになった茶碗《ちやわん》を覗《のぞ》き込むようにして言った。どことなく、意味ありげな口振りが、美佐子には気になった。 「そのことなんですけど」と、美佐子は思いきって言ってみた。 「文化財調査委員会が、土山町のひとでなく、私みたいな余所《よそ》者を採用したのは、どうしてでしょうか?」 「そんなもん、どこのひとを採用しようと、自由と違いますか?」 「そうでしょうか。自治体の人事のことはよく知りませんけど、ふつうは自分の町の中から採用すると思ってましたが」 「けど、誰もなり手がいなかったんやから、仕方ないのやろねえ」 「ええ、私もそう考えていました。文化財調査の仕事っていうのは、ある程度、歴史だとか文学だとかに知識がないと勤まらない職種で、それに適した人が土山町にはいなかったいうことかと思ったのです。でも、私だって大した知識があるわけでもないし、それやったら、誰でも勤めることができるのやないかって思って……」 「ふーん、そしたら、あんた何も知らんと、引き受けたんか」  長屋は気の毒そうな顔をした。 「何も知らないって、何のことですか?」  美佐子はいよいよ不安になった。 「まあ、こんな言い方したら悪いかしれんが、あんた、騙《だま》されたみたいなもんやな」 「騙された?……」 「そうや。なり手がないのは、みんながその仕事を嫌うたからですよ」 「えっ……」  美佐子は驚いた。 「嫌ったって、どういうことですの?」 「それは……あんた、文化財調査の仕事いうたら、御古址を調べるいうことですやろ? 誰かていやがりますがな。なあ、おばさん、そうやろ?」  長屋が視線を送った先で、店のおばさんも眉《まゆ》をひそめて頷《うなず》いた。 「そうですよ。うちの息子かて、ことし大学を卒業するいうので、役場からその文化財何やらに勤めへんか言うてきましたけど、仕事の内容を聞いて、すぐに断りましたがな。いまは大阪の会社に勤めております。勉強のようでけた子ォで、役場はずいぶん残念がって……」 「ちょっと待って」と、美佐子はおばさんの饒舌《じようぜつ》をストップさせた。 「御古址を調べるのが、どうしていやだっていうんですか? まさか、祟《たた》りがあるからなんていうのじゃないでしょうね?」 「あら、知ってはったのでっか? それを知っていて勤めはったのでっか……」  まるで美佐子が祟りそのものでもあるかのように、おばさんは薄気味悪そうに、しり込みした。 「いややわ、ほんまに祟りのことで、みんなが敬遠したんですか? あほらし……」 「あほらして……そないなこと言うたらあきまへんて」  おばさんは怖い顔になった。 「御古址いうのは、ほんまに恐ろしいところですよってな」 「ああ、それって、男の人が死んだとかいう話でしょう?」 「知ってはったのですか」 「ええ、望田先生に聞きました。イヌの死骸《しがい》を御古址に捨てた人が、鈴鹿峠で交通事故で亡くなったとか」 「ああ、それもあるけど、もっともっと、ずうっと昔にもな……」 「えっ、ほかにもあるのですか?」 「ありますがな、なんぼでも」 「なんぼでも?……」 「そうですがな。いちばん恐ろしかったんは、御古址の鳥居につぶされて死にはったことやねえ」 「えーっ、そんなこともあったんですか」  美佐子は寒気を感じて、肩をすくめた。 「ふーん、そしたら、やっぱし、何も知らんと勤めはったいうことでっか……望田先生も罪なことをしはって……」 「あら、望田先生が私を誘ったわけやありませんよ。水口の役場の人が……」 「そうかて、望田先生は誰ぞ勤めてくれる人はおらんかいうて、しきりに探してはりましたで」 「だからって、望田先生が私を騙《だま》したみたいな言い方をしたら、叱《しか》られますよ」 「そらま、そうですけど……いえ、おたくさんがそれでいい言わはるのやったら、わたしらは何も言うことはありまへんけど」  おばさんは余計なことに関わりあった——と後悔するような顔で引っ込んだ。 「どないです、面白い話でしょう」  黙って、二人のやり取りを聞いていた長屋が、ニヤニヤ笑いながら言った。美佐子を見る目に、いたずら坊主のような、からかう気配を感じて、美佐子は不愉快だった。 「面白くなんかありませんよ」  美佐子は視線を反らして、八つ当たりぎみに言った。この不愉快の原因は、何もかもこの長屋という男がもたらしたような気がしてきた。 「そんな、祟りだとか、迷信で仕事を敬遠するなんて、時代錯誤もいいところです」 「ははは、たしかに時代錯誤やねえ。けど、この町では誰でもそう信じておりますよ。そやから、いろいろ面白い」  長屋は愉快そうに言う。美佐子のことばかりでなく、町の人間の迷信まで、ばかにしきったような、皮肉たっぷりの口調だ。 「とにかく、私はそういうものは信じない主義ですから」  美佐子はそう宣言すると、スカートの裾《すそ》を払うような勢いで立ち上がった。     4  茶店のおばさんと、あの長屋とかいう男の言った言葉が、美佐子の胸にトゲのように突き刺さって、いつまでも気になってならなかった。文化ホールの文化財調査委員会室に戻って、望田の顔を見ると、これまでと違った、こだわりを感じてしまう。 「どうやね、土山の町もなかなかええもんでしょうが」  望田は屈託なく話しかけた。 「ええ、宿場町の雰囲気が意外と整備されているのですね。茶店みたいなところで、おまんじゅうを食べてきました」 「ああ、あの店かね。あそこのばあさんはうるさい女だが、何か言うとったかな?」 「いえ、べつに……」  美佐子はさり気なく装って、話題を逸《そ》らすように言った。 「そうそう、茶店の暖簾《のれん》にも書いてありましたけど、鈴鹿|馬子唄《まごうた》の『坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る』っていう、あの『あい』って、どういう意味ですか? それと、『坂』というのは、どこのことを言っているのですか?」 「ほうっ、そこに疑問を抱いたとは、あんたもさすがやなあ」  望田は感心したように、老眼鏡をはずして美佐子を眺めた。 「えっ、そうなんですか? そんなにさすがなのですか?」 「ああ、立派なものです。大勢の人間があの鈴鹿馬子唄は知っておるが、そういう疑問をいだいた者は、まずごくまれやろね。そうですか、久米さんはええところに気ィつかれたなあ」  正直なところ、美佐子にしたって、そんなに疑問を感じたわけではないのだが、望田はしきりに感心してから、「あいの土山」について説明した。 「解釈はさまざまあるのやが、いずれにしても、鈴鹿馬子唄は、鈴鹿を中心とするこの地方特有の、気象状況が急変するさまを歌うていることだけは間違いないやろね。第一の説では、東海道を江戸から下って来て、関町の坂下宿辺りでは天気がよかったのに、鈴鹿峠にかかる辺りでは曇ってきて、峠を越えた土山宿では雨が降っておるいうもので、これがもっとも有力ということになっておる。この場合、『坂は照る照る』の『坂』は坂下宿のこと。また『あいの土山』いうのは、鈴鹿峠を挟んで坂下宿と相対する土山いう意味ですな。しかし『相対する』を『あいの』と歌うかどうか疑問視する説もある。そこで第二の説は、土山宿は東海道五十三次の宿駅を設定する以前は間の宿——つまり本宿に対してそういう呼び方をしたとするものだが、これはいささか眉唾《まゆつば》ものかもしれんな」  望田は水口東高校時代の講義の口調になって、気分よさそうに話している。美佐子のほうも、ちょっと懐かしい想《おも》いをいだきながら、望田の話に耳を傾けた。 「三つ目の説は、『坂』いうのは坂下宿のことでなく、土山と水口のあいだにある『松尾坂』のことではないかいうものだが、調べてみると、その松尾坂いうのがどこかはっきりせんのやね。北土山と頓宮のあいだに松尾いう地名があったいう話を聞いたこともあるが、現在の地図には載っておらんし、かりにそこの坂が松尾坂だとすると、土山宿のほんの隣みたいなもので、鈴鹿と土山との距離と対比して考えるのはかなり無理があるでしょうな。もっと無理な解釈は、『あいの』を『あいのう』——つまり『間なし』、ひっきりなしに降るさまを言うたという説。さらには山間の間や山峡の峡を『あい』と言うたのであって、土山の地形が谷間だからという説。そのほかいくつかの説があるが、やはり最初の、坂下宿の向かい側いう説が、もっとも妥当やないかな」  聞き終わって、望田よりも美佐子のほうが「ふーっ」とため息が出た。 「馬子唄みたいな素朴なものでも、研究してみると、ずいぶんいろいろな解釈があるものなんですねえ」 「そうやなあ。ふだん何となく見聞きしているものでも、発生のルーツを辿《たど》れば、いろいろな謎《なぞ》や真実が見えてくる。そこにこそ、考古学やとか文化財調査のような活動の必要性があるいうことやね」  望田は話の結論が言えたことに満足したのか、水口東高の校長時代によく見せていた、独りで「うん」と頷《うなず》く癖が出た。  一つ知識が増えたのはいいが、もう一つの疑惑のほうが、美佐子にとっては重大な問題だ。  茶店のおばさんと、あの長屋とかいう男が言っていた、祟《たた》りを恐れて、誰もなり手がないから——ということが、ほんとうに自分を採用した理由だったのだろうか。  美佐子としては、大学で学んだ王朝文学への造詣《ぞうけい》の深さが買われた——と思いたいところだが、事実はそんな美しいものではなさそうだ。茶店のおばさんの息子のように、この土山町にだって、ちょっと探せば、この程度の仕事が勤まる人間なんか、いくらでもいるにちがいない。  それにしても、町の人間すべてに敬遠されるほど、御古址を調べたりするのが、そんなに恐ろしいことなのだろうか? そうだとしたら、その恐ろしい仕事を押しつけられて、ホイホイと喜んでいるのは、まるで馬鹿丸出しではないか。  美佐子はたまらなくなって、訊《き》いた。 「先生、御古址を冒涜《ぼうとく》すると、ほんとに祟りがあるのでしょうか?」 「ん?……」  望田はデスクの上の調べ物を再開したところだったが、メガネ越しにこっちを見て、少し困った顔になった。 「ははは、そうまともに訊かれると、答えように窮するが……」 「いま聞いてきたんですけど、ずっと昔に、御古址の鳥居の下敷きになって死んだ人がいたそうですね」 「ん?……」  望田は眉《まゆ》をひそめた。 「まあ、確かにそういう事例があるにはあるが……あれは嵐《あらし》の夜やったし、ずいぶん古い鳥居やったので、たまたま運悪く、そういうことになったのやろうけど」 「でも、その人、嵐の夜に、何でまたあんなところに出掛けたんですか?」 「さあなあ……わしは詳しいことは知らんのだが、賽銭《さいせん》泥棒をしとったらしい」 「賽銭泥棒……」  じゃあ、罰が当たっても仕方がないか——と、美佐子までがそう思いたくなった。 「そうなんですか……それで誰も、ここの職員になりたがらなかったのですね」 「ん?……」と望田は、驚いたように、メガネ越しに美佐子を見つめた。 「久米さん、あんた、誰にそんな話を聞いてきたのかね? 茶店のおばさんかね?」 「え? いえ……」  美佐子は告げ口をするようで、気がさした。「おばさんだけでなく、男の人もそう言ってました」 「男って、あそこの息子かね?」  望田は不快そうに眉をひそめた。望田の調査委員会への誘いが、茶店の息子に断られたという経緯を思い出して、美佐子は慌てて否定した。 「いえ、息子さんじゃありませんよ。お客さんです。長屋さんとかいう地元の人です」 「長屋というと、材木屋の長屋かな?」 「さあ、材木屋さんかどうか知りませんけど、三十二、三歳の男の人です」 「ああ、それだったら長屋明正やな。困った男だ。美人というと、すぐにちょっかいを出したがる」  望田に「美人」と言われたのを、美佐子は素直に喜ぶ気にはなれない。 「そうじゃないみたいですよ。そのひと、私と先生が御古址にいるところを、見ていたらしいのです」 「ふーん、そうですか……まったく油断のならんやっちゃな。しかし、とにかくあんた、気をつけてくださいよ。彼はあまりたちのいい人間ではないからな」 「でも、おばさんとその人の言ったことは事実なのでしょう? つまり、御古址の祟りが恐ろしいので、誰もここに勤める者がいないというのは」 「そんなふうに言われたら、まるであんたを騙《だま》して勤めてもろたいうように聞こえて、わしの立つ瀬がないなあ。わしはただ、有能な人材がおらんか、水口東高校時代の知り合いを通じて、水口町役場に頼んでおいただけで、あんたを騙すなどとは……」 「いえ、そんな、騙されたなんて思っていませんけど……」  じつはそう勘繰っていないわけではなかっただけに、美佐子は無意識に声が小さくなった。 「ま、とにかく、外野が何を言おうと気にせんで手伝うてくださいよ」 「はい、それはもちろんそうさせていただきますけど……でも、祟りの噂《うわさ》はほんとうにあるのですねえ」 「ああ、それは否定でけんですな。いや、迷信と言うてしまえばそれまでやが、世の中には理屈だけでは割り切れんことがあるいうのも、また事実ですのでね」  望田は真剣な表情で強調した。  話はそれで一応の終止符を打ったが、美佐子の胸のうちでは、不気味さはだんだん深刻になってきた。望田のような、いわばインテリの立派なおとなが、いまどき祟りを信じているというのは、ただごとではない。 (いや、そうでなく、望田くらいの年配者だから迷信を信じているのだろうか?——)  美佐子が考え込んでいると、望田は分厚く重ねた資料の束を運んできて、美佐子のデスクの上に置いた。 「あんたにもそろそろ仕事に慣れてもらわなあかんな。斎王のことはすべて勉強する必要がある。とりあえず、この古文書の内容を整理してみてくれませんか。いや、急がんでもええのです。こういった古文書にひととおり目を通すことから、調査委員会なるものの性格を分かってもらうことが先決や」  大きな封筒に仕分けされた資料である。それぞれの封筒の表には「松山家二番蔵長持より」「大森家|鎧櫃《よろいびつ》より」といった具合に、発見された場所が明記されてある。  中身は和紙に書かれた記録文書で、たとえば「頓宮御記」と表題のあるものには、次のような文章が綴られている。 人皇五十八代|光孝《こうこう》天皇御代|繁子《しげこ》内親王伊勢斎内親王ニ御内定|元慶《がんぎよう》八年三月皇女繁子内親王ハ伊勢ニ穆子内親王ハ賀茂ニ斎内親王ニ定メラレル——略——  光孝天皇といえば、百人一首の「君がため春の野に出でて若菜摘む我が衣手に雪は降りつつ」の歌の作者で、歌意が分かりやすいせいか、美佐子はその歌が大好きだ。その光孝天皇のお嬢さんが、この土山を通って伊勢神宮に下られたのか——と、美佐子は遠い存在でしかなかった「斎王さん」が、にわかに身近なものに感じられた。  それにしても、積み上げられた古文書はかなりの数である。 「これを全部読むのですか?」  美佐子は目を丸くした。いくら急がなくてもいいと言われても——いや、急ぎたくても急ぎようがない。漢字は難しいし、漢文調の文体もとっつきにくい。 「ははは、見ただけで怖《お》じ気づいてしまうやろな。はじめは誰かてそうや。しかし、それが不思議なもんで、見慣れてくると、どんな難しそうな文書でもなんとか読めるようになります。半年もすれば、あんたも立派な研究者になっておるかもしれん」  望田は笑いながら言って、「そうや、基本的な知識として、この表も見とったほうがよろしいな」と、自分の机の引出しからB4判の紙にびっしり印刷したもののコピーを一枚取り出して、美佐子に渡した。  斎王一覧表——とある。  第十代|崇神《すじん》天皇にはじまる歴代天皇ごとの斎王について、)卜定《ぼくじよう》年月から退下年月にいたる要項が表になっていた。  初代斎王は豊鍬入姫命《とよすきいりひめのみこと》、第二代は垂仁《すいにん》天皇の皇女倭姫命《やまとひめのみこと》——そして第十代が天武天皇のときの大来皇女《おおくのひめみこ》で、はっきりした記録に残っている最初の斎王といわれる。  大来皇女に関する記述は次のようなものであった。   斎王御名——大来皇女   卜定年月——天武二年四月   父君御名——天武天皇   年齢————十四歳   野宮入年月—白鳳《はくほう》二年四月|泊瀬《はつせ》斎宮   群行年月——白鳳三年十月   退下年月——持統《じとう》朝・朱鳥《しゆちよう》元年十一月   退下理由——事故   在位年数——十三年七カ月  退下理由の「事故」とは、いうまでもなく、弟大津皇子の謀叛《むほん》・死罪のことである。わずか十四歳の身空で都を離れ、はるかな伊勢に送られた大来皇女は、文字どおり青春の日々をすべて神に捧げつくしたあげく、逆賊の姉として解任され、大和に帰った。  こうして無機質な数字だけの記録を眺めると、美佐子はかえって皇女の悲しみが惻々《そくそく》として伝わってくるような気がした。  第三十四代斎王の繁子《しげこ》内親王のときから、都は平安京に移っている。   斎王御名——繁子内親王   卜定年月——元慶《がんぎよう》八年三月   父君御名——光孝《こうこう》天皇   年齢————不詳   野宮入年月—仁和《にんな》元年九月   群行年月——仁和二年九月   退下年月——仁和三年十月   退下理由——天皇崩御   在位年数——一年二カ月  年齢は不詳だが、わずか一年少しの在位で任を解かれ、京都に帰ったのだから、おそらく十代なかばと推定できる。このように若くして退下した皇女は少なくなく、彼女たちの息女が皇女として斎王に選ばれるケースも多かったらしい。わが娘である斎王に付き添って、ふたたび伊勢に下った例もある。この本の冒頭に掲げた「世にふればまたも越えけり鈴鹿山昔の今になるにやあるらん」の歌を詠んだ「斎宮女御《さいくうにようご》」もその一人であった。  彼女のように結婚し御子までもうけたのは幸運というべきで、中には群行までに至る途中で不幸に見舞われた皇女もいた。  第三十九代斎王である、醍醐《だいご》天皇の英子内親王の記述にはこう書いてあった。   卜定年月——天慶九年五月   年齢————不詳   野宮入年月—不詳   群行年月——群行《ぐんこう》ヲ遂ゲズ   退下年月——天慶九年九月   退下理由——薨去《こうきよ》   在位年数——五カ月  在位年数がわずか五カ月ということは、まだ野宮にあって精進潔斎に務めていた時期だろうか。望田が言っていたように、伊勢に着く前に亡くなった皇女の例である。  また、花山《かざん》天皇のときの第四十五代・済子女王(御父・章明親王)も、やはり「群行ヲ遂ゲズ」であり、退下理由は「事故」となっている。いったいどのような「事故」があったというのだろう——。  王朝絵巻さながらの華やかな斎王の群行の中には、一転して思いがけない悲劇に襲われたケースもあったのだ。  長い旅の途中、斎王の死に遭遇したとしたら、群行の人びとは、さぞかし悲しみ、嘆き、うろたえたにちがいない。  また、斎王の亡骸《なきがら》はどうなったのだろう。頓宮の森のどこかに埋められたのだろうか。それとも、野末にお埋めするわけにもいかず、群行はそのまま葬列として都への道を辿《たど》ったのだろうか。  美佐子の脳裏には、野末を行く斎王の葬列が、陰鬱《いんうつ》に思い描かれた。  第二章 水漬《みづ》く屍《かばね》     1  長屋明正が文化財調査委員会を訪れた時、運の悪いことに、望田は外出していて、部屋には美佐子一人だけだった。 「先生、留守でっか。それは残念」  口ではそう言いながら、長屋はニコニコと嬉《うれ》しそうに美佐子のデスクに近寄った。 「あの、何か用事ですか?」  美佐子は露骨に警戒の色を見せて、先制攻撃のように訊《き》いた。 「もちろん用事ですよ。それも緊急を要する用事です」 「でも、望田先生がいらっしゃらないと、私では何も分かりませんけど」 「なに、伝えてもろたらいいのです。来週の火曜日から、この前言うた映画のロケが始まる予定や、いうことを」 「映画のロケですか?」  美佐子は意表を衝《つ》かれて、目を丸くした。 「この町で映画のロケがあるのですか?」 「そう、東京からロケ隊が来るわけ」 「どういう映画なんですか?」 「詳しい台本は見ていないけど、斎王《さいおう》さんをテーマにした、ファンタジックミステリーだとか言うとったですよ」 「斎王さん……」 「そやから、町の観光の宣伝にもなることだし、望田先生にいろいろ便宜をはかってもらうように頼んであるのです」 「じゃあ、あの御古址《おこし》で撮影なんかしたりするのですか?」 「ははは、まさか。したくたって、どうせ御古址を使わせてはもらえんでしょう。このあいだ、ロケハンに来た時に聞いた話では、滝樹《たぎ》神社の下の河原と、鈴鹿峠で撮影するとかいうことやった」  長屋は部屋の奥まで行って、勝手にポットから土瓶にお湯を注ぎ、お茶を入れた。 「あ、私が入れます」  美佐子が立ちかけるのを制して、「久米さんも飲みますか?」と、逆に訊いた。 「いえ、私はけっこうです」  断ったものの、美佐子は何となく一本取られたような気分であった。粗野な外見に似合わず、女の気持ちにスッと入り込んでくるような滑らかさが、長屋にはあるのかもしれない。望田が「気をつけろ」と言っていたのは、そのあたりの手練手管のことを指しているのだろうか。 「大したスターは使わないみたいやけど、監督の話によると、ストーリーはけっこう面白いそうですよ」  長屋は映画の話のつづきを言った。 「長屋さんは、監督さんと知り合いなんですか?」 「ああ、大学の時のポン友で、もともと、一緒に演劇をやっとった関係です」 「えっ、長屋さんて、演劇をやってはったのですか?」 「ははは、何やら信じられんいう言い方やねえ。こんな不細工なヤツがとか」 「そういうわけじゃないですけど」  慌てて打ち消したが、そう言われてみると、風貌《ふうぼう》はともかく、たしかに、長屋の少し崩れたような印象からは、演劇だとかタレントだとかいう匂《にお》いが感じ取れないこともなかった。 「まあ、よろしいがな。けど、僕はこう見えても大学の時から五、六年前まで、ずっと芝居をやっとったことは事実です」 「でも、どうして演劇を止めてしまったのですか?」 「うーん……まあ、いわく言いがたいことがいろいろあったいうこっちゃね」  天井を向いてそう言った時だけ、長屋ははじめて、本心かな——と思わせる、辛《つら》そうな表情を見せた。 「ところで久米さん」と、長屋は茶碗《ちやわん》を口に当てた恰好《かつこう》で、言った。 「このあいだ御古址にいてはったとき、望田先生と、もう一人、男がおったでしょう」 「ええ、いましたけど」 「そのとき、望田先生とその男が何を話しとったのか、聞いてませんか?」 「いえ、聞いてません」 「ほんまに?」 「ええ、嘘《うそ》言うたかて、しかたがないでしょう」  美佐子は思わず、ムッとしたような口調になった。 「ごめん、そういう意味やないのです。ただどんなことでも、ちょっとした言葉の端でもええから、聞いてなかったかと思って」 「何も聞いてませんよ。かなり離れてましたし、それに、小さな声で喋《しやべ》ってはったし……ただ、最後にちょっとおかしなことを言うてたかしら……」 「おかしなこと?」 「よう分かりませんけど、呪い殺す——とか何とか……」 「ふーん、呪い殺すでっか……」長屋はニヤリと笑った。 「あの人、お知り合いなんですか?」 「ん?……ああ、ちょっと……」  長屋は言葉を濁して、「ところで、今度、晩飯でもご馳走《ちそう》させてもらえませんかね」と言った。  とっさに美佐子は返事に窮した。 「こんな町にはろくなものがないから、大津か京都あたりまでドライブして。あ、そうや、久米さんは京都の大学やったな。旨《うま》い店には詳しいでしょう。教えてくれませんか」  いつの間に大学のことまで調べたのか、油断がならない。 「私は上等な店は知りません。いつもお好み焼きぐらいですから」 「お好み焼きでけっこうやないですか。どうです、今度の日曜あたり」 「いえ、ご遠慮します」 「ははは、えらい素っ気ないんやなあ。それは、あれでしょう。望田先生に何か言われとるのでしょう。あの男には気ィつけなあかんとか」 「ええ、まあ」 「ははは、はっきり言うひとやな。けど、僕はひとに言われるほど、悪い人間やないですよ。それに、御古址やとか斎王のことについてやったら、望田先生が知らんようなことも知っとるし、資料かて、貴重なものをいくつか隠し持っておるのです」 「資料というと、斎王のですか?」 「もちろん」 「どういうものですか?」 「それは秘密や」  長屋はいたずらっ子のような目で笑った。 「でも、もしそういう資料があるのなら、町の文化財として、ぜひとも提供してくださるべきじゃないですか」 「そうやねえ、そうしてもええけど、それには一つだけ条件がある」 「条件と言いますと?」 「そやから、久米さんが食事に付き合うてくれれば、いうこっちゃね」 「そんな、冗談言わんといてください」  美佐子は苦笑した。こうあけすけに迫られると、怒る気にもなれない。 「冗談とちがいますよ。ほんまの話、僕は久米さんにひと目惚《めぼ》れやね。いちどでもいいよって、付き合うてくださいよ」 「そんなこと言って、奥さんに言いつけますよ」 「ははは、僕には奥さんみたいなもん、おりませんよ。そやから真面目《まじめ》に付き合うてもらいたい言うてるのです」 「えっ、長屋さんて、独身なんですか」  妙なものである。そのことを知っただけで、長屋に対する感情が微妙に揺れるのを、美佐子は感じた。それは好き嫌いの感情とはべつのものらしい。 「ね、頼みますよ。こん次の日曜があかんかったら、その次でも、そのまた次でもいいから、ぜひ付き合うてください」  長屋が頭を下げた時、望田が戻ってきて、「何をしてるんやね?」と言った。 「あ、先生、ちょうどよかった。いま、例の映画のロケのことで頼みに来たところです。来週の火曜日にロケ隊が来ますので、よろしくお願いします」 「ああ、そのことやったら、観光課のほうにも言っといた。御古址以外の場所やったら、べつにどう使おうと勝手やいうことだ。ただし、警察の許可がいるかどうかは、わしは知らんけどな」 「そっちのほうは、ロケ隊のほうで許可を取る言うてました」  長屋はよほど望田が苦手なのか、「それじゃ」とお辞儀をすると、そそくさと部屋を出て行った。 「あいつ、ほんまはあんたの顔が見とうて来たんやろな」  望田は苦い顔をして言った。 「まさか……」 「いや、そうに決まっとる。あいつが中学のころ、わしはここの中学校長をしとったから、あの男の性格はよう知っとるのです。その時分から女の子には異常に親切なところがあった。もっとも、そのころは勉強の出来る生徒やったけどなあ。どうも、東京の大学へ行ってから、何かあったらしくて、町に戻ってきた時には、すっかり荒れておって、おふくろさんは、えらい苦労しとる」  望田は気がかりそうに美佐子を見つめて、訊《き》いた。 「長屋のやつ、映画のこと以外に、何か言うとったのとちがいますか?」 「そういえば、何か、貴重な資料を持っているとか言ってました」 「貴重な資料?」 「ええ、先生もご存じないような物だそうです」 「わしが知らん物? それはまさか、御古址に関係する物やないでしょうな」 「さあ……それらしいニュアンスでしたけど、はっきりしたことは言いませんでした」 「うーん……」  望田は腕組みをして、鼻の頭に皺《しわ》を寄せ、唸《うな》り声を発した。 「ひょっとすると、噂《うわさ》はほんまのことかもしれんな」 「噂って言いますと?」 「いや、長屋が御古址を盗掘しとるいう噂があったんや」 「盗掘ですか?……というと、御古址には何か、文化財的な物が埋まっているのでしょうか?」 「それは分からんが、長屋が思わせぶりなことを言うところを見ると、その可能性も考えられんことはない」 「でも、そんな盗掘みたいなことをしたら、祟《たた》りがあるのとちがいますか?」 「ん?……ああ、あるかもしれん……ははは、あんたもとうとう祟りを信じる気になったですかな」 「えっ? いえ、そういうわけじゃありませんけど」  否定はしたものの、美佐子はその時、たしかに、長屋の身に御古址の祟りが下されることを想像していた。  その日の帰り、美佐子が駐車場に行くと長屋が車を寄せてきた。窓から首を突き出すようにして「どうですか、ドライブに行きませんか」と言っている。 「だめです、予定がありますから」  美佐子は素っ気なく言って、自分の車に乗った。  長屋はめげる様子もなく、車を出ると、美佐子の車の前を横切って、助手席側のドアを開けた。美佐子が慌てて「だめですよ」と言う間もなく、スルリと入り込んできた。 「じつは、あんたに見せたい物があるのやけど」 「何ですか?」 「そんなふうにあっさり訊かれて、はいはいと見せられるような物と違いますよ。とにかく、あっと驚くような貴重品です」 「ああ、分かりましたよ、それ」  美佐子が言うと、長屋は「えっ?」と目を丸くしたが、すぐに「ははは、あんたが知っているはずはないでしょう」と笑った。 「知らなくても、だいたい見当がつきます。それはあれでしょう、御古址で盗掘した埋蔵品でしょう?」 「ほうっ……」  図星だったとみえて、長屋は少し背中を反らすようにして、美佐子に視線を注いだ。 「あんた、誰にそんなこと聞きました? ああ、そうか、望田先生か」 「違いますよ」 「いや、隠さんでもよろしい。望田先生以外には、あんたがそういう話を聞くような相手はおらんやろからね」 「じゃあ、やっぱりそうなんですか? 盗掘したんですか?」 「盗掘とは人聞きが悪いなあ。何やら盗んだように聞こえるやないですか」 「でも、事実そうなのでしょう? でなかったら、どこで見つけたものですか?」 「ははは、それは言えへんな。出所は秘密にしときます。けど、貴重な品であることだけは事実ですよ。どうです、見たいことないですか?」 「それは興味はありますけど」 「それやったら、付き合うてくれてもいいでしょう」 「それとこれとは別の話です」  美佐子は長屋のしつこさが、いいかげん不愉快になってきた。「とにかく、帰らななりませんので、降りてくれませんか」 「冷たいひとやなあ」  長屋は苦笑して、「そんな邪険にすると、恨《うら》まれて、呪《のろ》い殺されまっせ」と言った。 「どういう意味ですの? それ?」  冗談にも、呪い殺すとは穏やかでない。美佐子は本気で怒っていることを示すきつい目で、長屋を睨《にら》んだ。長屋は笑って、「おお、こわ……」と首をすくめたが、それでも本心からめげたわけではないらしい。すぐにしらっとした顔になって言った。 「そしたらバラしてしまうけど、僕が見せたいいうのは、ヒトカタシロ。そやから呪い殺すいう冗談を言うたのです」 「ヒトカタ……何ですか、それ?」  瞬間、聞き取れなくて、美佐子は訊き返した。 「ヒトカタシロ……あれ? 久米さん、知らんの?」  長屋は意外そうな目を美佐子に向けた。まるで、知らないことが犯罪ででもあるかのような口ぶりであった。 「知りませんよ。私は無知な女ですから」  美佐子が拗《す》ねたように言うと、長屋は慌てて手を横に振った。 「いや、そんなふうには思わんけど……そうでっか、久米さんは大学で考古学を専攻したひとかと思っとったもんやから」 「違います。私は国文学、それも平安文学をちょっとかじっただけです」 「そうやったんか……それじゃ興味はないかもしれんなあ」  美佐子が知らない物をエサにしても効果がないと悟ったのか、長屋はがっかりしたような吐息を残して、車を出て行った。  それでもう諦《あきら》めたのかと思ったが、長屋は木曜日も勤め帰りの美佐子を待って、駐車場にやってきていた。例によって「やあ」と陽気に手を上げたが、美佐子は軽く会釈をしただけで、取り合わないことにした。  美佐子が車を走らせると、長屋は後ろからついてきて、まるでボディガードのように、美佐子が自宅に帰り着くのを見届けてから、安心したようにUターンして行く。それ以上のことは何もしないのだが、それはそれで、かえって薄気味が悪かった。  三日目の金曜日には、美佐子の自宅の前に着くと、車から降りてきて、「明日か明後日、付き合うてくれへんか?」と声をかけた。美佐子が「だめです」と、すげなく手を振って断ると、それ以上のゴリ押しはしないで、案外あっさりと引き上げて行った。そういうところは、なんとなく女性の扱いに手慣れたものを感じさせる。  いずれにしても送りオオカミというわけでもなく、実害もまったくないのだが、役場の連中や自宅の近所では、すぐに評判になってしまった。父親がどこからか噂《うわさ》を聞いてきたらしく、「あの野郎、今度来たら、ぶん殴ってやる」と息巻いた。 「やめてよ、そんな暴力みたいな真似」 「なんやおまえ、庇《かば》ったりして。その男に気があるんか?」 「冗談じゃないわよ。いやらしい」 「だったらええやないか」  父親の直情径行を知っているだけに、気にはなっていたが、月曜日に長屋が送ってきた時、父親はほんとうに家を飛び出て、長屋の車に近寄った。美佐子が制止する間もなく、窓から首を突っ込むようにして、「あんた、うちの娘にちょっかい出すのはやめてくれんか」と怒鳴った。  長屋はあまりの剣幕に、「すんません」と謝ると、大慌てで走り去った。近所のおカミさん連中が目引き袖《そで》引きしているのを見て、美佐子は恥ずかしくてならなかった。  当の父親は意気揚々、どんなもんや——と言わんばかりである。「今度来おったら、ぶっ殺してやる」と、心にもなく悪ぶったことを言って、大いに威張った。  しかし、その父親の「今度」は実現することはなかったのである。ただし、長屋が「ぶっ殺される」ほうは、美佐子の父親の予言どおり、現実のことになってしまった。     2  その日の朝、長屋明正はよほど寝起きが悪かったのか、パジャマ姿のままぼんやりした顔で台所にやって来た。 「どないしたん? 幽霊でも見たような顔をして」  母親の富子が笑いながら訊《き》くと、ニコリともせずに「そうかもしれんわ」と呟《つぶや》いた。 「いやな夢を見た。森の木が追いかけてきよった」 「何やね、それ?」 「分からんけど、木の枝に捕まって、殺される寸前で目が覚めた」 「あほらしい」  富子は息子の寝ぼけに付き合っていられないとばかりに、フライパンの卵焼きを引っ繰り返した。 「せっかく起きたのやから、たまにはあったかい卵焼きでも食うたらどないね」 「いや、頭痛いし、飯、いらんわ」  明正はそうろうとした足どりで自分の部屋に引き上げたが、じきに着替えをすませて、現れた。 「具合悪いんやったら、休んだらええがな。きょう一日くらい仕事休んだかて、かまへんのやろ」 「仕事やない。キャンプ場に行かなならんのや」  キャンプ場というのは滝樹神社裏の河原一帯のことである。野洲川の渓流が堰堤《えんてい》にせき止められ、その下流部分の河原が広々と使える。夏休みに入ると近隣の小中学校の生徒がテントを張って、二泊三日程度のキャンプ遊びをする。しかし、春先といっていいこの時期、まだ水に親しむには早すぎる。 「キャンプ場みたいなところに、何しに行くねん?」 「東京の劇団の連中が、映画の撮影に来ているんや」 「映画の撮影って、そげな話、何も聞いておらんけどな」  狭い町である、何か変わったことがあれば、彼女の耳に入らないわけがない。 「役場には言うてあるんやが、野次馬が集まるとうるさいよって、内緒にしとってもらったんや」 「ふーん……けど、何を撮影するんや?」 「詳しいことは知らんが、斎王さんの何だとか言うとった」 「斎王さん?……」  そのとき、富子は理由もなく、いやな気がした。明正のような不信心な息子が、斎王さんの名前を口にすることに、不吉なものを感じたのかもしれない。 「あんた、まだ劇団みたいなもんと付き合うてるんか?」 「いや、付き合うてるいうわけやないけど、大学のときの連中が何人もおるさかいに、頼まれたら仕方ないやろ」  大学の演劇サークルに入ったときから、息子の放蕩《ほうとう》が始まった——と富子は信じている。いや、それ以前に東京の大学へ出したことが失敗だったのだ。やはり京都の大学へ行かせればよかったんや——。  もっとも、京都の大学ならまじめに勉強|一途《いちず》に暮らせると決まったものではない。しかし、それでも富子は京都にしておけばよかったのに——と悔やむのである。 「ゆうべは星も見えなかったけど、けっこういい天気になって|きちゃったな《ヽヽヽヽヽヽ》」  台所の窓から空を見上げて、明正は嬉《うれ》しそうに言った。(東京弁を使うてから——)と、富子は気に入らなかった。東京時代に付き合っていた女が来るので、うきうきしているのでは——と勘繰った。 「劇団みたいなもん、ほどほどにしときや」  富子が言うと、明正は不思議そうな目を母親に向けて、「なんでや?」と言った。子鹿のような目が、一瞬、幼いころの無邪気だった息子を思い出させた。不幸なことに、そのときの明正の表情が最後の記憶になって、富子の頭に焼きついてしまった。だから、明正が死んだあとずっと、富子はその顔を思い出しては涙にむせぶのである。  長屋明正は家を出たあと、甲東木材のオフィスに立ち寄っている。  甲東木材は土山の集落の東端にある。国道に面してプレハブ一部二階建てのオフィスがあり、背後に製材工場が隣接している。従業員はオフィス関係には女性三人を含む五人、工場には男性ばかり七人が勤務している。  十五年前に、明正の父親で社長だった信弘が死に、信弘の弟——つまり明正の叔父《おじ》にあたる敬三が社長を継いだ。明正は大学卒業後も演劇活動をつづけていたが、五年前とつぜん帰郷し、一応、専務取締役の肩書をもらった。もっとも、あまり仕事をする気もなく、あてがわれた車を乗り回して、営業の真似事程度のことでお茶を濁している。陰で「何もセンム」と悪口を言われているのを、本人も承知していながら、ちっとも生活態度を改めようとしない。 「いずれは、おまえが甲東木材の社長になるんやからな、しっかりしてもらわな、困る」と、社長の敬三は明正の顔を見るたびごとに、ふたこと目にはそう言う。 「だいたい、おまえのおふくろが甘すぎるよって、いけんのや」  ここまでがお説教のワンセットで、聞くほうも聞き飽きたが、言うほうも、いいかげんうんざりしている。いくら言ってみたところで、反応があるのかないのか、糠《ぬか》にクギの相手だ。  叔父は明正の顔を見ると、「なんや、今日は休むんやなかったのか」といやみを言い、明正が何も返事をしないでいると、しようのないやつだ——という顔でそっぽを向いて、二階の社長室に引っ込んだ。  明正のデスクはほかの社員たちと同じ一階の、西側の窓を背にした場所にある。この季節はいいが、夏の午後は、いくらクーラーを効かせても居たたまれないほど暑い。だから、明正は夏の夕方近くになると、いつの間にか席から消えてしまう。「おれの雄琴《おごと》通いは暑さのせいだ」と、自己弁護の恰好《かつこう》の根拠になっていたのである。  明正はその日、会社に顔を出しはしたものの、べつに大した用事はなかったらしい。しばらくデスクで何やら調べ物をしている様子だったが、三十分ほどすると、黙って外出した。  そのあと明正は、車でほんの二、三分のキャンプ場へ行っている。  キャンプ場ではロケ隊の連中が撮影の準備に取りかかっていた。夜中に東京を発って、朝早くここに到着したそうだ。滝樹《たぎ》神社の境内にマイクロバス一台とワゴン車が二台、乗用車が二台、それにトラックが一台|駐《と》まっている。ロケ隊は総勢五十人ほどで、そのうち十人ばかりのスタッフが河原に散開して、カメラを据えたり、銀箔《ぎんぱく》を貼《は》った照明用のレフ板を用意したり、忙しく立ち働いている。  長屋明正がロケ現場に行くと、演出の白井貞夫が遠くから「よおっ、おはよう」と声をかけた。  明正は「やあ」と応じて、顔見知りの何人かに声をかけながら、ディレクターチェアに収まっている白井に近づいた。 「どう? うまいこといきそう?」 「ああ、順調にいってる。その川も、ロケハンのときは、もうちょっと水量が多かったのだが、ま、なんとかなるだろ」 「ならよかった。おれもさ、この場所を推薦した責任があるからな」  横柄な言い方だな——と、通りがかりにその会話を聞いた劇団員の一人が思った。  白井は「東京シャンハイボーイズ」の主宰者で脚本家で、ときには舞台監督から主演まで務めようという、いわばワンマン的存在である。その白井に対して、どういう経緯があるのか知らないが、かつては一団員でしかなかったはずの長屋明正が、対等か、聞きようによってはそれ以上に聞こえるような口調でものを言うのは、現役の団員としてはあまり気分のいいものではない。  あとでその若い劇団員が白井にそのことを言うと、白井は、「あいつの癖みたいなものだからな、べつに気にすることはない」と笑った。  それから長屋明正は、次から次へと顔馴|染《なじ》みの劇団員を見つけては話しかけた。辞めて五年も経つと、団員の顔触れも半分以上は変わっている。知った同士でも、必ずしも明正と親しかったわけではないし、撮影の準備でクソ忙しいときに——と、内心はかなり迷惑だったにちがいない。  出演者のメーキャップは、滝樹神社のふだん使われていない社務所の広間を借りて行なわれていた。男たちは神官の服装だから、比較的簡単だが、女性は厚塗りの化粧をして、命婦《みようぶ》・内侍《ないし》といった、考証のややこしい女官の衣裳《いしよう》をつけなければならない。ことに斎王役を務める小宮山|佳鈴《かりん》は、アップのカットが多いだけに緊張しきっていた。それなのに、長屋明正はそんなところにまで顔を覗《のぞ》かせて、気楽そうに声をかけた。 「何なんですか、あのひと?」と、メイクの女性に訊《き》かれ、小宮山佳鈴は「変なひとよ、相手にしないほうがいいわ」と、ひどく冷淡な紹介をした。  撮影は斎王が野洲川で禊《みそぎ》を行なう場面である。十二|単《ひとえ》の上に小忌衣《おみごろも》を着た斎王が二人の童女の先導で河原に下り、神官の介添えを受けながら川の水に手を浸し、禊の儀式を行なう。  もともと、キャンプ場のある滝樹神社付近の河原は、その昔、斎王が禊を行なったところといわれ、現に滝樹神社の祭神は垂仁天皇時代の初期の斎王・倭姫命である。去年の秋、シナリオ・ハンティングで白井がここに来た際、長屋がこの場所を案内して、滝樹神社のいわれ因縁などについて解説した。  白井はそういう因縁めいた話題の好きな人間だから、「いいね、それいい」と一も二もなくロケ場所をここに決めた。もっとも、そうでなくても交通の便はいいし、その割に人目につきにくく、野次馬に妨害される心配のない、なかなか得難い環境ではあった。  天気が変わらないうちにと、昼食前に禊の場面は撮影を終えた。演出の白井としては、斎王が白魚のような指先を流れに浸したとき、川面がキラキラと光る絵を、ぜひとも撮りたかったのだ。その白井の狙《ねら》いどおり、太陽の位置関係も理想的で、十字|紗《しや》をかけて幻想的な情景が撮れた。  長屋明正は撮影のあいだ、ずっと白井の背後で見学していた。撮影が終わったのは午後一時近く。そのあとも帰らずに、ロケ隊と一緒に食事をしている。三個だけ余分に用意してあった弁当を、当然のことのように受け取って、傍目《はため》にはまるでスタッフの一人と間違われそうに振る舞った。  午後は森の中の小道を行く、斎王群行のシーンを撮影した。四人の男が担ぐ御腰輿《およよ》に乗った斎王を囲むように、女官や童女たちがしずしずと歩む情景である。  もっとも、本物の斎王群行は、最低の規模でも総勢がおよそ五十人といわれているのに、ロケ隊に参加している出演者はエキストラを全部動員しても二十六人である。予算的には、多少の無理をすれば人数を揃《そろ》えることもできるのだが、衣裳《いしよう》の都合がつかなかった。時代考証どおりの衣裳を揃えるとなると、とてものこと、みみっちい製作費では賄いきれない。二十六人分でさえ、後ろのほうの、あまりカメラに写らない連中の衣裳は、かなりいい加減なものでごまかしているほどだ。  それでも、カメラワークの魔術というべきか、アングルやカット割りを工夫すれば、なんとかそれらしい大行列に見せ掛けることは出来るものなのである。  森の暗さも、それに適度の木漏れ日も効果的だったし、斎王群行の雰囲気は満足のゆく映像になりそうであった。数カットの撮影は順調に進み、陽が西に傾きかける前に白井監督の威勢のいい声が「カット! OK」と叫び、この日の撮影は終了した。  スタッフや出演者たちが「お疲れさん」と言い交わすのにまじって、長屋明正も相手構わず「お疲れ」と声をかけている。すっかりロケ隊の一員になりきったつもりのように見えた。明正の素性をよく知らない連中は「お疲れさま」と挨拶《あいさつ》をするが、かつての仲間たちのほとんどは、彼を無視するか、苦笑を浮かべて「どうも」と答えた。  スタッフは撮影機材の片付けにかかり、出演者は衣裳の着替えやメイク落としにかかった。長屋明正は彼らの作業を手伝うわけでもなく、社務所の玄関前でウロウロしている。どうやら明正の関心は小宮山佳鈴にあるらしかった。佳鈴が着替えを終えて出てくると、明正は両手をこすり合わせながら近寄り、ことさらに馴《な》れ馴れしく声をかけた。 「佳鈴ちゃん、きれいだったなあ」 「そうですか、どうも」  小宮山佳鈴はそっけなく言うと、一瞥《いちべつ》を与えただけでマイクロバスに向かった。誰が見ても、彼女が迷惑がっていることは分かるのに、明正は卑屈な笑みを浮かべて、ひもじい犬のように、彼女に追随した。  かつては仲間であり後輩であったか知らないが、いまの小宮山佳鈴は東京シャンハイボーイズのスターである。マネージャーの塚越綾子《つかごしあやこ》が見かねて、白井に「いいんですか、放っておいて?」と訊いた。 「大丈夫だよ、どうってことはない」  白井は苦笑いしながら言った。  明正は佳鈴のあとに続いて、当然のことのようにマイクロバスにまで入り込んだ。まだ誰も、運転手さえ乗っていないバスである。席はいくらでも空いているのに、明正は狭苦しく、佳鈴の隣のシートに横坐《よこずわ》りに腰を下ろして、愚にもつかないことを喋《しやべ》りまくって、佳鈴を辟易《へきえき》させた。  少し遅れて乗り込んだ塚越綾子が機転をきかせ、「ボスが呼んでますよ」と佳鈴を外に出した。もっとも、その後も長屋はしばらく綾子を相手に、昔の思い出話や団員のゴシップめいた話をしながら、佳鈴が戻って来るのを心待ちにしている様子だった。  ロケ隊のその夜の宿は、野洲川を遡《さかのぼ》った野洲川ダムに近い、大河原という集落にある国民宿舎「かもしか荘」である。長屋明正は自分の車でロケ隊にくっついて「かもしか荘」までやって来て、晩飯の席にもちゃっかり坐り込んでいた。  どうやら本人としては、ロケ隊ととことん行動を共にするつもりでいるらしい。招かれざる客もいいところだが、白井はこの際もスタッフの疑問を抑えるようにして、明正を迎え入れている。 「まあ、ロケ場所を紹介してくれたのは長屋なのだから、メシぐらい一緒にしてもいいんじゃないの」  かもしか荘は「ぼたん鍋《なべ》」が売り物で、その夜の食卓のメインディッシュだった。しかし、若い連中が多いだけに、肉の量が物足りない。それを見て、長屋が十人前の肉を追加注文をした。ついでにビール一ダースも差し入れて、「ここから先はおれの奢《おご》り」と、気前のいいところを見せた。  現金なもので、長屋にいい感じを抱いていなかった連中まで、掌《てのひら》を返すような世辞を言ったりした。  翌日の撮影があるので、出演者は早めに、スタッフも十時までにはそれぞれの部屋に引き上げるよう、白井は命じている。小宮山佳鈴はいちばん先に席を立ち、マネージャーの塚越綾子を伴って自室に向かった。広間から次第に人影が消えて行き、最後まで残った白井も「それじゃ」と出て行った。  長屋は、つまらなそうに、しばらくロビーで煙草を吸っていたが、かもしか荘の従業員が覗《のぞ》いたのをきっかけのようにロビーを出て行った。  翌日は春先特有の、淡いガスがかかったような天気だったが、撮影に支障をきたすほどのことはなさそうだ。むしろこういう、映画用語で言うところの「ワンパラがかかった」ような陽射《ひざ》しのほうが、天候の急変がなく、穏やかな一日になる確率が高い。  ロケ隊は早朝に食事をすませ、午前七時にはかもしか荘を出た。  この日のロケは斎王群行の峠越えのシーンがメインである。群行が鈴鹿山中に潜む物《もの》の怪《け》に襲われる受難シーンを撮ろうというものだ。物の怪が出現する場面のほうはコンピュータグラフィックスで作成して、あとで合成しようという、ちょっと凝ったSFXで、この作品のクライマックスともいうべきシーンになるはずだ。  現在はほとんど廃道同然となって、わずかに遊歩道としてその面影を残すだけの旧東海道の鈴鹿峠付近がロケ地である。  現場には七時半ごろに到着し、段取りよく撮影を進行した。斎王群行はやわらかい春の陽射しの下をしずしずと進み、斎王は御腰輿《およよ》にゆられながら、物憂げな視線を左右の風景に投げかけている。そして、やがて一天にわかにかき曇り、怪しげな風が吹き、黒雲や稲光が襲ってくる——という設定になる。 「異変」の起こる直前までのシーンを撮り終え、一行が昼食にとりかかったのは午後一時過ぎ。ちょうどそのころ、野洲川のもう一つのダム湖である青土《おおづち》ダムの湖面から、長屋明正の死体が引き上げられた。     3  青土ダムは琵琶《びわ》湖総合開発事業のひとつとして、用水確保や洪水調整などの目的で建設されたものだ。総貯水量七三〇万立方メートル。見た目にはかなり大きなダム湖だが、これでも琵琶湖の水位の約一センチメートル分でしかない。  滋賀県警水口警察署に「事件」の第一報が入ったのは午前十一時ごろである。一一〇番指令で、ただちに出動せよと言ってきた。本署の指示で、土山派出所から二名の警察官が現場に先行して、現場の確認と保存に努めている。  第一発見者はダムの管理者。通常の巡回で車を走らせていて、何気なく見た湖面に人間が浮かんでいるのに気がついた。  青土ダム付近には一般の民家はまったくない。上流の野洲川ダムから下ってきた道が、鮎河《あいが》という集落を過ぎたあたりから水が淀《よど》みはじめるが、そこからダムサイトまでの湖岸には、道路以外の建造物は何もないし、ゴールデンウィークや夏の行楽シーズンならともかく、湖畔の道路は日に何台と数えるほどしか車が通らない。  後の解剖の結果、死後およそ十時間以上も経っていることが判明するのだが、それでも、その程度の時間経過で死体が発見されたのは、むしろ僥倖《ぎようこう》といっていい。  死体の身元はすぐに分かった。上着のポケットに運転免許証と名刺の入ったケースがあった。  〔甲東木材株式会社専務取締役 長屋明正〕  ダムサイトの職員は地元の人間で、甲東木材のことも長屋のことも知っていた。  甲東木材に連絡すると社長の長屋敬三以下三名の社員と母親の富子が駆けつけ、身元の確認をした。  富子は息子の遺体にとり縋《すが》って、悲鳴のような声を上げ、泣き伏した。意味不明の愚痴めいたことを口走る中で、「劇団みたいなもんと付き合うさかい……」という言葉が捜査員の耳にも聞こえた。  富子の興奮が鎮まり、虚脱状態が訪れたのを見計らって、事情聴取に当たった部長刑事の江間正一は「劇団とは何のことです?」と訊《き》いた。 「東京の何やらいう劇団です」  富子は憎しみのこもった口振りで、息子の明正が東京にいるころ付き合っていた劇団のことを話した。その劇団が昨日、滝樹神社下のキャンプ場でロケーションをやっていて、息子がそこへ行くと言っていたというのである。甲東木材の社員は、いったん出社した明正が、十時少し前に、行く先を告げず、フラッと外出したと証言した。  それからまもなく、劇団というのは「東京シャンハイボーイズ」で、昨夜はかもしか荘に泊まり、夕食の席に長屋明正も参加していたことが分かった。午後十時ごろまで、長屋がロビーにいたことも、かもしか荘の従業員が確認している。  かもしか荘の話によると、ロケ隊はきょう一日、鈴鹿峠の旧道で撮影をやっているということであった。  江間は三人の部下とともに鈴鹿峠へ向かった。国道1号線が三重県との境にあるトンネルに入る少し手前で右に折れる。左右から草がはびこっているような粗末な砂利道だが、これがかつての天下の東海道である。やや急な坂を登りつめ、平坦《へいたん》な道になったところで、ロケ隊を捕捉《ほそく》した。  ロケ隊は昼食休憩を終えて、午後の撮影を開始しようとしていた。すでにスタッフの準備は完了して、斎王を乗せた御腰輿《およよ》の周囲に女官や警護の衛士《えじ》たちがつき、スタンバイの状態を整えつつあった。  パトカーから私服制服とりまぜた四人の警察官が下り立つのを見て、ロケ隊の中から事務関係を仕切っているような男が駆け寄ってきた。 「何か問題ありますか?」  いきなり訊いた。撮影許可が必要かどうかを訊いているらしい。江間は一応警察手帳を示し、相手の名刺をもらった。〔東京シャンハイボーイズ事務局 木野雅夫〕とあった。 「長屋明正さんをご存じですね?」 「長屋?……はあ、知ってますが、長屋……さんがどうかしましたか?」 「昨夜、一緒だったそうですね?」 「ええ、国民宿舎のかもしか荘で、食事をしましたが……あの、長屋さんに何か?」  木野は不安を感じたように、言った。 「じつは、長屋さんは亡くなりましてね」 「えーっ……」  それから大騒ぎになった。木野は劇団の主宰者である白井貞夫に報告し、白井は演出を中断して刑事たちのところにやってきた。スタッフの何人かも白井に従ってきた。 「長屋はいつ……いや、何で死んだのですか? 事故ですか?」 「目下のところ死因等は不明ですが、青土ダムに浮かんでいるのを発見されました。すでに死亡しており、おそらく死後十時間は経過しているものと思われます」 「十時間……というと、昨夜ですか」 「そうです。それで、昨夜、長屋さんと最後まで一緒だったのは、どうやらあなた方のようなので、そのときの様子など、いろいろ事情を聞かせていただきたいのですが、よろしいですね」 「はあ、もちろん……しかし、いまは撮影中ですから、終わってからにしてもらえませんか」 「どれくらいかかります?」 「そうですね、四時ぐらいまでは」 「四時? そんなにですか」 「そんなにって……太陽が高いうちはカメラを回したいですからね」  白井はムッとした顔で言った。 「しかし、人ひとり死んでいるのやけど」  江間のほうも不快を丸出しにして言った。日頃から、映画だとかテレビ関係の連中に、あまり好意を持っていない。 「だからって、こっちの仕事をストップする権利はないでしょう」  白井の後ろにいるスタッフが「そうだそうだ」と応援を送って、いささか険悪な雰囲気になった。たしかに白井の言うとおり、警察側にそれ以上、強要する権利はない。 「分かりました。そしたら、どうぞやってください。われわれは終わるまで待たせてもらいます」  後で署に出頭してもらってもいいのだが、江間も意地を張って、パトカーで待機することにした。それに、ロケーションに興味がないこともなかった。製作費をケチッていることを知らずに見れば、何やら王朝文化華やかな情景である。  警察の妨害による遅れを取り戻そうとするわけでもないだろうが、にわかに慌ただしく撮影が開始された。電源車のエンジンが騒音を撒《ま》き散らし、峠路の静けさをぶち壊す中を、斎王の行列がしずしずと進んで行く。  トラックの上の巨大な扇風機が回りだして、芽吹きが始まったばかりの若い木々の枝をうち靡《なび》かせる。効果係がスモークをたき、怪しげな風が行列に襲いかかる。  行列の人々はうろたえ騒ぎ、斎王の乗る御腰輿《およよ》は大波に翻弄《ほんろう》されるように揺れ、黒雲に包まれてゆく——という場面なのだが、合成される画面を知らずに見ているだけでは、いったい行列の人間どもが、何を騒いでいるのか理解できない。やたらに逃げまどい、混乱するのが、穏やかな陽光の降り注いでいる下で行なわれているだけに、とんだサル芝居にしか見えない。  カメラを三台駆使して、アップのカットやアングルの違うカットも撮っている。実際に使用するのは数分のカットだが、何度もNGが出た。一回NGが出ると、化粧や服装の乱れを直し、御腰輿などの小道具を整備し、態勢を整え直すまでけっこう時間がかかる。そのつど白井監督の罵声《ばせい》のような掛け声が飛んだ。ふだんは丸顔にメガネの陽気そうな顔だが、まるで人が変わったように険しい形相になる。(あの顔なら人も殺せるな——)と、江間は妙に納得できる気分であった。  時刻はすでに四時を回っていた。じつにタイミングよく、白井が「OK!」と叫んでまもなく、鈴鹿山系を覆うように雲が広がってきた。  出演者やスタッフが口々に「お疲れさん」と呼び交わすのを聞きながら、江間もドッと疲れを感じた。最初は部下たちと「何をやってるんだか」と冷やかなことを言っていたものの、しだいに現場の熱気に感染したのか、おしまい近くでは、ロケ隊の連中と同じレベルにまでのめり込んでしまったようだ。  撮影が終わったあと、白井はかなり長いことディレクターチェアにぐったり沈み込んでいたが、ふと思い出したらしく、パトカーのほうを振り向いて、立ち上がった。江間のほうもパトカーを出て、白井に向かって歩み寄った。 「どうもお待たせしました」  白井は赤く日焼けし、疲労感のにじみ出た顔で挨拶《あいさつ》した。 「いや、ご苦労さまでした」  江間は思わず挙手の礼を返した。 「なかなか大変な撮影なのですなあ」 「はあ、まあ」  白井は物を言うのも億劫《おつくう》そうだ。全精力を撮影に注ぎ込んだ様子は、江間も見ていて分かっている。最初のころの、まるで被疑者を前にするような意気込みとは違って、相手を思いやる気持ちになって言った。 「少し休んで、食事でもしたあとに、また来ましょうかね」 「いや、構いませんよ。僕は片付けはしなくてもいいですから、何か訊きたいことがあったら、どうぞ訊いてください」 「そうですか、そしたら一通り質問させてもらいますが、まず、長屋さんとこちらの劇団との関係を聞かせてください」 「長屋君は以前、われわれの劇団・東京シャンハイボーイズの団員だったのです。東京シャンハイボーイズというのは、もともと東京の四谷にあるJ大学の演劇同好会みたいなものが母体になってできた劇団でして、彼も僕も創立時代からの仲間なのです。大学を卒業してからも、バイトをしながら芝居をやってきましたが、正直、半分は道楽ですからね、ほとんど赤字経営もいいところで、団員もどんどん辞めて、いまでは当時の人間はほんの数人しかいません。長屋君も五年ばかり前に辞めて、土山町へ帰り、家業の木材会社を継ぐことになったのですが、彼なんかはずいぶん長く頑張ったほうですよ」 「なるほど……それで、今回のロケに長屋さんが関係したってわけですか」 「ええ、去年の秋に彼が東京に出てきたことがありましてね、当時、たまたまこの映画の企画が通ったところだったのです。彼との雑談の中でその話が出て、だったら土山にピッタリの場所があると教えてくれました。ご覧になって分かるように、これは斎王がテーマの映画なのですが、鈴鹿峠はかつて斎王の群行が通った街道そのものだし、昨日の禊《みそぎ》のシーンなんか、まさに斎王が禊をしたそのものずばりの場所です。そのほか交通の便もいいし、いろいろな意味でロケ地としての条件にも恵まれていて、大いに助かりました」 「なるほど。すると、白井さんをはじめ劇団のみなさんと長屋さんとの関係は、きわめて良好なものであったのですね」 「もちろんです」 「ところで、昨夜のことを伺いますが、たしか、長屋さんもみなさんと一緒に、かもしか荘で食事をしたのですね」 「ええ、彼もロケを手伝ってくれた、いわば仲間のようなものですから、一緒に食事をしました」 「何時ごろまで一緒でした?」 「十時少し前だったと思います。われわれは今日の撮影がありますから、早めに就寝するように、それぞれの部屋に引き上げました。しかし、僕が最後に食堂を出たとき、彼はまだそこにいて、僕が『お疲れさん』と言うと、彼も応《こた》えて、手を振っていました」 「つまり、それが長屋さんを見た最後だったということですか?」 「ええ、そうですね」  白井は暗い表情になって、雲が広がった空を見上げた。 「ちょっとこれは失礼な質問になりますが」  江間は言いにくそうに訊いた。 「劇団員の中に、長屋さんを憎んでいるとか、あるいは嫌っている人はいませんか?」 「いや、おりませんよ」 「ははは、まあ白井さんの立場としてはそうおっしゃりたいでしょうが、しかし、みんながみんな、長屋さんに好意的だったとも考えられんのですがねえ」 「しかし、いないものはいないと答えるしかありませんね。第一、長屋君が劇団を辞めてから五年も経っているのに、好きも嫌いもないでしょう」 「分かりました。一応、念のために、長屋さんが在籍していた当時からいる人たちの名前を教えてくれませんか」 「えっ、それじゃ、彼らにいちいち事情聴取をするんですか?」  白井は眉《まゆ》をひそめた。 「ええ、一応の手続きみたいなものですからね。それとも、何か都合の悪いことでもありますか?」 「いや、都合が悪いとか、そういうわけじゃないですが、しかし、刑事さんの事情聴取を受けるなんて、はっきり言って気分が悪いじゃないですか。役者は神経質ですからね、不愉快な思いをしていては、ろくな演技はできませんよ」 「それはよく分かります。しかしたとえそうであっても、警察の捜査にご協力いただかねばなりませんな。何しろこれは殺人事件なのでありますのでね」 「えっ、じゃ、ほんとに彼は殺されたのですか?」 「そのとおりです、殺人事件です」 「しかし、誰が、何のために?……」 「それを調べたいがために、ご協力をお願いしているわけですよ」  江間部長刑事は、刑事特有の冷淡な眼になって、じっと白井の顔を見つめた。  第三章 御古址《おこし》の祟《たた》り     1  その日の午後には水口警察署に「青土《おおづち》ダム変死事件」捜査本部が設置された。大津の滋賀県警からは、宮武警部率いる捜査一課の猛者《もさ》連中をはじめ、機動捜査隊員が大挙、応援にやって来た。  青土ダムの現場周辺では二百人規模の動員をかけて大捜索を行なったが、犯人の特定に直接結びつくような遺留品のたぐいは発見されなかった。  被害者の車の中に残された指紋や髪の毛等についても、精密な調査が行なわれている。指紋のほとんどは被害者本人のもので、それ以外にも数人のものと思われる指紋が採取されたが、いずれも比較的古く、ただちに犯人のものであるとは断定しがたい。  車内の遺留品は、ごく一般的な備品——ドライブマップやカセットテープ、CDなどだが、その中に一つだけ、捜査員が首をかしげるような品があった。  縦が二十センチあまり、幅が二センチあまり、厚さ三ミリ程度。一方の端が円形で、しかもくびれていて、ちょうどコケシを平たくしたような形状である。そう思って子細に見ると、円形の部分にかすかに目鼻のような窪《くぼ》みがある。  しかし、漫然と見た感じでは銅剣のような外観と色調で、実際、素材は銅製のものらしく、緑青《ろくしよう》が湧《わ》いて古色|蒼然《そうぜん》としている。最初に発見した捜査員はてっきり凶器かと思ったのだが、しかし刃物ではなく、殴りつけるにしては小さすぎる。  青銅製だけに、重みはあるから、文鎮かな——というのが捜査本部のほとんどの人間の感想で、それ以外の意見は出なかった。いずれにしても、事件に関係がある物という印象はなかった。  捜査員が町中で聞き込みをつづけるうちに、興味深い話をあちこちで仕込んできた。長屋明正の死は「御古址の祟り」のせいだ——というのである。  御古址とは何であるのか、ほとんどの捜査員にとって初耳で、まず斎王だとか頓宮《とんぐう》だとかいうものの解説から始めなければならなかったし、その上に「祟り」ときては、どうにも困ってしまうが、町の人間は真顔で「祟り説」を主張するのである。  もっとも、長屋明正が御古址に対して、どのような冒涜《ぼうとく》をしたのか、はっきりしたことは誰も知らない。噂《うわさ》では御古址の森の土を掘り返して、埋蔵品を探そうとしたらしい——というものであった。ただし、その現場を目撃したのは誰なのか——となると、誰もはっきりしたことは言わない。御古址にはたしかに掘り返したと見られないこともない痕跡はあるにはあったが、ほんのいたずら程度の、ごく浅いもので、それが長屋の仕業かどうかは、とどのつまりは単なる憶測にすぎない。  少なくとも警察は「祟り説」を信じたりはしなかった。長屋の死は事故死・自殺・他殺のいずれかであり、警察としては、当然のことながら他殺の疑いを強く持って調査に当たった。  それに、長屋明正には人の恨みをかっているという噂が絶えなかった。ことに多いのは女性関係のよからぬ噂である。五年前に東京から戻った時から、琵琶湖畔の雄琴あたりに通いつめて、ひと頃は暴力団関係からの借金もあるのでは——と取沙汰された。  三十歳を過ぎてからは懐具合も思わしくなく、本人は遊びに飽きたとか言って、少しは家業の木材会社を手伝いはじめたのだが、その代わりに町の女性にちょっかいを出すようになった。  長屋はれっきとした独身男性なのだから、好きな女性に対して声をかけようが手を出そうが、本質的には自由であって不思議はない。そうはいっても、狭い町の中で勝手|気儘《きまま》にやられては困るというのが、旧弊でも何でも、やはりこの町の不文律でもあるわけで、しばしば物議をかもすことになる。  長屋家はこの宿場町では本陣に次いで古い家柄だという。明治、大正の昔から、鈴鹿山系から出る木材のかなりの部分を一手に引き受けて製材し、出荷している。いまでこそ外国産の木材に追われて、財政状態は芳しくないけれど、かつては飛ぶ鳥を落とす勢いと言われたものだ。  明正はその長屋家の跡取り息子として、かなり甘やかされて育った。子供のころから目端《めはし》がきいて、小中学校を通じてクラスで一、二番を争う成績だった。もっとも、勉強熱心というタイプではなく、頭の回転のよさだけで生きているようなところがあったから、高校へ行ってから成績は落ちたが、それでも東京の大学にストレートで進んだところを見ると、持って生まれた知能はかなり高かったのにちがいない。  中学・高校時代の友人の長屋評は、町の人間たちのそれとは多少、ニュアンスが異なった。たしかに遊び人タイプという点では共通しているが、「おもろい男」と、かなり好意的な言い方で、本心から長屋の死を悼《いた》んでいる者が少なくなかった。女性のクラスメイトの中には、「憧《あこが》れの的でした」と述懐する者もいた。  いずれにしても、長屋がどんな悪さをしたにしても、殺されなければならないほど、罪深いことはなかっただろう——というのが、大方の評判ではあった。暴力団関係の犯行についても捜査が進められたが、殺されるようなトラブルがあった可能性は薄いと見られた。  となると、当面は東京シャンハイボーイズのロケ隊に焦点を絞るほかは、収穫が期待できそうにない。夕刻開かれた最初の捜査会議で、宮武警部は江間部長刑事から事件発生以来、鈴鹿峠のロケ現場に至るまでの捜査の報告を受けて、「そっちのほうについては、しばらく、きみの手で調べを続行してくれないか」と託した。  ロケ隊の連中に対する本格的な事情聴取は、彼らがかもしか荘に引き上げ、夕食を終えて寛《くつろ》いだ頃合から、行なわれた。人数は多いが、主たる対象になったのは、長屋明正が在籍していたころから、長屋を知っているメンバーである。   白井貞夫  主宰者、脚本、演出、俳優。   木野雅夫  俳優、事務局長。   小宮山佳鈴 俳優。   永田仁志  俳優。   佐藤博   俳優。   塚越綾子  マネージャー。  以上の六人のほかにも、劇団員の中に長屋と顔見知り程度の付き合いがある者はいた。長屋は東京シャンハイボーイズを退団して郷里に引っ込んだあとも、東京に出たときには、たまに古巣の劇団に顔を出している。その際に新顔のメンバーを紹介されることもあるのだ。ただし、あくまでも顔見知り程度以上のものではなく、事情聴取をしても収穫は何もなさそうだった。  ところが、そういう彼らに対する事情聴取で、ちょっと注目すべき話が拾えた。長屋は女優の小宮山佳鈴になみなみならぬ関心があったらしいというのだ。 「昨日のキャンプ場でのロケのときだけど、だいぶ、しつこく付きまとっていたみたいですよ。マネージャーの塚越さんが心配して、様子を見に行ったくらいですからね」  若い俳優は気楽に喋《しやべ》った。そんなことを言えば、あとで小宮山佳鈴に累が及ぶことなど、少しも念頭にないのだろう。  江間がマネージャーの塚越綾子に、そういう事実があったかどうか確かめると、綾子は仕方なさそうに「ええ」と頷《うなず》いた。 「心配したというと、長屋さんが何かおかしなことでもすると思ったわけですか?」 「そういうわけじゃないですけど……でも、佳鈴さんはうちのトップスターですからね。いくら先輩だからって、あまり馴《な》れ馴れしくしてもらっちゃ、困るんです」 「なるほど……」  江間はいささか不快を感じながら、もう一度、小宮山佳鈴に会った。当の佳鈴は、事情聴取に対して、そんなことがあったなどと、おくびにも出していなかったのだ。 「刑事さんに訊《き》かれなかったから言わなかっただけです」  佳鈴は顔をしかめてそう言った。 「しかし、長屋さんがあなたに好意を持っていたのは事実なのでしょう」 「さあ、どうかしら。長屋さんがどう思おうと、あの人の勝手です」 「つまり、あなたは何とも思っていなかったわけですな」 「当たり前ですよ」  佳鈴が美しい顔に冷笑さえ浮かべて言うのを聞いて、江間は長屋に同情したくなった。長屋の死がもし自殺だとしたら、彼女に冷たくされたのが原因かもしれない——と本気で思ったりもした。 「ところで、あなたと長屋さんとはいつごろ知り合われたのですか?」  江間は訊いた。 「私が東京シャンハイボーイズに入ったのは九年前で、長屋さんはその時すでにメンバーでしたから、その時からの知り合いっていうことになります」 「参考までに訊きますが、劇団に入ったきっかけは、どういうことですか?」 「J大学の一年だったころ、大学の先輩である白井さんにスカウトされたんです」 「長屋さんが劇団にいたころから、好意を持たれている状況だったのですか?」 「ですから、長屋さんの気持ちがどうだったか知りませんよ」 「要するに、特別なお付き合いはなかったということですね?」 「特別っていう意味が何なのか知りませんけど、あくまでも劇団の中だけのお付き合いでしたよ」  自分より十歳以上も若いまだ二十代なかばの佳鈴に、不思議な微笑をたたえた眼で見つめられて、江間は思わず、彼女から視線をはずした。 「つかぬことをお訊きしますが」と、江間は多少のいまいましさを込めて、言った。 「白井貞夫さんとあなたとは、どういうご関係ですか?」 「えっ、ボスとの関係ですか?……」  佳鈴はびっくりしたように目を精一杯大きく見開いた。演技だとしたら、みごとなほど自然な演技である。 「ボス——白井さんとは座長と役者の関係ですよ。それ以外の何物でもありません。私みたいな者を抜擢《ばつてき》してくれた恩人でもありますけど……いやだなあ、妙な勘繰りはしないでくれませんか」  最後は敵意|剥《む》き出しで言った。  そのあとの白井貞夫に対する事情聴取で、江間は長屋と佳鈴の関係について探りをいれている。 「ははは、長屋は惚《ほ》れっぽい男ですからね。佳鈴に気があったとしても不思議はないですよ。しかしそれだけの話でしょう」 「小宮山さんをスカウトしたのは白井さんだそうですね」 「ええ、大学の後輩に可愛いコがいるって聞きまして、会ってみたらたしかに魅力的なコでした。もちろん、素人ですから、化粧もろくすっぽしてなかったけど、直観的にこれはいいと思いました。単なる美貌《びぼう》だけではない、知性と妖艶《ようえん》さが混在しているような魅力がありましたよ」  佳鈴の話になると、白井はがぜん身を乗り出すようにして喋《しやべ》った。 「思ったとおり、演技の素質もあって、一躍うちの劇団のスターですよ。テレビ界はジャリタレもどきのアイドルばかりをもてはやすから、佳鈴みたいな逸材に気がつかないんですね。しかし、東京シャンハイボーイズの公演を通じて、ファンがつきはじめるにつれて、映画やテレビ、マスコミに注目されるようになってくる。中には露骨に移籍を勧誘するプロダクションもありましてね、油断がなりません。まあ、佳鈴本人は何が来てもかたくなに拒否して、大学を卒業してからも、そのままうちの正式団員でいてくれてます」 「それはまた、いまどき珍しい、義理がたい人じゃないですか」 「そうですね、そういうところが彼女らしいと言ってもいいかな。しかし、それだけに僕としては、これから彼女を大きく羽ばたかせる責任があります。舞台だけに縛っておかず、映画にもテレビにもどんどん出さなければならないでしょうね。今回の仕事は、その第一歩でもあるのです」  白井は三十三歳だそうだ。芝居にうつつを抜かしてきただけに、少し浮世ばなれしたような若さがあるけれど、まあ、いい大人と言っていい彼が、少年のように目を輝かせて喋る様子は、江間のような男から見ると、ずいぶん奇異なものに映る。  いくらトップスターとはいえ、白井の佳鈴に対する打ち込み方は、ただごととは思えなかった。  もし、掌中の珠《たま》のような佳鈴に、長屋のような多少無頼がかった男がちょっかいを出したとしたら、白井としては黙っていられないだろうな——と、白井の様子を眺めながら、江間はひそかに思った。     2  白井や佳鈴が事件に関わっているかどうかはともかくとして、長屋の足取りの最後のところに、その二人を含め、東京シャンハイボーイズの連中がいたことだけは間違いないのだから、警察としては当面、彼らを重点的に調べることになる。  劇団員や撮影スタッフの事件当夜の行動について、ひととおり聴取を行なった。  事件の夜、劇団関係の連中は白井の指示どおり、午後十時までにはそれぞれの部屋に引き上げた。シナリオの執筆がある白井だけが個室で、あとは二人から四人まで同室者があった。各自の部屋に引き上げてからは、テレビを見たり、トランプをしたり程度のことですごし、だいたいのところ、いつもよりは早めに、おとなしく就寝したらしい。  撮影スタッフは映画プロダクションに所属しているか、フリーの人間である。こっちのほうはかなり遅くまでギャンブルめいたことをしていたようだ。チンチロリンと呼ぶサイコロ賭博《とばく》の一種だが、それ自体はまあ遊びの延長のようなもので、警察が目くじらを立てるほどのことではない。  外出した者は一人もいなかったようだ。かもしか荘のある大河原の集落は山間の何もないところだ。飲み食いをしたければ車で二、三十分は走らなければならない。  ただし、外出していないというのは、あくまでも本人たちが言っていることであって、物理的に「外出」が可能であったかどうか——つまりアリバイの問題となると、話は違ってくる。深夜、寝静まったころを見計らって、ひそかにかもしか荘を抜け出そうとするのは、それほど難しいことではないのだ。  それにしても奇妙なのは、長屋の車がかもしか荘の駐車場にあった点である。  昨夜、長屋が車を運転して帰ったかどうかは、誰も確認していない。  長屋は乾杯には付き合ったが、それほどの量は飲んでいなかった。もともと酒は嫌いなほうではなかったが、この夜は車を運転しなければならないからと言って、酒の量を控えていたようだ。したがって、車を置いたまま帰ることは考えにくい。  第一、もしそうだとしたら、いったい長屋はどうやって現場まで行ったのかが謎《なぞ》であった。  かもしか荘から青土ダムの湖畔までは、ダム湖のもっとも上流部分でも三キロ以上はある。死体が浮いていた場所となると、優に四キロ半はあるだろう。そこまで歩いて行ったとは考えにくい。かりに酔っていて、車を運転することに不安を感じたのであれば、誰かに送ってもらうか、タクシーを呼ぶかするだろう。夜道を歩いて帰るなどということは、まず考えられない。 「しかし、長屋君は酔っていたとは思えませんけどねえ」  その点について、白井貞夫はしきりに首をかしげている。それはほかの劇団員も、またかもしか荘の従業員の印象も同様であった。  彼らの言うとおりだとすると、長屋は自分で車を運転して帰った可能性が強い。それにも関わらず、彼の車がかもしか荘にあったということは、何者かがそこまで車を運転して来たわけで、常識的に言ってその人物が長屋を殺害したと考えられる。  そうでなく、かりに誰かが長屋を送って行ったものだとすると、その人物が長屋を殺害した犯人と考えていいだろう。  いずれにしても、二つのうちの一つということになりそうだが、その二つの仮定のどちらにも不可解な点がある。  前者は長屋殺害のあと、なぜ車をかもしか荘に戻したのか——である。  また後者は、なぜ長屋は自分の車を使わなかったのか——である。  ことに後者のほうは、長屋がアルコールを控えめにしていた事実があることから見ても、他人の車に乗せてもらう必然性があったとは考えにくい。  警察としては——というより江間部長刑事の考えとしては、前者のほう、つまり何者かが長屋の車に同乗して青土ダム付近まで行き、そこで長屋を殺害、かもしか荘に戻ったことを想定している。その場合の「何者」とは、もちろん、かもしか荘の従業員かロケ隊の連中しかいない。  事件第一日の捜査は、午後九時までで切り上げた。江間部長刑事の心証としては、ロケ隊の連中に対する疑いは、半々といったところであった。 「また明日、お邪魔します」  かもしか荘を引き上げる際、江間は白井にそう言った。 「えっ、まだ何かあるんですか?」  白井は露骨に顔をしかめてみせた。 「もちろんです。まだまだ、いろいろお訊きしたいことがありますのでね」 「しかし、われわれが知っていることは、全部お話ししましたよ」 「そうかもしれませんが、ほんの些細《ささい》なことに見えて、重要な事実をうっかりしているケースもあるものです。いずれにしても、まだしばらくは滞在するのでしょう?」 「いや、ここでの撮影はあと二シーンを撮ってしまえば、一応終わりです。雨さえ降らなければ、せいぜい一泊か二泊ですよ」 「えっ、そんなに早く……うーん、なるべく雨に降ってもらいたいですな」  江間はいやみなことを言って立ち去った。ところが、その想《おも》いが天に通じたように、未明から雨が降り出した。菜種梅雨のようなしとしと雨が時折強く、小やみなく降り続く。忍び寄るように夜が明けたが、鈴鹿の山々は雨のスクリーンに幾重にも隠されていた。もちろん、本日の撮影は中止である。  白井の憂鬱《ゆううつ》を逆撫《さかな》でするように、江間を中心にした捜査員は早朝からかもしか荘を訪れ、スタッフや俳優連中にしつこく事情聴取をつづけている。  雨の日のロケ隊がやることといえば、マージャンかトランプ。どうせひまを持て余しているから、いいようなものだけれど、殺人事件の捜査対象にされているというのは気分いいものではない。まるで警察の捜査に協力するために、足止めを食っているような感じだ。  そればかりではない、スタッフの間では事件に対するさまざまな憶測が話される。警察がこんなふうに執拗《しつよう》に事情聴取するのは、ロケ隊員の中に容疑者がいるからではないのか——という疑惑は、誰の胸にもまったくないわけではなかった。  とくに、主演女優である小宮山佳鈴が、かつて長屋と何かあったらしいという噂《うわさ》が囁《ささや》かれた。当然のことながら、佳鈴とボスである白井との関係を邪推するような話も出てこないわけはない。それ以上に厄介なのは、長屋殺害の犯人が、ロケ隊のメンバーの中にいるのでは——という疑念が、静かに深く蔓延《まんえん》しつつあることだ。  度重なる事情聴取でうんざりしている上に、雨に降り込められている鬱陶《うつとう》しさも手伝って、スタッフの精神状態は最悪だ。「ああ、いやだいやだ。人殺しと一緒に映画作っているのかよ」などと、露骨に不快を爆発させる者もいた。  東京シャンハイボーイズは、芝居が好きで好きでたまらない連中の、ほとんど仲間意識だけで繋《つな》がっているようなグループだから、邪推や疑心暗鬼が飛び交う状態になれば、空中分解を生じかねない。  白井は表面上は平然とした態度を装っているけれど、内心は気が気ではなかった。演劇や映画づくりはいわば総合芸術である。統率が取れていて、はじめて製作が順調に進むのだが、こんなふうにてんでんばらばらでは、演技も演出もカメラワークも、すべてが萎縮《いしゆく》して、ろくな作品になりそうにない。  いつやむとも知れぬ暗い天を見上げて、白井はこの男らしくもなく、絶望的な気分に陥った。  ドアをノックする音がして、小宮山佳鈴の声で「ボス、います?」と言った。  ドアの向こうに、気のせいか少し憔悴《しようすい》ぎみの佳鈴が立っていた。 「ちょっと、いいですか?」 「ああ、入んなよ」  スタッフに余計な邪推をされないように、一応、廊下が見える程度にドアを開けたままにしておいて、椅子《いす》を勧めた。 「憂鬱ですね」  佳鈴は窓の外を眺めながら、言った。 「ああ、いやな雨だね。当分やまないみたいだよ」 「雨もだけど、警察。うるさくてしようがありません」 「ん? ああ、そっちにも行ってるか。おれのところにもしつこくやってくる。同じことを何度も訊《き》きやがる」 「警察は私のこと、疑ってるみたい」 「まさか、そんなことはないだろう」 「いえ、そうですよ、間違いないわ。それと、ボスのことも何回も訊かれました」 「おれのこと?……」 「私とボスと長屋さんと、三角関係だと思っているみたいです」 「冗談じゃない」  白井は笑おうとして、頬《ほお》が引きつった。じつのところ、同じような質問は白井も何度か受けているのだ。 「冗談でなく、明日あたり、警察のほうに出頭してもらうかもしれないって、刑事がそう言ってました」 「警察に出頭?……それじゃ、まるで脅しじゃないか。そんなことをされちゃ、こっちは仕事にならない」  あの野郎——と、白井は江間部長刑事の角張った顔を思い浮かべた。江間は何も言っていなかったが、警察としてはそこまでやる気になっているのかもしれない。 「どうするんですか?」  佳鈴の口調には、白井の無策をなじるようなニュアンスが込められていた。 「どうするって、どうしようもないだろう。第一、こっちは事件と何の関係もないのだからね」 「でも、警察はそうは思っていないみたいですよ。いろいろ調べ回って、結局、ここに戻ってきたとか言ってましたから」  そのことは江間も匂《にお》わせていた。長屋の死がロケ隊と無縁とは考えられないというのである。それまでは曲がりなりにも平穏無事で生きていた長屋が、ロケ隊と接触したその晩に殺されたのだから、短絡的にはそう考えたくなるのも無理がない。 「あの人に相談してみたらどうかしら」  佳鈴が言った。 「ん? あの人って?」 「ほら、ずっと前、うちの芝居を観にきた、ボスのともだち——私立探偵だとか言ってたでしょう」 「ああ、浅見のことか。いや、やつはだめだよ」  白井はあっさり頭を横に振った。 「どうしてですか? あの人のこと、名探偵だっていうの、聞いたことがありますよ。彼に真相を解明してもらえば、それで何もかもすっきりするじゃないですか」 「そうかもしれないが、やつはだめだ」 「変だわ、そんなの」 「何が?」 「何だか、真相を解明されちゃ困るみたいに聞こえます」 「どういう意味だい、それは? おれが事件の真相を隠したがっているとでも言うのかい?」 「ええ、そう受け取られても仕方がないんじゃありません?」 「ばかばかしい、そんなんじゃなくて、やつには頼みにくい理由があるのだが……分かった、一応、相談してみるよ。しかし、たぶん断られるだろうけどね」  白井は悲観的なことを言ったが、とにかく何とかしなければならない状況ではあった。だめでもともと——というつもりで、部屋の片隅にある電話に向かった。     3  東京シャンハイボーイズの白井貞夫から突然の電話で「助けてくれ」と言ってきたとき、浅見はひまを持て余していた。  サラリーマンとちがって、自由業を営む者にとっては、ひまであることは、すなわち失業状態を意味するわけで、呑気《のんき》に喜んではいられない。 『旅と歴史』からも、原稿の依頼が途絶えている。あまりご無沙汰《ぶさた》していると、あの強欲の藤田編集長が、妙に懐かしく思えてくるから不思議だ。  自分の部屋で、日ねもすのたりのたりしていたら、須美子嬢が「電話です」と呼びにきた。 「おっ、藤田さんかい?」  浅見が飛び出すと、須美子は浮かぬ顔で首を振った。 「白井様とおっしゃる方です。なんだか陰気なお声でした」 「ふーん、白井がね……」  不吉な予感がした。浅見にとって、白井貞夫という名前は、あまり好ましい記憶に結びつかないが、それ以上に、あのお調子者でいつも陽気な白井のイメージと「陰気な声」とは、結びつきにくかった。  受話器から聞こえる白井の声は、たしかに陰気くさかった。挨拶《あいさつ》が終わると、いきなり「助けてもらいたい」と言った。 「何だい、どうしたんだい?」  浅見は十分に用心しながら、訊いた。  白井の「助けてくれ」には苦い経験があって懲りている。  白井とは高校のクラスメイトだが、進んだ大学は浅見はT大、白井はJ大と別だった。浅見は一年浪人して、それでも順調に四年で卒業したのだが、白井のほうは七年間、きっちり勤め上げていた。  その七年目の春、突然、白井が訪ねてきて、「助けて欲しい」と言った。「金を貸してくれ」というのである。学費の滞納で、このままだと除籍処分になる。ついては年末まで借金を頼みたい——というのだ。 「おやじが長い病気で、おふくろはパートに出ている。おれもバイトでなんとか食いつないできたのだが、どうしても都合つかなくなって……」  泣かんばかりに頭を下げて頼まれては、冷酷に追い返すことなどできようはずがない。当時、浅見はあちこちの勤め先をしくじって、ブラブラしていたから、浅見自身には、いま以上に金はなかったが、なんとか母親を説得して、居候《いそうろう》の身分にとっては少なくない金額の金を貸した。  ところが、その金はじつは学費なんかではなく、白井の道楽みたいな演劇活動のために使われたのであった。それも金主元に内緒でやればよさそうなものを、何を考えているのか、だいぶ経ってから、浅見のところに公演初日の案内状と招待券を二枚送って寄越した。浅見に特定の彼女などいないことぐらい、白井が知らないはずはないから、浅見と金主元である母親の雪江未亡人と、連れだって観に来てくれ——という意思表示としか思えない。  また浅見のほうも、お人好しというべきか、何の疑いも抱くことなく、母親を誘って白井の主宰する東京シャンハイボーイズなる、何やらうさん臭い劇団の旗揚げの公演を観に出掛けたものである。  白井は浅見母子の顔を見ると、駆け寄って来て、雪江の手を取らんばかりに、猛烈な早口で感謝の言葉を述べた。 「……おかげで何とか公演にこぎつけることができました」  一瞬、そう聞こえたから、浅見は驚いて、「おいおい……」と言いかけたが、白井はさっと身を翻して楽屋へ引っ込んだ。  芝居のほうは白井の新作だそうだが、浅見は芝居の内容どころでなく、あの金はいったいどうなるのか——と、そればかりを心配していた。 「なかなか才能のある方じゃないの」  雪江は帰り道に、感想をひと言だけ、そう言った。芝居の才能のことを褒《ほ》めたのか、詐欺師の才能のことを皮肉ったのか、よく分からない。浅見はビクビクしながら、ただ「はあ」とだけ答えた。  それっきり、雪江は金のことを口にしたことはない。白井はもちろんである。期限であるはずの年末どころか、年を越した正月に浅見家を訪問したときも、借金の「シャ」の字も言わなかった。白井一流のおとぼけなのは分かっているのだが、正月早々、借金の催促も何だから——と言いそびれたまま、とっくに時効を経過した。  白井はJ大を出たあとも演劇活動をつづけていて、東京シャンハイボーイズもつぶれずに不定期ながら公演をうっている。何度か招待券を送ってきて、そのうち一度か二度、観に行ったが、白井の顔を見ると不愉快な借金のことを思い出さないわけにいかない。芝居そのものは面白いし、なかなか魅力的な女優もいたりするのだが、そんなわけで最近は足が遠のいている。  その白井からの電話——それもいきなり「助けてくれ」だから、ロクな頼みではないと思った。 「いま警察にとっ捕まっている」と白井は心細そうな声で言った。 「警察? また詐欺か?」 「詐欺?……おい、冗談を言ってる場合じゃない。殺人事件の容疑者にされそうなんだ。いくら関係がないって言っても、刑事は聞く耳をもたない人種らしい。下手すると、逮捕されるかもしれない。そんなことになったら、わが東京シャンハイボーイズは壊滅しちまう。詳しいことはあとで説明するが、とにかく大至急来てくれ。じゃあ頼んだよ」  言うだけ言うと、乱暴に電話を切った。 「馬鹿じゃないのか、あいつ……」  受話器を置きながら、浅見は呟《つぶや》いた。  いくら芝居がかったことの好きな男とはいえ、白井のあの口ぶりだと、まんざらでたらめではなさそうだ。こっちこそ詐欺事件の被害者だし、彼の劇団が破滅しようが、知ったことではないけれど、友人が無実の罪に問われようとしているのを、見て見ぬふりもできない。  しかし、浅見としてはどうしようもなかった。何かしてやりたくても、白井はどこにいるのか、言わなかったのだから。  白井の自宅に電話すると、留守番電話になっていた。結婚したという話は聞いていないが、結婚していたとしても、あの白井のことだ、とっくに逃げられたにちがいない——などと、勝手な想像をした。  東京シャンハイボーイズの事務所があるのかないのか、調べるほどお人好しにはなりたくない。とにかく、ルスロク電話に文句を吹き込んでおいたら、それから二時間も経って、白井が電話をかけてきた。 「留守番電話を聞いたよ。まったく、頭脳|明晰《めいせき》なおれとしたことが、よほど慌てていたんだなあ」 「頭脳明晰はともかくとして、きみはいまどこにいるんだい?」 「土山だ——と言っても分からないだろうけどな」 「いや、土山町ぐらい知っているさ。『あいの土山』だろう。京都から東海道を下ってくると、鈴鹿峠にかかる手前の宿場だな。そんなところで何をやっているんだい?」 「仕事だ、ロケーションだよ。だが、警察がうるさくて身動きできない。うちの連中を一人一人|掴《つか》まえては、いろいろ探りを入れている。今日はたまたま雨だから、どうせ仕事にならないが、こんな調子で、警察がわれわれを疑っているかぎり、お手上げなんだ」 「きみ自身に対してはどうなんだ?」 「もちろん、おれだって例外じゃない。いや、はっきり言って、警察はおれが本命だと思っているらしい」 「そうか、それじゃ、逮捕されるのも時間の問題だな」 「ばか言うな、おれは殺《や》ってない」 「犯人は皆そう言うよ。しかしまあ、言い分があるなら聞いてやってもいい。いったい何があったんだ?」 「全貌《ぜんぼう》についてはまだよく分からないが、とにかく、鈴鹿峠でロケをやっていたら警察がやって来た。昔、うちの劇団にいた長屋という男が殺されたというのだ」  それからかなり長い時間をかけて、白井貞夫は事件の内容を話した。  長屋明正という男がダム湖で、他殺死体となって浮かんでいたこと。  長屋は東京シャンハイボーイズのロケ隊の連中と食事をしたあと、独りで帰ったらしいということ。  長屋が乗って行ったはずの車が、翌朝、ロケ隊が泊まっている宿の駐車場にあったということ。  警察は、長屋と最後に接触していたロケ隊員に重点を置いて捜査を進めていること。  どうやら警察は、長屋が劇団に在籍していた当時から、団員と多少の軋轢《あつれき》があったことに注目しているらしいこと。  そして、警察は長屋と小宮山佳鈴とのあいだに何かあることや、白井との三角関係を疑っているらしいこと。 「小宮山佳鈴さんというと、東京シャンシャンボーイズのプリマじゃなかったっけ?」 「ああそうだけど、しかし浅見、東京シャンシャンじゃなくて、東京シャンハイボーイズだよ」 「どっちでもいいよ。それよか、佳鈴嬢と被害者とのあいだに何かあったというのは、事実なのか?」 「いや、あったといっても、長屋の一方的なものだろう。横恋慕っていうやつだ」 「きみはどうなんだ。白井と彼女との関係はあるのか?」 「おれと佳鈴とは、あくまでも東京シャンハイボーイズのボスと女優の関係だ。警察や浅見が邪推するような特別な関係なんてもんじゃない」 「ほんとかな? 警察相手だと、きれいごとではすまないと思うよ。正直に言っちまったほうが、心証はいい」 「……まあ、もちろん、おれだって彼女だって独身だからな、多少のことはある。いや、もちろんプラトニックなものだよ。おれは、商品には手をつけない主義だ」 「なるほど、まあ信じることにするよ。しかし、いま聞いたかぎりでは、警察の判断が正しいと思うしかないね」  浅見は言った。 「そこの何とかいう国民宿舎の従業員が犯人でないとすると、ロケ隊の連中がもっとも怪しい。常識的に考えると、かつて被害者と付き合っていた佳鈴嬢と、その愛人である白井某に容疑が集中して当然だ」  白井は「ふーっ」とため息をついた。そのため息で騙《だま》された経験があるから、浅見は大いに警戒した。 「まったく浅見の言うとおりだろうな。警察はそう思い込んでいるにちがいない。でなければ、こんなにしつこく、事情聴取を反復するはずがないものな。冗談でなく、このぶんだと、早晩、警察にしょっぴかれるかもしれない」 「それはかなり気の毒な状況だが、警察が誤った捜査をしないかぎり、いずれシロクロははっきりするよ。いまとなっては、まあ、何もかも正直に供述して、警察の心証をよくするよう、心掛けるのがいいね」 「おいおい、そういう突き放したような言い方をしないでくれよ。それでは困るから、こうしてきみに頼んでいるんじゃないか。刑事にいつまでも付きまとわれていては、われわれは商売にならないんだ。おれはともかく、佳鈴は一応、清純な役どころで売っているのだからね。いや、彼女ばかりではない、長屋というやつは、東京シャンハイボーイズのメンバーの中では、まあ一種の嫌われ者だったから、在籍中もほかの団員と何かと揉《も》めることが多かった。警察はそこまで範囲を広げて調べている。いってみれば、劇団全員を容疑の対象にしているみたいなものだ。たまったものじゃないよ」  白井の嘆きは本物らしい。 「それで、僕にどうしろって言うんだい?」 「決まってるだろう。きみは近頃、探偵として知られた存在だそうじゃないか。いや、おれが言いだしたんじゃない、彼女——小宮山佳鈴が浅見のことを知っていた。きみに頼むように言ったのは佳鈴なんだ」 「ほうっ、彼女がねえ……つまり、小宮山佳鈴さんの身の潔白を証明しろということか。それなら引き受けてもいいが」 「佳鈴だけじゃなくて、おれのも頼むよ。それに劇団全員のもだ」 「驚いたなあ。それじゃ、容疑者全部ということか?」 「いや、長屋の親戚《しんせき》関係だとか、かもしか荘の従業員だとか、地元の土山町の人間の中にだって容疑の対象になっている連中はいるだろう。そっちのほうは逮捕されようと死刑になろうと、どうでもいい」 「ははは、相変わらずひどい自己中心主義だな。しかし、それにしてもちょっと腑《ふ》に落ちないのだが、そんな嫌われ者の長屋氏が住んでいるところを、なんだってロケ地に選んだりしたのだ?」 「それは、土山に斎王の史蹟《しせき》があったからだよ。われわれの撮っている作品が『斎王の葬列』というのだから、因縁からいってもまさにぴったりの場所だし、実際、ロケ地としても環境がいいのだ」 「斎王の葬列……か。なんだか不吉なタイトルだな」  浅見はいやな感じがした。斎王といえば、京都|葵祭《あおいまつり》のときの、華やかな斎王代|御禊《ごけい》の行事が思い起こされる。大勢の女官や衛士に守られながら、しずしずと進む御腰輿《およよ》の中に、きらびやかな冠を被《かぶ》り十二|単《ひとえ》を装った斎王代の気高い姿がある。  斎王は神に仕える身として、この世の人間の中ではもっとも穢《けが》れを忌み嫌う立場だ。そして穢れの最たるものが「死」である。したがって、「斎王の葬列」とは、両極端にあるものを合体させたような、異様なミスマッチということになる。 「そうだろう、いかにも不気味なタイトルだろう」  白井は自慢そうに言った。どうやら本質的なことは何も分かっていないらしい。 「ところで、僕に事件の調査を依頼するからには、一応、報酬も考えてくれているんだろうね」  浅見は無駄と知りつつ、訊いてみた。 「まさか……」と、白井は電話の向こうで絶句した。それ以上、確かめる気力を喪失して、浅見は受話器を置いた。     4  長屋明正が殺された事件で、土山町中が大騒ぎになった。甲東木材の専務としてばかりでなく、長屋はいろいろな意味で町の「有名人」であったのだ。「えーっ、まさか……」というのと「やっぱり……」という感想が交錯し、長屋の生い立ちから、ここ数年の不行跡についてのあれこれが、洗いざらい述べ立てられた。しかし、時間が経過するにつれて騒ぎがひとまず落ちつくと、まるでこの日の天気のように重苦しく、異様な静けさが訪れた。  どこへ行っても刑事の聞き込み捜査にぶつかるし、あまりおおっぴらに噂《うわさ》をすれば、それこそ痛くもない腹を探られかねないとあって、町中がまるでお通夜のようにひっそりと沈み込んでしまった。  久米美佐子のところにも刑事が何度かやって来た。事件の数日前、長屋が文化財調査委員会の部屋を訪れ、美佐子にまつわりついていたのを、役場の連中はたいてい知っている。そのことを誰かが話したらしく、刑事は美佐子にしつこく事情を質《ただ》した。  もっとも、美佐子がここに勤めるようになったのは、この四月からだし、長屋が町の女性にちょっかいを出すのは、めずらしくもないことだったから、警察は美佐子が事件に関わっていると考えたわけではなさそうだ。  ただ、美佐子の父親が激怒していた事実があるので、むしろそっちのほうのことについてばかり質問した。とくに事件当夜の父親のアリバイについて、かなり念入りに調べている気配が感じ取れた。ばかばかしい、いくら怒鳴りつけたからといって、殺したりするわけはないのに——と思うが、警察というところは、無駄でも何でも、ひととおり調べないと気がすまないものらしい。  いずれにしても、美佐子にしてみれば、長屋などという男には、何の興味もないのだし、憎むとか憎まないとかいう間柄ではない。それを、あたかも二人のあいだには何かがあったのでは——と勘繰られかねないような展開になるのは、それこそ嫁入り前の娘にとっては大迷惑だ。  しかし、美佐子にしても、長屋の死に対して無関心ではいられない。たとえ向こうの勝手であっても、とにかく何度もしつこく付きまとわれた男が殺されたのである。気分のいいわけがない。  そればかりではなく、例の、長屋が言っていた「ヒトカタシロ」のことが妙に心に引っ掛かってならなかった。  望田が言うように、長屋が御古址の盗掘をしていたとすると、ヒトカタシロというのは、斎王にまつわる埋蔵品なのだろうか。長屋はヒトカタシロなるものが、ずいぶん貴重な品であるかのような口ぶりであったけれど、いったいそれは、どのようなものなのか?  そんな貴重品であるなら、彼の死は盗掘を怒った斎王の霊の祟《たた》りなのか——という、ふつうなら愚にもつかないような疑念が、払っても払ってもうっとうしく湧《わ》いてくる。  望田に、冗談めかして「長屋さんは、御古址の罰が当たったのでしょうか?」と言ってみた。望田は笑うどころか、ギクリとして振り返り、「そうかもしれない」と言った。本音に近いものが感じられた。  美佐子は(やだ——)と思った。訊《き》くんじゃなかった——と後悔した。 「久米さん、あんた、長屋君から何か聞いているのとちがうかね?」  望田はこっちを窺《うかが》うような、鋭い目つきで言った。美佐子は「えっ? いえ……」と言葉を濁したが、隠しておかなければならないようなことでもない。 「あの、ヒトカタシロというのは、どういう物ですか?」 「ヒトカタシロ?……ほう、長屋君は人形代《ひとかたしろ》を掘り出したのか。そう言ったのかね?」 「いえ、掘り出したのかどうかまでは知りませんけど、そういう物を持っていると言っていました」 「そうか、人形代があったのか……」  望田は深刻そうな顔で腕組みをした。 「それですけど、ヒトカタシロというのは、何なのですか?」 「そうか、あんたは知らないのか。どうも、近頃の大学は何を教えているんだか……まあしかし、それもいいとしますか」  望田は書棚から分厚い論文集のような本を抜き取ってきた。まるで経済白書か何かのように味もそっけもない白い表紙に『国立歴史民俗博物館研究報告』と印刷されている。望田はその後ろのほうのページを探り出してくれた。  トビラのタイトルは『招福・除災——その考古学』とある。執筆者は奈良大学の教授で水野正好という人であった。 「この中に人形代のことが分かり易く書いてあるから、読んでおきなさい」  望田はそう言うと、さっさと部屋を出て行った。  美佐子はパラパラとページをめくってみたが、ずいぶん長い論文である。目次の「第一章 百済《くだら》王奉献護身剣の世界」などというのを見ただけで、逃げだしたくなったが、なんとか我慢して活字を辿《たど》った。  問題の「人形代」の文字は、第三章の「国家と招福除災のまじなひ」というところに出てきた。どういうわけか、論文には「まじなひ」とあって「まじない」と書かれてないのだが、わざわざそういう表記にする理由は、美佐子には分からなかった。とにかく、論文によると、日本は中国の影響を受けて、藤原宮・平城宮の時代から「まじなひ」にドップリ漬かったらしい。そのまじなひの用具の一つに人形代がある。  人形代というのは、ごく単純な人形の恰好《かつこう》をした板状のこけしみたいなものだと思えばいい。「一|撫《ぶ》一|吻《ぷん》」といって、人形代で体を一撫ですることによって体外の穢《けが》れを祓《はら》い、人形代に息を吹きかけることによって体内の穢れを祓う。そうして身の穢れを託した人形代を川に流し、禊《みそぎ》を行なうのだ。  人形代には木製、鉄製、銅製などがあり、天皇が用いるものには金・銀製のものもあったようだ。  論文にはいくつもの人形代を描いた写生絵が掲載されてあり、それを見ると、テルテル坊主を平たくしたような、ずいぶん稚拙なもので、目鼻を彫り込んだものも多い。  本来は「祓え」の儀式に用いるのが目的だが、後年の丑《うし》の刻参りに使った藁《わら》人形のように、呪《のろ》いのために用いるケースもあったらしい。目に釘《くぎ》を打ち込んだ人形代が出土した例もあるそうだ。それで、長屋は冗談に「呪い殺す」と言っていたのか——と、美佐子はようやく思い当たった。  都から伊勢へと向かう斎王は、旅のところどころで禊を行なった。当然、それには人形代も使われたはずだ。その人形代が垂水頓宮《たるみとんぐう》の御古址から発掘されたとしても、不思議ではないのかもしれない。ただ、論文には「川に流す」というのが禊の方法と書いてあって、土に埋める方法もあるとは書いてない。岡の中腹のような頓宮の森の近くに川はないので、そこに人形代を埋めたのは、単純な祓えの儀式ではなく、呪術的要素があったのかもしれない。  もしそうだとすると、その人形代には、斎王の穢れや、それに悲しみ、恨みなどといった怨念《おんねん》が込められていたにちがいない。そんなものを掘り出して隠し持っていたら、ろくなことにならないだろうに——と、美佐子は慄然《りつぜん》とした。  間もなく戻ってきた望田に、美佐子は「研究」の成果を話した。 「もし、長屋さんが人形代を掘り出していたとすると、祟《たた》りがあって当然なような気がしてきました」  これは正直な感想であった。 「ああ、あんたがそう思いたくなる気持ちはよく分かるねえ」  望田は頷《うなず》いた。「人形代はふつう、川に流すのだが、それを拾った人間が祟りで死んだという言い伝えは、昔からいくつもある」 「そうなんですか」 「うん、しかし、長屋君の死は、現実には殺人事件なのだ」  望田はきびしい表情で言ったが、その時ふと、美佐子は理由もなく、望田が事件のことについて、何か知っているのではないか——という気がした。  事件が起きてから、美佐子は町の連中と接触しないように努めた。しかし、そうやってじっとしていても、どこからともなく、事件に関する噂《うわさ》が入ってくるものだ。  警察はどうやら、あの日、滝樹神社裏の河原でロケをしていた映画の連中を重点的に調べているらしい。長屋が主演女優にちょっかいを出して、スタッフの誰かと口論していた——といった話が、まことしやかに伝わってきた。  滝樹神社のロケを見物に行っていた町の人間が、事実、長屋が女優にベッタリくっついて、何やら親しげにしているのを見ていたそうだ。  なんでも、主演女優というのは、ドラマの中で斎王役を演じているらしい。そんな話を聞くと、ますます、斎王を冒涜《ぼうとく》した罰が当たったと思いたくなってくる。  役場の観光課の話によると、ロケ隊は雨に降り込められて、かもしか荘を動けずにいるとのことだ。雨は明日も降りつづくという天気予報が出ている。スタッフが、撮影の日程が延びることを了承してほしいと言ってきたとかで、観光課長が「迷惑なこっちゃ」とぼやいていた。マスコミの取材が入れ代わりたちかわりやって来て、仕事が手につかないというのである。  もっとも、長屋を通じてロケーションの申し入れがあった際、町はロケを歓迎していたことも事実である。映画でもテレビでも、観光の宣伝になる。便乗して、何か町興しのイベントでも考えようか——と言っていた矢先のことなのだから、いちがいに疫病神扱いもできない。  ロケ隊にとっても町にとっても、まったくありがたくない雨だが、逆に警察にとっては恵みの雨だろう。足止めを食ったままのロケ隊のメンバーは、まるでかもしか荘に拘留されたような状態で、執拗《しつよう》な事情聴取にさらされているそうだ。  ただし、成果のほうはぜんぜんだったらしく、捜査本部からは目新しい発表は何も出ない。報道陣もサジを投げたように、地元新聞社が残っただけで、あとは全部、引き上げて行った。  第四章 天は怒りて     1  浅見光彦が東京を発ったのは、白井貞夫からのSOSがあった二日後のことであった。翌日すぐに出発できなかったのは、経費をひねり出すのに時間がかかったためである。財源は、もちろん『旅と歴史』の藤田編集長を丸め込むしかない。出版界の景気がいまいちだそうだから、はたして、あのシブチンが話に乗ってくるかどうか不安だったが、藤田は思ったより簡単に、浅見の誘いに引っ掛かった。 「神に嫁《とつ》いだ皇女《こうじよ》たち——というタイトルはどうですかね」  浅見はそう言って、斎王群行や斎宮にまつわる取材企画を切り出した。  部下が出払った編集部の部屋で、デスクに足を載せてひまそうに鼻毛を抜いていた藤田は、たちまち「ん?」という顔になった。歴史雑誌を長いことやっているせいで、「神」だとか「皇女」だとか「斎王」だとかいう、シャーマニズムに関わるような単語に敏感な体質になっている。 「いいね、それいいよ。時あたかも皇太子殿下のご成婚を間近に控えて、宮中の行事に国民の関心が集まっているところだしね。よし、六月号は斎王特集で組もう。原稿は三十枚。ゴールデンウィーク前に下版しておきたいから、締切りは二十日だ。すぐに取りかかって、原稿は明日からでも、書いた分から逐次ファックスで送ってくれ。イラストを並行して発注しておくから。いいね?」  さすがに編集長らしく、テキパキと指示した。スケジュールはきついが、文句を言っている場合ではない。 「分かりました。けど、その前に取材費をお忘れなく」 「取材費? そんなものがいるの?」  藤田はゼニの出る話になると、とたんに浮世ばなれした、とぼけた顔になる。 「それはそうですよ。伊勢神宮と明和町の斎宮歴史博物館、それと、土山町の垂水《たるみ》頓宮跡と大津の近江国府跡《おうみこくふあと》ぐらいは調べてこないと」 「なんだかいろいろあるんだな。だけど、どうせマイカーで行くんだろ?」 「それにしたってガソリン代と高速料金がかかりますよ。まあ、宿は安いホテルにしますけどね」 「あれ? 車で寝ればいいじゃないか」 「鬼みたいなこと言わないでくれませんか。そんなこと言うと、この企画、『歴史読本』に売りますよ」 「ははは、冗談だよ。分かった、取材費は原稿と引換えに渡すから、すぐに取りかかってください。ね、浅見ちゃん」  ライバル雑誌の名前をチラつかせたら、とたんに猫なで声を出した。騙《だま》すのはこっちのほうだから、かなり気が咎《とが》めたが、どうせ安い原稿料なのだ、多少のずるやアルバイトは許されていい。  そして捜査への——いや、取材への出発は四月十七日になった。相変わらず、しとしと雨が降って、うすら寒い朝である。  東名高速を名古屋で下り、名古屋市街の真ん中からは東名阪自動車道、亀山から伊勢自動車道を通って伊勢まで一気に走った。本来の目的地は土山だが、原稿を送らなければならないので、とにかく取材のほうを先にすますことにした。  取材の目玉は、まず斎宮歴史博物館。そして斎王群行のルート、そして五つの頓宮跡である。  斎宮歴史博物館は松阪市の西隣、明和町というところにある。  博物館のある辺りは、かつては多気郡斎宮村といった。町村合併の結果、その名が明和町になったのだが、まったく脈絡がなさそうなこの二つの自治体名は、変遷の過程を遡ると、ちゃんと繋がっている。まず昭和三十年に斎宮村と明星村が合併して斎明村が成立した。さらに昭和三十三年に斎明村は隣接する三和町と合併、「明」と「和」の文字を取って「明和町」が成立し、ついに由緒ある「斎宮」の文字は完全に消滅したのである。  せっかく「斎宮」という地名があったものを、無味乾燥ともいえる「明和」にしてしまったのは、もったいない気がする。いまからでも町名変更して「斎宮町」にしたほうが、観光政策の面からいっても数段すぐれていると思うのだが、そんなことを考えるのは、余所《よそ》者の無責任というものだろうか。  それにしても斎宮歴史博物館は立派なものであった。敷地面積一万八〇〇〇平方メートル、延床面積五一〇〇平方メートル、鉄筋コンクリート一部二階建てという壮大さだ。  この付近はどこを掘っても斎宮にまつわる史蹟《しせき》や遺物が出てくると言われるほどの考古学上の宝庫なのだが、じつはそれが確認されたのは、ほんの二十年あまり前のことでしかないという。  地元では「呪《のろ》われた森」だとか「あやしの岡」だとか言われ、人々があまり近づきたがらないまま放置されてきた土地に、あるとき建設業者の手が入ったのが、「大発見」の端緒になった。パワーショベルがひと掘りしたとたん、出るわ出るわ、斎宮寮で使われていたと思われる什器《じゆうき》類から、何かの祭祀に用いられた道具や土偶のたぐいが、ゾロゾロ出土した。  それっきり、パワーショベルなどの大型建設機器は使用を禁止され、文化庁や三重県の学術調査委員会などの指導で、手掘りによる発掘調査が始まった。建設業者にとっては迷惑この上ない騒ぎではある。片や地元の古老たちは、何か祟《たた》りがなければいいが——と、遠巻きに作業を覗《のぞ》き込んでいたそうだ。  斎宮史蹟は想像をはるかに越える規模であった。もともと、斎宮に関する記録は皆無に近い。斎王制度にかぎらず、天皇家の祭事の核心部分は秘密のベールに包まれているから、そこで起きた出来事を記録するようなことはしなかったらしい。斎宮や頓宮の場所が分からなかったのはそのためだ。  斎宮の敷地面積は約一四〇ヘクタールにおよぶらしい。作業開始以来二十年を越えて、ようやくその十分の一を発掘した。幅十二メートルの道路が碁盤目のように区画を作り、これまでにおよそ千五百棟の建物跡がみつかっている。もちろん出土品も膨大なもので、その成果が斎宮歴史博物館として集大成された。そしてことしの一月、ついに斎宮の中心である、館の跡と考えられる遺跡が発掘され、いまはちょっとした斎宮ブームなのである。  博物館といえば、あくまでも学術的で生真面目《きまじめ》なものというイメージがあるが、斎宮歴史博物館は、学問とは縁のない人々も楽しませるように造られている。むしろ、どちらかといえば観光施設といったほうが当たっているかもしれない。  とくに映像展示室の、フィルム映像と等身大の斎王などの立体模型を巧みに組み合わせた解説は、ほとんど文学的といっていい感銘を観客に与える。三面マルチスクリーンを通して、伊勢の風景や華やかな王朝風俗が描き出される中で、斎王制度の成立から、斎王に選ばれた皇女の喜び悲しみまでが伝わってくるようだ。  浅見にしてみれば、取材はあくまでも「捜査」の費用を捻出《ねんしゆつ》するための口実のようなものであったが、この斎宮歴史博物館に入館したとたん、ミイラ取りがミイラになったように、斎王のとりこになってしまった。  メイン展示室では斎王が伊勢神宮に参拝する情景を、立体画像で見せている。タテ一メートル、ヨコ三メートル、奥行き二メートルほどの箱型の展示物の中に、実物を三十分の一程度に縮めたぐらいの伊勢神宮|内宮《ないくう》の模型が造られ、「マジックビジョン」と呼んでいるホログラフ装置を使って、まるで手品のような立体映像が繰り広げられる。浄衣《じようえ》姿の斎王が二人の女官を従え、しずしずと参道を進み、神殿の前に額《ぬか》ずく様子が、手に取るように見えるのである。  長いこと眺めていた初老の女性が、ため息まじりに「長生きはするもんやねえ……」と言ったが、周囲にいる者も同じ想いとみえ、誰も笑わなかった。  入館者はほとんどが中年以上の女性で、何かの団体旅行客のようだ。そういえば、駐車場に大型バスが何台か停まっていた。  そういう人々の中に、浅見はちょっと気になる女性を視野に収めていた。  年齢は二十代前半ぐらいだろうか。ぶどう色のレインコートに、共布の帽子をかぶり、周辺のおばさん連中と比較するせいか、ちょっと垢《あか》抜けた感じだが、それほどの美人ではなさそうだ。もっとも、浅見が彼女に関心を抱いたのは、そういったこととは直接関係はなかった。  その女性は浅見が入館するとき、何組か前に入った客である。連れはなく、切符を買う際も、はっきり「一枚」と言っていた。  ちょうど映像展示室の開演時間だったので、浅見は人々のあとにつづいて展示室に入った。その女性も浅見の少し前の席に坐った。ところが、開演後まもなく、彼女はひっそりと席を立って行ってしまった。  男の浅見でさえ、心惹《ひ》かれるような、幻想的で魅力的な映像による解説が始まっていたから、その途中に席を立つというのは、少しどころでなく、意外な感じがした。すでに何度も来て、見飽きているというのならまだしも理解できるけれど、彼女が入館するときの、周囲を物珍しそうに見回す様子からは、そんな印象は受けなかった。  彼女のことが気にかかる、それが最初の理由である。  そしていま、彼女は展示品を熱心に眺めていた。最前の、中途で席を立った素っ気なさとは対照的に、その熱心さが異様なほど際立っていた。  だいたい、博物館の展示品などは、縁なき衆生《しゆじよう》の一般人にとっては、あまり興味を惹かれないものである。斎宮歴史博物館はその点、一般向きに親しみ易く工夫してあって、前述のマジックビジョンを観るだけでも、十分楽しめる。しかし、そうはいっても、博物館の性格上、考古学的な真面目な(?)出土品だってきちんと展示してあるわけで、そういったものは、興味本位の観客にとっては、それほど面白いものではない。  その女性が身をかがめるようにして眺めているのは、斎宮寮で使用されていた什器類の模型や、出土した土器や祭祀具、印影など、およそ地味なものばかりが展示されているコーナーであった。おまけに、女性は眺めるばかりではない。手帳を出して、何か書き込みでもしているらしい。  浅見のいる位置からでは何を書いているのか、対象物が何なのかまでは見えないが、よほど学問的な関心があるのでなければ、あんなふうに熱心にはなれないと思えた。  さっき「長生きは……」と言った初老の婦人は、まだその場所を動かないで、もう一度最初から、斎王の内宮拝礼のシーンを見物するつもりのようだ。浅見もそれに付き合うような恰好《かつこう》を装って、視線は若い女性の挙動のほうに向けていた。  マジックビジョンの斎王の拝礼は、およそ七、八分程度で終わってしまう。「長生き」の婦人も立ち去って、周囲には次から次へと新しい観客がやって来る。浅見は端のほうに身を寄せてはいるけれど、彼らにしてみれば、ずいぶんしつこい邪魔な人間に思えるにちがいない。  若い女性はそれ以上にしつこく、展示品の前を動かない。 (何を見ているのだろう?——)  浅見はとうとうその場を離れ、ごく自然に振る舞って、大きく迂回《うかい》しながら女性に近づいた。  浅見が身近に接近するまで気づかないほど、女性は展示品に没入している。もっとも、見学者は大勢いて、女性の後ろをゾロゾロと通り過ぎてゆくのだから、いちいち気にしていたらきりがないこともたしかだ。それに、何も不審を抱かないで見れば、女性のそういう姿は、単に熱心な見学者としか映らないにちがいない。むしろ、そんなふうに他人の挙動に強く興味を惹《ひ》かれる浅見のほうが、見ようによっては、変質者と勘違いされるかもしれなかった。  女性が眺めているのは三方《さんぼう》のように小さな六つの膳に盛られた食事の展示品であった。解説には「正月の食事」と書いてある。  正月元旦、天皇は「歯固め」という儀式を行なう。餠《もち》、タイ、コイ、アユ、イノシシ、シカ、ダイコン、カブ、酒、屠蘇《とそ》など山海の産物に天皇が箸をつける儀式で、現在のおせち料理の原型になるものである。「歯固め」には天皇の長寿を願うことと、国土支配を確認する意味があり、同様の儀式を斎王も行なっていたという。  その「歯固め」の膳を、女性は手帳にスケッチしていた。浅見がさり気なく覗《のぞ》く視線を感じたのか、チラッと振り向いて、すぐに手帳を閉じた。その時には、すでにほぼ描き上げたようにも見えた。  女性が立ち去ったあと、浅見はごくふつうの速度で展示品を眺めながら歩いた。女性はほかの物には興味がないのか、壺などの土器の前は足早に通り過ぎて、葱華輦《そうかれん》の前で停まった。  葱華輦というのは輿《こし》の一種で、寄せ棟式の屋根の中央に、葱《ねぎ》坊主型の飾りがついているところからそう呼ばれる。天皇、皇后、皇太子など、皇族の中でもごくかぎられた人々だけが乗用を許されるものである。昭和天皇の大葬の際に、柩《ひつぎ》を載せ、大勢の担い手によって運ばれたのも、たしか「葱華輦」だったような記憶がある。その程度のことは浅見も知っていたが、斎王の群行の際も葱華輦が使用されたようだ。  そのおそらく原寸大と思われる模型がそこに展示してあった。女性は葱華輦をいろいろな角度から、ためつすがめつ眺めている。そして、またぞろ手帳を出すと、素早いペンさばきでスケッチを始めた。館内は写真撮影が禁止されているのだが、そうでなければ写真を撮りまくっているところだろう。  やはり、ただひたすらに熱心で真面目な研究者——ということなのだろうか。かといって、学生という感じではない。  しばらく、そういう彼女の姿を眺めていたが、浅見はそっとその場を離れ、博物館をあとにした。     2  伊勢神宮や周辺での斎王に関する取材は、あまりパッとしたものにはならなかった。つい最近、斎宮の館《やかた》跡が発掘されたというニュースが報じられたが、斎王や斎宮のことは、まだまだ研究が端緒についたばかりという印象である。  その夜は津のビジネスホテルに泊まった。地方都市のホテルの安いのには、ほんとうに助かる。安い取材費よりもまだ安いから、浅見は車の中で眠らなくてすむのだ。  土山のかもしか荘にいる白井に電話すると、状況は好転する兆しも見えないとのことである。「そんなところでウロウロしていないで、とにかく早く来てくれ」と、情けない声を出した。長雨のせいもあるのか、電話するたびに滅入ってゆく様子で、こっちまでも憂鬱《ゆううつ》になる。  ところが、翌朝、起きてカーテンを開けると青空が広がっていた。天気予報ではまだ雨が降りつづくということだったのに、まったくあてにならない。かもしか荘に電話すると、ロケ隊は朝早くに出発したそうだ。ロケ地がどこかは知らないという。夕方までには帰るでしょう——と呑気《のんき》そうに言った。  それまでのあいだ、こっちも本業に専念することにして、浅見は斎王群行の道筋を逆に辿《たど》りながら、土山に向かうことにした。  といっても、群行がどこを通ったのか、正確には分からない。松阪市と、斎宮のある明和町の境を流れる祓《はらい》川で、斎王が最後の禊《みそぎ》をして伊勢神宮の神域に入ったことは分かっているのだが、どの辺りで祓川を渡ったのか、当時の道は歴史の重みと、堆積物の下にすっかり埋もれてしまった。  伊勢に近い順に、壱志、鈴鹿、垂水、甲賀、近江国府——とある頓宮《とんぐう》の所在地も、垂水を除く四カ所は定かではない。  松阪市のすぐ隣に一志郡一志町があり、JR名松線にも一志という駅がある。浅見は一志町を訪ねてみたが、駅前はふつうの田舎町だし、町役場で聞いても、やはり壱志頓宮の場所など、その面影すらないらしい。ただ、この付近にはかつて古墳のような小さな岡は沢山あったそうだ。役場の二階から見えるこんもりした森も、そう思って見ると、何やら由緒ありげであった。  鈴鹿頓宮は、かなり確度の高い説として、鈴鹿郡|関町《せきちよう》の古厩《ふるまや》というところにあったとされる。関町はその名のとおり、東海道三関のひとつがあったところだけに、その信憑《しんぴよう》性はかなりのものと考えられるけれど、やはりここの役場でも、その正確な場所は把握していないということだった。  町の真ん中にある寺の境内に車を置いて、周辺を歩いてみた。この町は旧街道沿いに宿場当時を偲《しの》ばせるような建物が多く、町並み保存が徹底していて、観光客を十分に満足させるだけの雰囲気も施設も備わっている。かつて京都のお公卿《くげ》さんや大名家でもてはやされた「関の戸」というまんじゅうが、いまでも街道筋の小さな店で作られていた。  古厩というのは、関町の中心街とは国道1号線と関西本線と鈴鹿川を挟んだ対岸——町域の南側にある戸数三、四十ばかりの小さな集落である。その辺りは名阪国道と伊勢自動車道が交差する関ジャンクションに近く、昔の面影はほとんど残っていない。鈴鹿川の流れ自体、数百年ものあいだには変動があっただろう。かりに頓宮跡があったにしても、洪水によって流されたかもしれない。  町の北側にある小学校|脇《わき》の坂を登って、高台から眺めると、町並みや鈴鹿川が一望できる。対岸には何かの大きな工場が見えて、たぶんその辺りが頓宮跡かと思うのだが、町の人に訊《き》いても「さあ?」と首をかしげるだけであった。  浅見はついに諦《あきら》めて、あたりの風景を写真に収め、ソアラに戻った。  しかし、斎王の群行がこの旧東海道を通ったことは歴史的な事実なのだ。多少道筋は違うのかもしれないが、この道をあの華やかでどこか物哀しい行列が、しずしずと歩んで行ったのである。  ソアラをゆっくり走らせながら、浅見はフロントグラスの向こうから、春の日を浴びた斎王の群行が、ゆらりゆらりとやって来る情景を思い描いた。  旧東海道は町並みの西のはずれで国道1号線に合流し、また分岐して右手の山裾《やますそ》に入ってゆく。浅見は国道を外れて旧街道を通って行くことにした。  あまり育ちのよくなさそうな杉の木の茂る山を右に見て、ぽつりぽつりと家が建つ集落を抜ける。長く伸びた竹の葉が頭上に揺れかかるような、のどかな道である。  市ノ瀬、沓掛《くつかけ》の集落を過ぎると、やがて、東海道の三重県側最後の宿場であった坂下宿である。鈴鹿峠にかかる重要な宿場だった坂下も、いまはその賑わいを偲ぶよすがもない。簡易郵便局のある中心部付近を除くと、道に面した家|一重《ひとえ》だけが細長く連なる集落であった。  谷が狭まり、鈴鹿山系の山肌に埋没しそうな地形だ。車を走らせていても、行き交う人の姿はほとんど見かけないけれど、ふしぎに寂れた感じはしない。家々のところどころに黄や薄紅色の花が咲き、牧歌的な明るさが漂っている。  郵便局から出てきた中年女性の二人連れを見かけ、浅見は車を出た。この辺りに斎王に関する言い伝えなどがないか訊いてみたが、やはり何も知らないということだ。二人とも地元で生まれ育った人だそうだから、ほかの人たちに訊いてみても、似たような答えしか得られないだろう。  要するに、斎王の事蹟《じせき》については、ほとんど何も残っていないにひとしいらしい。藤田編集長にかっこいいことを言って出てきた割に、取材の成果はあまり期待できそうにない不吉な予感がしてきた。  坂下の道をさらに進むと、道はやがて草ぼうぼうの林道のような坂に突き当たった。そこから先は、それこそ草鞋《わらじ》がけでもなければ登れそうにない。  国道1号線は、この旧東海道よりはるか西側の斜面を大きく迂回《うかい》して、上りと下り二本の道路とトンネルで鈴鹿峠を一気に越える。この辺りの森林の多くはその国道を通したときに伐採したから、いまはもう、明るすぎるくらいに明るいが、昔の東海道は山賊が出没する原生林の中の道だったにちがいない。この胸突き八丁のような急坂を見上げると、かつて鈴鹿峠が難所として恐れられていたことが実感できる。  それにしても、この坂道を斎王の行列はどうやって下りてきたのだろう。  浅見はしばらく峠の方角を見上げていてから、舗装道路が行き止まるところにある小さな草地で苦労して車の向きを変え、いま来た道を戻り、国道1号線に出た。  鈴鹿越えの道はかなりの勾配《こうばい》だが、全線が二車線の一方通行で快適に走れる。峠を登りつめ、トンネルを抜けると、あとは緩やかな下り坂。土山町の中心部まで、わずか十五分の行程であった。  町に入ってすぐのガソリンスタンドで、事件のことを訊き、長屋家を訊くと教えてくれた。南土山の集落のいくぶん峠寄りに、旧東海道に面して立派な門がある。門塀の間口は狭いが、敷地の奥行きは長く、門から少し入ったところからの前庭もかなり広い。二階建ての純日本風の屋敷も、この辺りではひときわ目立つ大きな家であった。屋敷の背後の庭もかなり広い。内実のことは分からないが、相当な素封家といってよさそうだ。  大きな屋敷はひっそりと静まり返っている。無人かと思ったが、玄関の呼び鈴を押すと、遠くで女性の応える声がして、まもなく長屋の母親が現れた。いままで仏壇の前にいたのか、湿っぽい空気と一緒に、線香のにおいを運んできた。  母親には「明正君の大学時代の友人」という触れ込みで自己紹介をした。間違っても、東京シャンハイボーイズの白井の紹介だなどとはいうな——と白井自身が言っていた。 「学生時代は、長屋君にはずいぶん世話になったのです」  仏間の遺影の前で、型通りお線香を上げさせてもらってから、浅見は殊勝げに、沈痛な顔で悔やみを述べた。 「あんな男らしい人はないのに、まったく、神も仏もないっていうのは、ほんとのことですねえ」  自分でも歯が浮きそうなことを言った。 「聞くところによると、東京シャンシャン何とかいう劇団が来ていて、長屋君を引っ張り出したそうですが」 「そうですのや、あれが災難を連れて来よったにちがいない、思うとります」  母親は劇団の名前を聞いただけで眉《まゆ》をひそめ、あからさまに不快感を示したが、浅見の誘いに乗って、よく喋《しやべ》ってはくれた。  白井から聞いた予備知識を物差しにするかぎりでは、母親は息子をかなり美化して語っているように思えた。東京の大学を出て、ケッタイな劇団の誘惑にも打ち勝って帰郷し、甲東木材の専務として前途洋々であったことを語り、「それがあんなことになってしもうて……」としきりに愚痴った。  古川柳に「おふくろはもったいないが騙《だま》しよい」というのがあるけれど、長屋母子はまさにそれを地でいっていたようだ。息子が誰かに恨《うら》まれていたとか、殺されなければならないような過失を犯していたなどといったことは、この母親にはまったく想像もつかないにちがいない。  実際、具体的なことは何も分かっていないらしい。「詳しいことは警察に聞いてください——」と母親は言った。マスコミも含めて、いろいろな人間から同じ質問を受けて、いいかげん疲れ果てた様子が窺《うかが》えた。 「事件の前に、長屋君に何か変わったところはありませんでしたか?」  浅見は最後に訊いた。 「べつに何もなかったですよ」  母親は素っ気ない。 「長屋君がお母さんと最後に話した言葉は何でしたか?」 「そらあんた、『行ってくる』いうようなことやったと思いますけど」 「たしかに『行ってくる』とおっしゃったのですか? それだけですか?」  浅見はわざとメモに〔行ってくる〕と書いた。母親はその手元を覗《のぞ》くようにして、「そうですなあ、行ってくるとは言わんかった思いますけど……」と、いくぶん慎重に言葉を選んでから言った。 「劇団が撮影に来ているので、それを見に行く言うてました」 「何の撮影とか、そういうことは?」 「ああ、斎王さんの何だかとか……そう言うたもんで、わたしは何やらいやな気ィがしましたんや」 「いやな気がした——というと、どうしてですか?」 「それは……よう分かりませんけど、斎王さんのことにはあまりさわらんほうがええのと違いますか? 第一、あの朝、森に追いかけられて殺されそうになった夢を見たとか言うとったのやし……」 「ほう……」  浅見はメモを取る手を硬直させて、母親の口許を見つめた。 「そんな話をされたのですか」 「はあ、夢の話ですけどなあ。けど、不吉な夢と思いませんか? なんぞ御古址《おこし》の森に悪さをしたのやないか——て、そのとき思いました」 「オコシの森——と言いますと?」 「いえ、明正はただ『森』言うただけですけど、そういう恐ろしい夢やったら、やっぱし御古址の森やったと思います」 「そのオコシというのは何ですか?」 「ああ、おたくさんはご存じなかったですかなあ。御古址いうたら、斎王さんの頓宮跡のことですがな」 「ああ……」  浅見は頭の中でワープロのキーを叩《たた》いて、〔御古址〕という活字を思い描いた。その語感から、この町の人びとが頓宮に対して抱いている敬虔《けいけん》な気持ちであるとか、一種の幻想のようなものにまで想像が広がった。 「そうすると、長屋君は御古址にいたずらでもしたのですか?」 「いいえ、わたしはその時そう思うただけですけど、あとから、息子が御古址の森を掘り返しとったのやないか言う人がおるもんやさかい」  多少、心外な——という気持ちを込めて、母親は唇を尖《とが》らせた。 「ひどいことを言う人がいるものですねえ。かりに御古址の森を掘っていたとしても、それは考古学の勉強をしようとしていたにちがいありませんよ。長屋君は斎王のことに、じつに詳しかったですからね」 「そうですやろか……」 「そうです。僕も学生のころ、ずいぶんいろいろ教えてもらいました。考古学のほうを専攻していたのですが、斎王のことなんか、ぜんぜん知識がありませんでしたからね。その点、長屋君はさすが、垂水頓宮の地元出身だけに、具体的なことをよく知っていて、感心しました。発掘した土器を見せてもらったこともあります。自宅にはそういう土器類がたくさんあると自慢していました。将来は、それを元にして論文を書くと言っていたのですが、志なかばにして、こんなことになって……惜しいことです」  浅見はときどき、自分に詐欺師の才能があるような気がして、自己嫌悪に陥ることがある。長屋の母親にでたらめを喋りながら、ほんとうに、しんみりして、ほとんど涙ぐみそうになった。  母親は「はあ、どうも……」と肩を落として、しばらくぼんやり考えてから、「あのォ、浅見さんに見ていただきたいものがありますけど」と言った。  母親のあとについて、廊下を建物の奥まった辺りまで行くと、十畳ばかりの板の間がある。ひんやりした空気が澱《よど》んでいて、その正面に土蔵の入口があった。土蔵を母屋と直結してしまったらしい。 「ここは明正が大事にしとった場所で、生きているあいだは、親の私でさえ、入るのをいやがっとりました。ほかの人には、どなたにも見せんかったのですけど、明正の親しくしていただいた浅見さんにだけは、見ていただきたいのです」  どういうわけか、土蔵の入口の上にはしめ縄が張られている。母親はまるで神社に対するように柏手《かしわで》を打ってから、鍵を使って土蔵の戸を開けた。  土蔵の中は、冬の気配をそのまま閉じ込めてしまったように、いっそう気温が低い。書画|骨董《こつとう》でも入っているのだろうか、桐の箱や長持ち、茶箱などが積み上げてある奥まったところに鉄製のロッカーがあった。  母親は扉を開けて、「これですけど」と、浅見に立つ場所を譲った。 「人形代《ひとかたしろ》……」  浅見は思わず息を飲んだ。大小さまざまな形の人形代が、ロッカーの棚に所狭しとばかりに並んでいる。銅製のものが多いが、中には木製のものもある。かなり腐食して、ただの木切れのようになって、顔の部分に目鼻口だけが、やけに鮮明に刻まれているのなど、ゾーッとさせられる。 「ずいぶんありますねえ」  浅見は不気味さを打ち消すように、とりあえず声を出した。 「これは何ですやろ?」  母親は人形代を知らないらしい。「人形代ですよ」と言っても、反応が鈍かった。  浅見は人形代の何たるかを、簡単に説明した。  心身の穢《けが》れを託して川に流したり、土に埋めたりしたもの——という解説に、「おお、気色悪い……」と、母親は寒そうに両方の肩を抱くようにした。 「そしたら、ここにある、その、人形代でしたか、これには昔の人の穢れみたいなものがひっついてますのか?」 「まあそうですが、迷信ですから」  浅見は慰めるように言ったが、母親の恐怖は消えない様子だ。ロッカーの前から一歩二歩と退いた。 「刑事さんの話だと、明正の車に、これと同じものが置いてあったのやそうです」 「ほうっ……それで、刑事さんにはこれを見せましたか?」 「とんでもない、見せたりしませんがな」 「どうしてですか?」 「どうしていうて……明正が殺されたことと、これらとは、関係ないでしょう」 「さあ……関係ないかどうかは、警察に判断してもらったらいかがですか?」 「そうかて……」  母親はさんざん躊躇《ためら》ったあげく、思い切ったように訊いた。 「どないでしょうか。この人形代ですけど、明正はまさか、御古址で掘り出したもんとは違いますやろなあ」 「なるほど」と、浅見は気の毒そうに頷《うなず》きながら、言った。 「お母さんは長屋君が盗掘していたのではないかと、気になさっているのですね。しかし、かりに御古址で掘ったものだとしても、さっきも言ったように研究の対象にしていたのですから、べつに悪いことではないと思います。警察だって文句は言わないでしょう」 「そうでっか、大丈夫でっか?」 「大丈夫ですよ。それに、なんてったって、長屋君は殺人事件の被害者のほうなのです。被害者が遠慮なんかする必要はまったくありませんよ」 「そうですわね、そうですわね。あの子が何をしたのか知らんけど、殺すことはないですよねえ。ほんま、死んでしもうたら、帰ってこられへんのですものなあ……」  母親はべそをかいた。浅見は「そうですとも、大いに怒っていいのです」と、母親の背中を撫《な》でてやった。     3  国道沿いのトラック相手の食堂で、遅い昼飯をかっこんで、浅見がかもしか荘に辿《たど》り着いたのは、午後三時ごろである。食堂のおばさんに聞いた道が間違いだらけで、三度もUターンさせられた。  まだ帰っていないと思っていたロケ隊の連中は、とっくに引き上げていて、かもしか荘はざわついていた。スタッフ、出演者合わせると総勢五十人あまり。ロビーには風呂の順番がどうしたとか、マージャンのメンバーを誘う声などが飛び交っている。  白井は思ったより元気そうにロビーに現れた。 「よお、来てくれたか。ちょうどよかった。きょうもロケは中止したんだ。まあ、一杯やりながら、のんびりしてくれ」  そんなことを言っていた白井だが、自室に入って浅見と二人きりになったとたん、「参った参った、踏んだり蹴《け》ったりだ」と頭を抱えてみせた。斎王の群行が鈴鹿山中の難所にかかるシーンを撮る予定だったが、森の中の道が、数日来の雨でぬかるんで、スタッフはもちろん、出演者までが滑ったり転んだりで、泥塗《どろまみ》れになったという。 「撮影どころの騒ぎじゃねえんだ。斎王を載せた輿《こし》がひっくり返りそうになってさ、佳鈴は死ぬかと思ったそうだ。いや、おれだってもうだめかと思ったよ。さすがの佳鈴も音を上げたね。もうやめようなんて言い出す始末だ。これは斎王の祟《たた》りじゃないかなんてことを言う」 「なるほど、そうかもしれない」 「おい、冗談にもそんな、けしかけるようなことを言ってくれるなよ」 「いや、冗談でなく、『斎王の葬列』なんてタイトルをつけたりして、この企画は不吉すぎるんじゃないのか?」 「何を言ってるんだ。『斎王の葬列』だから面白いのじゃないか。『斎王の行列』だったりしたら、面白くも何ともない」 「それはそうだが、しかし僕は反対だな」 「なんだ、浅見らしくもなく、迷信深いことを言うじゃないか」 「迷信とか、そういう問題じゃないよ。感性の問題だ。他人が大事にしているものを、面白半分、土足で踏みにじるようなのは、あまり好きになれない。祟りだとか、そういう迷信があるのは、タブーを侵す不心得者が出ないようにする古人の知恵だ。路地の塀に鳥居の絵が描いてあると、何となく小便をしにくいものだろう」 「おいおい。総合芸術である映画と立ち小便を同次元で比較するなよ」  ドアをノックして、小宮山佳鈴が顔を覗かせた。メイクを落とした表情には、心なしか疲労の色が滲《にじ》み出てはいるが、それでもやはり、スターの輝きがあった。 「ご無沙汰しております」と挨拶されて、浅見は面食らった。「あ、やっぱり忘れていらっしゃるんですね」と言われても、まったく思い当たるものがない。 「すみません、忘れっぽい人間なもんで」  浅見はかぶとをぬいで、謝った。 「いいんです。だってもう、八年も昔のことですから」 「八年?……」 「私が東京シャンハイボーイズに入って、はじめて主役をいただいたとき、スポンサーになってくださったでしょう」 「ああ、あのときの……」  浅見はようやく気がついた。白井に騙されて、当時としては巨額の金を母親から出してもらった、あのときの芝居のヒロインが彼女だったのだ。 「いやあ、ステージでしか見ていないものですから、あなたがそうだったとは……」 「いいえ、楽屋でご挨拶しましたけれど」 「えっ、そうですか? じゃあ、眩《まぶ》しくて何も見えてなかったにちがいない」 「ははは、浅見にしてはうまいお世辞だ」  白井が冷やかしたが、浅見は取り合わないで、佳鈴に言った。 「白井に聞きましたが、警察にいろいろ責められているそうですね」 「ええ、とてもしつこくて……むこうはそれが仕事でしょうけど、精神的に参ります」 「失礼ですが、小宮山さんと長屋氏とのあいだに何があったのか、差し支えなければ聞かせていただけますか?」 「何もあるものか」と白井が言った。 「そんなことありませんよ」  佳鈴は抗議するように、口を尖《とが》らせた。 「いや、あったとしても、やつの一方的な横恋慕に決まっている」 「ちょっと、白井は黙っていてくれないか。でなきゃ、出て行ってくれ」  浅見は真顔で言った。白井は「分かったよ」と口をへの字に結んだ。 「あらためてお訊きしますが、長屋氏とあなたとの関係は、完全に長屋氏の片思いだったのですか?」 「いえ、そうとばかりは……正直言って、私のほうも煮え切らないところはあったと思うんです。まだ若かったですし」 「いつごろの話ですか?」 「えーと、六年前かしら、長屋さんからプロポーズがあったのは」 「えっ、プロポーズまで行ったの?」  白井が思わず口走って、浅見と佳鈴の冷たい目で睨《にら》まれた。 「六年前というと、小宮山さんは二十一、二歳ですか?」 「二十一になったころです。大学の卒業が近づいて、いつまで芝居を続けるのか迷っていて、精神的に不安定な状態だったし、ボスは相談相手にはならないし……」  白井は何か言いたそうにしたが、苦しそうな顔で沈黙を守った。 「なるほど、白井は強引な男ですからね。小宮山さんが辞めるなんて言ったら、怒り狂って、何をするか分からなかったでしょう。それで長屋氏に相談を持ちかけたりして、それを彼が好意を寄せられたと錯覚したということですか」  当て推量で言ったのだが、ずばり的中したらしい。佳鈴は目を丸くして頷《うなず》いた。 「だと思います。私にはそんなつもりはなかったのですけど」 「いや、小宮山さんみたいな魅力的なひとに、胸の内を打ち明けられたりしたら、誰だって錯覚するし、有頂天にもなります。しかしあなたは長屋氏のプロポーズを一蹴《いつしゆう》したわけですね?」 「いいえ」  佳鈴は悲しそうに首を横に振った。 「えっ!……」  二人の男は同時に叫んで、たがいを非難するような視線を交わした。 「じゃあ、プロポーズをOKしたのですか?」と浅見が訊いた。 「はっきりOKとは言いませんでしたけど、お受けしてもいいかな——とか、気持ちが揺れて……いえ、ほんとにそう思ったんです。一生、演劇をつづけてゆくとは思えなかったし、家の者には大学にいるあいだだけという約束になっていて、結婚話もあったりして、だったら芝居の好きな者同士のほうがいいかなと思ったり……ですから、どっちつかずの曖昧《あいまい》な態度だったと思います」 「しかし、結果的にまとまらなかったということは、断ったのですね?」 「いえ、断られました」 「えっ、断られた?」 「ええ」 「ちょっと待ってください。そこのところ、詳しく教えてくれませんか。言い出した長屋氏のほうが断ったのですか?」 「ええ、そうです。もう愛情が無くなったから——と言われました」 「ひでえやつだな……」  白井が呟《つぶや》いたが、浅見も同感だったので、文句はつけなかった。 「そのときは私も、なんてひどい——と腹が立ちましたけど、でも、あとになって、そうなった原因がうちのほうにあったことが分かったんです」 「なるほど。つまりおうちの方が反対されたのですか」 「ええ、そうです」 「それじゃ、長屋氏はその理由を言わないまま、別れて行ったわけですか」 「そうです。そのことがあって間もなく、長屋さんは東京シャンハイボーイズを辞めて、土山に帰りました」 「ふーん、ばかなやつだ」  白井が憮然《ぶぜん》として言った。 「いや、僕はそうは思わないな。なかなか男らしいじゃないですか」  浅見は長屋に同情した。 「でも、私の気持ちとしては、やはり悔しかったし、あとで事情が分かってからも、不完全燃焼みたいな感じが残りました。あのまま長屋さんが強引に突っ走っていたら、おそらく、駆け落ちしてでも結婚していたかもしれません」 「そうだよなあ。相撲部屋でもあるまいし、いまどき、周囲の人間が反対したからって、あっさり諦めることはないじゃないか」  白井は言ったが、浅見は冷笑した。 「何言ってるんだ。もしそのとき、小宮山さんが長屋氏に奪われたりしたら、黙っていなかっただろう」 「ああ、もちろんだ。ぶっ殺してやったかもしれないな」  言ってから、白井は慌てて口を押さえた。 「おい、いまのはたとえばの話だぞ」 「いや、貴重な参考意見として、警察に伝えるよ」  冗談で言ったが、もしも警察がこの話を聞きつけたら、白井への容疑が深まることは間違いない。 「おうちの方が結婚に反対された理由は、何だったのですか?」  浅見は訊いた。 「それが、はっきり分からないのです。最初、両親に話したときは、おまえの好きなようにしなさいって言っていたのです。それが何日か経って、祖父の家に呼ばれて行くと、あの男はやめたほうがいいって……芝居をやってるような男は信用できないとか言ってましたけど、それが本当の理由だったとは思っていません。おそらく、長屋家の家庭の事情なんか調べたりしたのじゃないでしょうか。それから間もなく、長屋さんから電話で断りを言われました」 「愛情が無くなった——とですか?」 「ええ」 「それにしても、ずいぶん唐突ですね」 「ええ。私にもプライドがありますから、親には黙ってましたし、追いかけたり、話を蒸し返すような真似はしませんでしたけど、頭にきましたよ」  佳鈴は冗談めかして、わざと蓮《はす》っ葉《ぱ》な言い方をしているが、それだけに、そのときの悔しさがストレートに伝わってくる。 「その話、警察にはしましたか?」 「まさか、しませんよ、そんな恥さらしみたいなこと。でも、たとえ話したとしても、ずいぶん昔のことだし、この事件と関係があるなんて、思わないでしょう?」 「いや、警察はそうは考えないでしょうね。たとえ六年前とはいえ、過去にそういうことがあったと分かれば、長屋氏と再会して、殺意が芽生えた——などと疑う可能性があります。僕が弁護士なら、その話はしないほうがいいとお勧めしますね」 「そうだな、そのほうがいいな」と白井も賛成した。 「おれのことだって、噂《うわさ》にすぎないって言ってるのに、佳鈴と長屋との三角関係を執拗《しつよう》に追及してくるのだからね」 「でも、黙っていても、警察はいずれ嗅《か》ぎつけるんじゃないかしら。長屋さんのお母さんあたりから話を聞くかもしれないし」  佳鈴は憂鬱そうに言った。 「いや、長屋氏の母親は、息子さんと小宮山さんのことは何も知らないみたいですよ」 「えっ、そうなんですか? じゃあ、うちの親は、長屋さんのお宅に伺って、直接調べたわけじゃないんですね」  佳鈴はほっとした顔になった。 「小宮山さんのお祖父さんは、なぜ長屋氏との結婚を反対されたのでしょうか?」 「さあ、それは知りません。親たちでさえ、祖父が反対したこと自体、ずっとあとになってから知ったくらいですから」 「長屋氏は一人息子ですが、その点がネックになったということは考えられますか?」 「でも、私には兄も弟もいますから、べつに嫁に行ったって差し支えないはずでしょう。現に、いまもこうして芝居をつづけて、家にはほとんど帰らないんですもの」 「なるほど……」  浅見は長屋家のいかにも素封家らしいたたずまいを思い浮かべた。小宮山家がどれほどの家か知らないが、長屋家と不釣り合いだとは考えにくい。 「長屋の人柄が気に入らなかったのじゃないかな」  白井が言ったが、それには佳鈴が不満そうに首をひねった。 「祖父が長屋さんと会ったとは思えないし、興信所かどこかに頼んだとしても、それだけで人柄が分かるかしら?」 「しかし、結果として佳鈴をあっさり振ったんだからさ、てめえ勝手なやつだったのかもしれないよ」 「それは私もそう思うけれど、でも、長屋さんがプロポーズしたときの感じからいうと、そんな簡単に豹変するとは考えられないわ」 「ま、いずれにしても、そうなる運命だったということだよ」  白井の柄にもない運命論で話が締めくくられた。  そのあと、白井と佳鈴に対する警察の事情聴取の内容や、これまで分かっている事件の全容について、洗いざらい聞き出した。  警察はかなりの秘密主義だが、それでも、事情聴取を通じて、ある程度の情報を窺《うかが》い知ることができるし、地元の住民からもいろいろと噂話が入ってくるようだ。それらを総合すると、やはり、長屋明正殺害の犯人が、事件当夜かもしか荘にいた人間である可能性が高いとする警察の判断は、正しいと言わざるを得ない。     4  その夜、浅見は白井の部屋に泊まることになった。宿泊代が浮くのは、この際、ありがたい。夕食はロケ隊の連中と一緒にぼたん鍋をつついた。「毎晩こんな豪勢な料理を食っているのか」と羨《うらや》ましがると、白井は顔をしかめて、「ぼたん鍋も四度目となると、完全に食傷ぎみだよ」とぼやいた。  しかし、白井の憂鬱や警察の圧力にもかかわらず、ロケ隊のスタッフは陽気そうだ。連日の雨に閉じ込められて、思わぬ休暇を楽しんでいるらしい。撮影はできなくても、ギャラは拘束日数分だけ支払われる仕組みになっているのである。  天気予報で明日は快晴と出た。「よし、みんな、明日は五時起きだ。マージャンは禁止する」と、白井はハッパをかけた。  十二時前には寝たことがない宵っ張りの浅見まで巻き込んで、十時になると、白井はさっさと部屋の明かりを消した。 「きょう一日晴れたから、森の中の道も、いくらか乾いてくれただろうな。なんとかあと二日ぐらいで撮り終えないと、また予算オーバーだよ」  寝床に入ってからも、白井はしばらくブツブツと泣き言を言っていたが、そのうちにいびきをかきはじめた。気にしだすと、ますます眠れない。  諦めて、浅見はロビーへ行った。まだ十一時を回ったばかりだというのに、白井の威令が行き届いているのか、ロビーには人けがなかった。それぞれの部屋ではまだ起きているのかもしれないが、やけに静かだ。自販機でビールを買って、テレビをつけた。音量をほとんど聞こえないくらいに小さくして、プロ野球ニュースを見る。  あの夜、長屋がこのロビーを出たのは、十時を少し過ぎたころだったそうだ。従業員の一人が彼の後ろ姿を見ている。かもしか荘の玄関はいまは薄暗いが、そのときはまだ明かりが残っていたという。  そっちのほうに視線を凝らすと、玄関を出て行こうとする長屋の姿が意識のスクリーンに浮かび上がってくる。  ドアを開けて、夜のしじまの中に出て行く寂しげな後ろ姿である。  長屋の人生とは、いったい何だったのだろう——などと思う。東京の大学に入り、演劇を志し、芝居仲間に愛する女性を見つけ、プロポーズした……。そこまでの長屋の人生は、前進あるのみといった積極的なイメージしかない。だが、恋に破れた瞬間を転機に、長屋は後退に次ぐ後退をつづける。芝居を諦め、東京を撤退し、郷里に帰ってからも、その生活ぶりは冴《さ》えなかったようだ。挙げ句の果て、不名誉にも御古址《おこし》の盗掘を疑われ、その祟《たた》りのように殺されてしまう。 (そんなの、ないよ——)という、長屋の悲痛な叫びが聞こえるようだ。 (ん?——)と浅見は、電気椅子に電流が流れた瞬間のように、全身の筋肉が収縮し、尻から上体が二、三センチ、浮き上がった。 (女の悲鳴が聞こえた——) 「あーっ」という悲鳴をたしかに聞いたと思った。  反射的にテレビのスクリーンを見た。画面には「ゴジラ」というニックネームの巨人の新人選手が映っている。叩き殺しても死ぬどころか、悲鳴すら上げないようなふてぶてしい容貌《ようぼう》である。 (何だろう、いまのは——)  遠いかすかな悲鳴だが、空耳という感じではなかった。  悲鳴は玄関の外の、夜のしじまを貫いて聞こえてきたような気がする。浅見はほとんど無意識に立ち上がり、窓辺に寄ると、闇の奥を窺った。  少し霧が出たのだろうか。道路から駐車場に入ってくるところに立つ外灯が、周辺を淡く照らし出している。光の及ぶ範囲は知れたもので、そこからほんの少し離れた位置に並ぶロケ隊の車が、ぼんやりと見えるほかは何も見えない。  浅見は背後を振り返った。誰かいまの悲鳴を聞きつけて現れはしまいかと期待したが、聞こえなかったのか、それとも全員がすでに寝静まったのか、自販機のモーターのうなり声がやけに大きく聞こえるほかは、猫の鳴き声一つしない。  浅見は玄関ドアのロックをはずして、外に出た。  春とはいえ、鈴鹿山系の麓だけに、さすがに夜が更けるとうすら寒い。虫も鳴かない夜の静寂はほんとうに不気味だ。  浅見は耳をすまして、もういちど、あの悲鳴が聞こえるのを待った。  どこの谷なのか、かすかな瀬音が霧の粒子を震わせて伝わってくる。  やはり空耳だったのだろうか——。  浅見は外灯の明かりを浴びる位置まで歩いて行った。  ロケ隊の車両が数台、霧に濡れたボディを鈍く光らせている。トラックの荷台に載せられた斎王の輿《こし》の、時代がかった屋根のシルエットは、なんだか禍々《まがまが》しい意志を持つ怪物のように見える。元来が臆病な浅見は、背筋にゾクッとするものを感じて、慌てて建物に引き返した。  時刻は十一時五十七分——。  テレビを消したとき、廊下の奥から小宮山佳鈴が現れた。パジャマの上に淡いパープルのガウンを羽織って、肩をすくめ、いかにも寒そうだ。 「いま、変な声、聞こえませんでした?」 「あ、あなたも聞きましたか」 「ええ、悲鳴みたいな声を夢の中で聞いて……それじゃあ、ただの夢じゃなかったんですね。何かあったのかしら?」  不安そうに、窓の外を窺った。 「いま、外を見てきましたが、べつに変わった様子はありませんでした」 「そうなんですか……」  佳鈴は振り返って、「綾子さん——マネージャーの塚越綾子さんがいないんですけど、まさか彼女に何かあったのじゃ……」と言った。眉《まゆ》をひそめ、口を少し開けた顔が、凍りついたようにこわばっている。 「いないって……同室のひとですか?」 「ええ。七時頃からずっと姿が見えなくて気になっていたんです」 「何か、彼女にそれらしい兆候のようなことがあったのですか?」 「いいえ、べつに……ただ、夕方から何となく落ち着かない感じはあったかしら……」 「落ち着かない感じ、ですか」 「ええ、時計を気にしたり、妙にいらいらしているような感じでした。だから、どこか外出でもするのかしらって思ったりもしたんですけど」  とりあえず、浅見は部屋に戻って、白井を呼んできた。その間に佳鈴のほうも、塚越綾子の不在をたしかめている。  ロビーに寄り合った三人の顔は、一様に不吉な予感を浮かべていた。 「どこかにしけ込んでるんじゃないのか」  白井は無理に楽観的な見方をしたがっている。もし長屋の死のことがなければ、それですませたかもしれないが、不吉な予感はますます増幅するばかりだ。  かといって、どうすればいい——という方針も定まらなかった。ロケ隊の全員をたたき起こすのはいいが、結局、それこそ「しけ込んで」いたりしたら目も当てられない。 「悲鳴が聞こえたっていうの、間違いないんだろうね?」  白井にそう訊かれると、はたしてあれが悲鳴だったのかどうか、浅見も佳鈴も確信は持てない。 「とにかく、確認しよう」  白井が決断を下して、すべての部屋に電話をかけた。最初は女性の部屋から始めて、しだいに男どもの部屋にも問い合わせた。  寝入りばなを起こされて、寝ぼけた声で意味不明のことを言ったり、中には不満を言う者もあった。しかし、塚越綾子の姿が見えないと聞かされると、やはり不安そうに、何があったのかを問いかける。 「いや、べつに大したことじゃない。そっちに行ってなきゃいいんだ」  そう言ったが、何かしら不穏な気配を察知するのだろう。そのうちに三三五五、心配した連中がロビーに集まってきた。中の何人かは、たしかに悲鳴を聞いたと言っている。  塚越綾子はどこの部屋にもいなかった。みんなで手分けして、トイレから風呂場に到るまで探し回ったが、結局、徒労に終わった。騒ぎを聞きつけて、かもしか荘の従業員も起きだしてきた。連日、警察が出入りして、いいかげんうんざりしているところへ、またぞろ怪しげな出来事である。さぞかし迷惑なことだろうが、それでも協力して全館隈なく「捜索」してくれた。  収穫はゼロ——。  残るは建物の外ということになる。ひょっとすると、こっそり町にでも出掛けたのかもしれない。 「どこかへ遊びに行ったんじゃないの?」  誰かが希望的観測をこめてそう言った。 「それはないと思うけど……」  佳鈴は力なく首を横に振った。綾子が同室の佳鈴に黙って外出するとは考えられない。しかし、絶対にそうかと言われると、断定はできなかった。現実に、かもしか荘の浴衣も、綾子がいつも着ているパジャマも部屋にあり、その代わり、ふだん仕事以外のときに着ている服装が、丸ごと消えているのだ。  もはや、無断外出したか、そうでなければ何らかの事故か事件があったとしか考えられなくなった。例の悲鳴との関連が、しだいに深刻な意味を持ってきた。  スタッフが二人で駐車場を調べに行った。車の数は全部揃っていた。念のために中も見て回ったが、もちろん人の姿などない。もし外出だとすると、外部の人間が迎えにきたということになる。  ロケを見物に来ていた地元の人々の中には、馴《な》れ馴れしく声をかける者も少なくない。ただ、それは俳優たちにかぎられていて、マネージャーの塚越綾子がそういう人々の誰かと親しくなったとは、考えにくい。  浅見はまだロケ隊の連中の人間関係や、塚越綾子という女性のパーソナリティも分かっていないから、状況を掴《つか》みかねている。一応、警察に届けるべきでは——と提案してみたが、白井はもう少し様子を見ようと主張した。もしかすると、綾子がひょっこりと帰ってきて、「ごめんなさい」で片づいてしまう可能性もあるのだ。  とにかく夜明けまで待つことにして、全員が部屋に引き上げたのは、午前三時をとっくに過ぎ、そろそろ東の空が白みかけるような時刻であった。 「もう、ロケは目茶苦茶だな」  白井は絶望的にぼやいた。昨夜は「五時起きだ」と張り切っていたのが、結局、七時起床ということになり、朝食の席でも、眠そうな顔ばかりが並び、まるっきり気勢が上がらなかった。  皮肉なことに、天気のほうはからりと晴れ渡り、絶好のロケ日和。まるで、ロケ隊の不幸をあざ笑っているかのようだ。  そして、塚越綾子はついに帰ってこなかった。彼女の身に何があったにせよ、もはや綾子のことなんかにかまけてはいられない。八時を期して全員がかもしか荘を出発することになった。  浅見は玄関前に見送りに出た。小宮山佳鈴の華麗な斎王ぶりを見物したくもあったが、土山町の人々や警察と接触して、長屋の事件の背景を探らなければならない。  俳優たちは乗用車とマイクロバスに、スタッフはトラックとワゴン車などに分乗して、六台がゾロゾロと動きだした。トラックの荷台に、ほかの大小道具と一緒に積まれた葱華輦《そうかれん》のような輿《こし》がユラユラ揺れながら行くのは、なんとなく霊柩車を連想させる。  荷台の四隅には小道具係らしい男が、衛士のようにうずくまっている。 (たしかに、斎王の葬列だな——)  浅見は一瞬、そう思った。  葬列の一行が駐車場から道路に出るところで、積み荷を留めたロープでも緩んだのか、トラックが停まった。  男の一人が立ち上がり、しきりに輿にかけられたロープを引っ張ったり、荷の座りを直したりしていたが、そのうちに、浅見のところまで聞こえる大声で「あっ」と叫んでひっくり返った。  何かに蹴躓《けつまず》いたのか、それとも足がもつれたようにも見えたが、男はすぐに立ち上がると、意味の聞き取れない言葉を仲間にぶつけながら、ふたたび輿に向かい、簾《すだれ》を上げて中を指さしている。  そのとたん、浅見は不吉な予感に駆られ、トラック目掛けて走った。夢中で荷台に飛び上がり、四人の衛士を掻《か》き分けるようにして、輿の中を覗《のぞ》き込んだ。  眩《まばゆ》い陽の光を浴びた輿の中は薄暗い。正立方体の輿の底に、不自然な恰好《かつこう》をした女性の死体が転がっていた。 「塚越綾子さんですか?」  浅見が訊くと、男たちはガクンガクンと首を縦に振った。  そのころになると、ほかの車に乗っていた連中も気がついて走り寄ってきた。トラックの荷台によじ登ろうとするのを、浅見は大声で制止した。 「上がらないで! 誰か警察に連絡してください。これは殺人事件です」  それからはたいへんな騒ぎになった。すでにロケの現場近くまで行っていた白井たちも、携帯電話で呼び戻された。やや遅れてパトカーが到着し、つづいて水口署の本隊、さらにしばらくすると、滋賀県警からの応援の機動捜査隊が大挙して駆けつけた。  かもしか荘の人々や、近隣の集落、そして町中から野次馬がやってくる。駐車場一帯を囲ったロープの外側に並んだ人々の顔は、不安と焦燥に引きつっていた。  この平穏そのもののような土山の町で、わずか一週間足らずのあいだに二つの殺人事件が起きるなどとは、ただごとではない。 「祟りやな、これは……」  老人が呟《つぶや》くと、周囲の者たちは「まったくや」と頷《うなず》きあった。 「だいたい、斎王さんの映画なんか作るのがいかんのや。それも、題名が『斎王の葬列』とかいうのだそうやないか。そんな題名をつけるさかい、天が怒って罰を下したんや」 「ロケ隊が来てから、ろくなことが起きてへん。あいつら、疫病神や」  死んだ女性に同情する声よりも、ロケ隊を罵《ののし》る声のほうが大きい。いまのところ警察が現場を仕切っているからいいが、警察が引き上げたとたん、憎しみのあまり、石でも投げそうな不穏な雰囲気になってきた。  第五章 人形代《ひとかたしろ》の謎《なぞ》     1  警察としては当然、長屋明正の事件と今度の塚越綾子の事件とのあいだに、何らかの関連があると考えた。事件はいずれも東京シャンハイボーイズのロケ隊がらみだし、宿舎であるかもしか荘を起点にしている。さらに、発生時刻が深夜の十時から十二時ごろのあいだ——全員が寝静まってからのことである点も、そっくりだ。  町の老人たちに言わせると、魔性のものが横行する時刻——ということになるが、警察側から見れば、泥棒や殺人鬼の横行する時刻でもある。  二つの事件の関連を思わせる要素がもう一つあった。  警察の実況検分が進められる中で、被害者の死体を移動しようと、輿《こし》の中から持ち上げたとき、死体の下に銅製の人形代が落ちていたのである。  もっとも、じつはその時点では、警察はそれが人形代というものであることを知らなかった。長屋の車からそれとそっくりなものが見つかっていたことと、死体の下にあったことから、今回は特別に注目したのだが、長屋の事件のケースではまったくその重要性を無視してしまっていた。  この怪しげな恰好《かつこう》をしたものが、それぞれの事件に登場したのは、単なる偶然とは思えない。これはいったい何なのか?——と、あらためて調べ始めて、それが人形代というものであることを知った。  人形代の正体を警察に教えたのは浅見光彦である。  浅見はむしろ、人形代のことを、警察が知らないのはともかく、白井たち東京シャンハイボーイズの連中が知らないという事実に驚いてしまった。刑事が人形代を示して、「これは何です?」と訊《き》いても、誰も答えられなかったのである。  脇《わき》から覗《のぞ》き込んだ浅見が、「えっ、人形代を知らないの?」と驚き呆《あき》れた声を出して、そこにいる全員に睨《にら》まれた。 「おれたちは見たことがないよ」  白井はブスッと言った。 「しかし、台本を読むと、斎王の禊《みそぎ》のシーンがあったじゃないか。そこで使うんじゃないの?」 「いや、そんなものは使わないよ」  どうやらまったく知識がないようなので、浅見は人形代の何たるかを解説しなければならなかった。  白井たちは、自分の不勉強を露呈した恰好になったが、警察は人形代が東京シャンハイボーイズの物ではないことが分かって、勢いづいた。 「となると、人形代は犯人の遺留品である可能性が強いわけですな」  これは重大な新事実である。それまで警察では、長屋の車にあった人形代は長屋自身の物と考えて、あまり重要視していなかったのだ。長屋の母親は、息子がそういう物を持っていたことを知らなかったそうだが、犯人の遺留品であるなら、知らなくて当然ということになる。  東京シャンハイボーイズ関係者に対する事情聴取には、例によって江間部長刑事が当たっている。江間はロケ隊の四十人あまりの顔をすべて見知っていたが、浅見光彦という、はじめて見る顔の男が、重大発言をしたことに関心を抱いた。  ひととおり事情聴取を終えたあと、江間は責任者の白井と浅見の二人だけを残して尋問した。 「浅見さんにあらためて訊《き》きますが、あんたはどういう関係のひとですか?」  人形代についての解説を拝聴したあとだけに、江間は浅見に対していくぶんの敬意を示している。 「フリーのルポライターをやっています。斎王のことを取材しにこちらへ来ていて、たまたま友人のロケ隊に遭遇したのです」  白井や佳鈴とのあいだで、そういう口裏合わせが成立している。 「じつは、長屋さんの事件で、ロケ隊が身動きできないで困っていると聞いたものですから、なんとかしてやりたいと……」 「なんとかすると言いますと?」 「つまり、事件の謎《なぞ》を解明したいと……」 「ははは……」  江間部長刑事は楽しそうに笑った。「それはありがたいですなあ。そうしてもらえると、われわれは楽でよろしい」 「ほんとですか? それじゃ、捜査に参加させていただけるのですか?」 「は? 捜査に参加?……まさかあんた、本気やないでしょうなあ」 「いえ、本気ですよ。警察に協力するのは、市民の義務だと思っています」 「いや、それはもちろん協力していただくのはありがたいが、捜査に参加していただかんでも、情報を提供してもらう程度のことで十分。危険なことは、われわれに任せていただいて結構です」 「しかし、僕が聞いたかぎりでは、いまのところ、警察の捜査はほとんど進展が見られないそうではありませんか」 「ん? 進展がない? 冗談言うてもろたら困りますなあ。捜査は着々と進展しております。第一、事件発生後、まだ数日でしょうが。事件捜査いうのはそんなに簡単に結論が出るもんとちがいまっせ」 「結論は出せなくても、方針や目処《めど》をしっかり樹《た》てていただかないと、今度の塚越さんのようなことが起こります」 「なんちゅうことを……そしたら、あんた、塚越さんが殺されたんは、警察の責任いうふうに聞こえるやないか」 「いえ、そこまでは言いませんが、これから先、さらにこういう事件が起きないようにしていただきたいのです」 「そんなもん、当たり前やがな。そうそう殺人事件が起きてたまりますか」 「しかし、現実に連続して起きているのですから」 「そんなもん……ん?……」  江間は急いで周囲を見回した。白井のほかには、江間の部下が一人いるほかは、ロケ隊の連中などは刑事の尋問を敬遠して、近くに寄りつかない。 「浅見さん、あんた、まさか連続殺人みたいなことを考えとるんやないでしょうな?」  江間は声をひそめて言った。 「いえ、僕はそう思っています。これは連続殺人の可能性があります。いまのところは二人目ですが、この先……」 「ちょっと待った……」  江間は慌てて浅見を制した。 「あんた、そういう物騒なことを言い触らして、みんなを脅しとるのですか?」 「とんでもない」  浅見は真顔で眉《まゆ》をひそめた。「脅かしてどうするのですか。こんなことは誰にも言いませんよ」 「そう願いたいもんやねえ。そんな、ありもしないデマを飛ばしたり、何か事件があるたびに、寄ってたかって騒ぎを大きくするのは、マスコミさんのいちばんよくないところでっせ」 「そのご意見には僕も賛成です。皇太子のご結婚問題やタレントの婚約問題などで、プライバシーを侵害してまで報道の自由を主張する行き方が正しいとは思いません。この事件について、不確定要素の強い状態で、むやみやたら言い触らすようなことはしませんが、警察に提言するのは別問題でしょう」 「提言——つうと、つまり、自分らに教えてくれるいうわけですか」 「教えるなんて、そんなおこがましいことではなく、捜査の参考になればと思います」 「なるほど、それはまあ、ありがたいことやが」  江間は少し揶揄《やゆ》するような口調で言って、「けど、あんた、連続殺人やなどと、ええかげんなことを提言してもろたら、かえって困りますなあ」 「いいかげんではありませんよ。警察だってそう考えているのではありませんか?」 「ん? 警察が?……そんなもん、まだ初動捜査にとりかかったばかりで、そういうことを考えたり言うたりできる段階ではないでしょうが」 「でしたら、ぜひ、今日の捜査会議でそのことを主張してください。そして、一刻も早く適切な対応をしていただかないと、次の犠牲者が出るおそれが……」 「待ちなさい!」  江間部長刑事は被疑者を尋問するような、怖い顔になって怒鳴った。すぐ脇《わき》の白井がギクッとしただけでなく、遠くのほうにいる連中の目がこっちに向けられるほどの声であった。さすがに、江間もそのことに気づいて、急に声をひそめた。 「あんたねえ、頼むさかい、そういう過激なことは言わんといてくれんか。連続殺人やとか、次の犠牲者やとか……根拠もなしに勝手なことを言うて」 「根拠はあるじゃないですか。あの人形代が何よりの根拠です」 「それは……それはまあ、この二つの事件については関連はあるかもしれんが、かというて、さらに次の犠牲者みたいなもんがあるいうことにはならんでしょうが」 「そうでしょうか。むしろ、この事件が、この二つの殺人だけで終息してしまうと考えるほうが、よほど不自然な気がします」 「なんでやね? どういう理由から、そう思うんかね?」 「理由は……」と言いかけて、浅見は首を横に振った。 「残念ながら、はっきりした理由なんてありません。しかし、殺された長屋さんと塚越さんとのあいだには、五年前まで同じ劇団にいたということ以外、特別な関係があったわけでもないということが、少なくとも連続する第三の殺人を予測させるのではないでしょうか」 「えっ? えっ?……」  江間部長刑事は面食らって訊《き》き返した。 「二人に関係があるから——いうのなら分かるが、そうではなくて、関係がないから連続するとは、またどういうことです?」 「二人の被害者にはっきりした関係や相似性があれば、犯人の意図や目的もはっきりします。しかし、いまも言ったように、長屋さんと塚越さんは、五年以上も昔に、たまたま劇団員同士だっただけで、生活している場所も環境も社会的な立場もまるで違う世界の人間です。したがって、その二人を殺さなければならない目的の一貫性というか、共通性といったものが、犯人にあったとは考えられません。ところが、あの人形代は、二つの殺人に一貫した意図や目的のあることを物語っています」 「何やね、その、目的いうのは?」 「いまはまだ、はっきりしたことは分かりません。とりあえず考えられる目的は、人形代を置くことではないかと思いますが」 「何ですと?」 「人形代を置く——というか、誇示するというか。実際には、長屋さんの場合は、死体はダムの中、人形代は車の中——とべつべつでしたが、あるいはダムの中にも人形代が沈んでいるのかもしれません。しかし、それでは人形代を誇示できない——つまり、犯人の意思を伝えられないので、車の中にも人形代を置いたのですね、きっと」 「どうもよう分からんが……人形代いうものを死体の傍《そば》に置いて、それでどないしよういうのです?」 「それが犯人の意思表示なのだと思います。どういう意思かは分かりませんが、とにかく犯人は人形代を置くことで、自分の存在と意思を誇示しているのですよ、きっと」  江間は鼻の頭に皺《しわ》を寄せ、不愉快そのもののような顔をした。人形代には、藁人形《わらにんぎよう》に五寸釘《くぎ》を刺し、木槌《きづち》で打ち込むのと同様、呪術《じゆじゆつ》の用途があると、さっき浅見が説明したばかりだ。 「要するに、犯人は被害者を呪《のろ》い殺したようなつもりでおると、浅見さんはそう言いたいのですか」 「ええ、そう言っても、ほとんど間違いないと思います」 「それやったら、かなり病的な犯行いうことになりますな」 「病的ですが、通り魔のような、単なる病的な衝動に駆られた、無差別殺人ではないと思います」 「ふーん、つまり、病的ではあるが、動機も目的もあるいうわけですな。しかし、それやったら、なんで長屋さんと塚越さんみたいな、共通したものが何もない二人を殺害せなならんかったいうのです?」 「それはまだ分かりません。ただ……」  浅見は言いかけた言葉を飲み込んだ。 「ただ……どないしたいうのです?」 「いえ、これは仮定のことですが、塚越さんと長屋さんに、共通の因子がまったくなかったかどうか。たとえば、塚越さんと長屋さんが再会したその日に、二人のあいだで何か特別なこと……急速に親しくなるとか、そういうことがあった可能性もあるかなと思ったり……」 「いや、それはないですな。これまで調べたかぎりでは、ロケ隊のどなたさんも、そういう事実は絶対にないと断言しています」 「そうですか。それじゃ、違うのですね」  浅見はあっさり自分の着想を撤回した。  刑事たちが引き上げたあと、白井が怪訝《けげん》そうに訊《き》いた。 「おい、あの時だが、浅見は何を言おうとしていたんだ?」 「あの時って?」 「とぼけるなよ。いちばん最後に、綾子と長屋氏に共通の因子があるかもとか言っていたが、あれは明らかに、何かを言いかけてごまかしたのだろう? 嘘《うそ》をつく時の浅見は目をパチパチさせるからな。刑事は騙《だま》せても、おれは騙されないよ」 「ははは、バレたか。いや、じつはそうなんだ。しかし、それは白井のためを思ってのことなんだぞ」 「おれのため?」 「ああ、白井がこれ以上、刑事の事情聴取に晒《さら》されないようにと思ってさ」 「どういう意味だ、それは?」 「要するに、塚越さんが殺されなければならなかった、長屋さんとの共通因子を考えているうちに思いついたのだが、もしかすると、塚越さんが長屋さんの事件の秘密を何か知っていたためかもしれない。いや、実際には知らなくても、犯人がそう疑った可能性はある。もしそうだとすると、犯人の疑心暗鬼の延長線上に白井が存在しても不思議はない。さらに言えばだよ……」  浅見は声をひそめて言った。 「かりに、犯人の疑いの対象が、かつての長屋さんの劇団仲間だとすると、白井ばかりではなく、たとえば小宮山佳鈴さんも含まれることになる」 「なんだって?……」 「いや、可能性ということから言えば、塚越さんは小宮山さんと誤認されて殺された可能性だってあるさ」 「誤認?……」 「ああ、塚越さんと小宮山さんは同室だったし、ほとんど行動を共にしていたのだからね。もっとも、こんなことを刑事に言ったら、またぞろ、白井や小宮山さんは事情聴取の矢を浴びせられることになる」 「当たり前だ!」  白井は仁王のような顔になった。 「冗談にもそんなことを言ってくれるなよ。それでなくても、これ以上撮影をつづけるのは難しいっていうのに……」  一転、語尾が乱れて、泣きだしそうな表情に変わった。     2  久米美佐子が事件のことを知ったのは、朝、役場に顔を出したときである。なんとなくざわついた感じだったので、訊《き》いてみると、かもしか荘で殺人事件があったという。被害者は例のロケ隊の女性だそうだ。  美佐子はすぐに、長屋の事件との関連を連想した。もしかすると、長屋が東京時代に付き合っていた女性かもしれない——などと思った。  調査委員会の部屋では、望田が商工観光課長の溝口とひそひそ話を交わしていた。 「また、いやな事件があった」  美佐子の顔を見ると、望田は溝口との会話を中断して、憂鬱《ゆううつ》そうに言った。 「ええ、かもしか荘でロケ隊の女の人が殺されたのだそうですね」 「いま溝口さんから聞いたのやが、どうもなあ、斎王の映画を作るのはいいが、多少、冒涜《ぼうとく》するような内容だとかいうこっちゃ。まさか、そのことと事件とが関係しておるとは思わんけど、御古址《おこし》をお守りしとる土山の人間としては、何となく、そういうことも考えてしまう」 「祟《たた》りですか?」  笑おうとして、美佐子はかえって頬《ほお》の筋肉が突っ張るような感じであった。「御古址をお守りしている」という望田の言葉に、土山の人たちの事件の捉《とら》え方が象徴されていると思った。  斎王のことを調べれば調べるほど、美佐子の心の中の斎王像は、表面の華やかさとは裏腹に、人身御供のような、哀れで悲壮感の漂うイメージに昇華してゆく。御古址——頓宮《とんぐう》の暗い森には、しだいに都を遠ざかる旅の心細さに泣いた、斎王の涙がしみているにちがいない。  頓宮のことはもちろん、伊勢の斎宮に関する事蹟《じせき》を公式に記録した文書は、平安時代の初期に編纂された、律令政治下の施行細則集である「延喜式《えんぎしき》」に、斎王の卜定《ぼくじよう》から伊勢への派遣、そして役目を終え都に帰るまでのシステム上のことが規定されている。しかし斎宮での生活——ことに斎王の私的生活を記録した公式文書は、何一つ残されていない。天皇家の秘事中の秘事として、厚いタブーのヴェールに包まれたまま、歴史の霧の底に沈んだのである。 『伊勢物語』に、在原業平(らしき人物)が伊勢の斎宮を訪れたとき、斎王とのあいだにロマンスがあったと描かれている。『源氏物語』などにも斎宮に関する記述がある。そういった文学作品や、外部の文書に記録された事柄から、わずかに斎宮や斎王のすがたを推し量る以外、すべはないのだが、「群行ヲ遂ゲズ……」などといった断片的な記述に、思春期の斎王の悲劇を垣間見《かいまみ》る想《おも》いがする。  土山でロケをしている映画がどういう内容か知らないけれど、望田のように憂いたり苦々しく思う気持ちがあるのと同時に、それだけではなく、若い美佐子には、斎王の喜びや悲しみを、思うさまを、描き出してもらいたいという期待や願望があった。  昼休みに、美佐子はカメラを持って頓宮に出掛けた。穏やかに晴れ渡った空の下で、垂水《たるみ》頓宮の森の一角だけは、相変わらず陰鬱《いんうつ》な翳《かげ》りを作っている。  森の中には木々の精気のような、あるかなしかの靄《もや》が立ち込め、木漏れ日が無数の光の筋を地上に突き刺すのが見える。それが面白く、美佐子はカメラを天に向けて、何度もシャッターを切った。  ふと気がつくと、思いがけぬ間近に男が立っていた。白っぽいブルゾンを着て、白いテニス帽の下から人懐こい笑顔で「やあ、こんにちは」と言った。 「また会いましたね」と言われて、思い出した。斎宮歴史博物館でチラッと見かけた男だった。その時の、ちょっとしつこい視線を感じて、不愉快だった気持ちが蘇《よみがえ》った。 「さあ、憶《おぼ》えていませんけど」  美佐子はつれなく答え、無視するようにカメラを覗《のぞ》いた。 「あなたも取材ですか?」  男は訊《き》いたが、美佐子は黙っていた。 「あそこの穴は、最近掘られたものでしょうか?」  男は祠《ほこら》の背後にある、例のしめ縄を巡らせた窪《くぼ》みを指さして言った。 「あれは井戸の跡だそうですよ」 「ほう、すると、斎王はあの井戸の水で禊《みそぎ》をしたのですかねえ」  男は言いながら井戸に近寄った。しめ縄に触れそうになるのを見て、美佐子は思わず、「あっ、触らないで」と言った。どうしてそんなことを口走ったのか、自分でも不思議だが、男のほうはもっと驚いた。 「えっ、いけませんか」  手を引っ込め、目を丸くして美佐子を振り返った。 「たぶん……」  美佐子は自信なく、聞こえないほどの弱々しい声で頷《うなず》いた。 「なるほど。あなたは地元の方だったのですね。これは意外だなあ……」 「意外って、どうしてですか?」 「いや、斎宮歴史博物館で、ずいぶん熱心に資料をスケッチしていたでしょう。だから、てっきり遠くから来た研究者か、マスコミ関係の取材だと思ったのです」 「地元の人間だからいうて、斎王の研究をしたらいけないことはないでしょう」 「はあ、それはそのとおりですが……どうもよく分かりませんね」 「分からないって、何がですか?」 「あなたの素性が、です。ただのサラリーマンでないことはもちろん、学生でも教師でもないし、さりとて、ふつうの主婦でもなさそうだし、ひまを持て余しているお嬢さんでもないでしょう」 「ええ、それは当たっています」  美佐子ははじめて頬《ほお》を緩めて、「でも、絶対に分かりっこありませんよ」と、得意そうに言った。 「うーん、たしかに難しい……いや、しかし分からないはずはないな。地元の方であることは事実なのだし……あ、そうか、役場の観光課の……違うな、観光課の人なら、斎宮博物館のあの映像展示物を最後まで観ないはずはない。そんなものよりも、専門的すぎるような資料に興味をいだいて、熱心にスケッチしていたのだから、どう考えても研究者の姿勢ですねえ。役場は役場でも社会教育課の人かな? どうですか、違いますか?」 「まあ、それと似たようなものですけど」と、美佐子は少し鼻白んで言った。 「あの、失礼ですけど、あなたはどちらさんですか?」 「僕はこういう者です。フリーのルポライターをやっています」  男は名刺を出した。「浅見光彦」という名前と住所だけで、肩書のない名刺だ。 「じつは、斎宮の取材でこっちへ来たのですが、たまたま知り合いが殺された事件に遭遇しましてね」 「えっ? じゃあ、あなたは長屋さんのお知り合いですか?」 「そうです……ああ、もちろん地元の方なら長屋さんを知ってますね。それじゃ、長屋さんが御古址《おこし》で盗掘をやっていたこともご存じでしたか?」 「ええ……え? いえ、知りません、そんなこと」  美佐子は慌てて言い直し、さらに補足するように「私は地元いうても、隣の水口町の人間ですので」と言った。 「もし、お差し支えなければ、名刺をいただけませんか」  浅見はニコニコ白い歯を見せて言った。その邪気を感じさせない笑顔につられるように、美佐子は名刺を出した。 「あ、文化財調査委員会ですか。それじゃ分からないはずだ……ふーん、出来たての名刺ですね」  浅見は名刺に目を近づけ、インクの匂《にお》いを嗅《か》ぐように鼻も近づけて言った。 「ということは、あなたも出来たて……いや、まだ勤めたばかりの新人でしたか。それで勉強に走り回っているのですね?」  すべてが解明できたせいか、浅見の口調は今日の空のように晴れやかだ。逆に美佐子のほうは、なんだか裸にされたような気圧《けお》されたものを感じた。 「伊勢からここまで、ずっと、斎王の群行が通ったコースを遡《さかのぼ》ってきましたが、頓宮《とんぐう》跡はここ以外、まったく手掛かりすらないのですね。それだけに、垂水頓宮跡の重要性が実感できます」  浅見は真顔に戻ると、しんみりした口調で言った。 「この森に仮の宮があって、斎王の一行が泊まった時の様子が目に浮かぶようです。斎王は神聖でなければならない。いくら幼くても、孤独に耐え、気高く美しく装わなければならない。『ローマの休日』のラストで、オードリー・ヘップバーンの王女が記者会見をするシーンがあるでしょう。猥雑《わいざつ》だが魅力に満ちた庶民の暮らしや初恋に訣別《けつべつ》して、王宮の奥へ去ってゆく——あの情景を連想しますねえ。都から伊勢へ下る五泊六日の宿ごとに、俗世との訣別を確かめながらの旅——こんな寂しい山の中の頓宮で、斎王の姫君はどんな想《おも》いで夜を過ごし、朝を迎えたのだろう……かわいそうに」  美佐子は驚いてしまった。これまで、斎王のことを「かわいそう」と言ってのけた人間に会ったことがない。京都|葵祭《あおいまつり》の華やぎを観て、斎王代に憧《あこが》れを抱きこそすれ、哀れみを感じることなど想像もつかない。まして男性の口から、そんな言葉を聞くとは思わなかった。 (優しいひとなんだ——)  ちょっと見直す気持ちになった。 「御古址《おこし》を掘ると、祟《たた》りがありますか」  浅見は、井戸を囲むしめ縄を眺めながら、それこそ感傷と訣別するように、言った。 「町の人はそう言いますよ。ほんとかどうかは知りませんけど」 「長屋さんが死んだのは、祟りのせいだという話を聞きました」 「それは知りませんけど、昔からそういう言い伝えがあるそうです」 「どんな祟りがあるのですか?」 「たとえば、森の木を伐《き》った男が、狂い死にしたとか、森に犬の死骸《しがい》を捨てた人のトラックが、鈴鹿《すずか》峠で事故を起こして死んだとか、賽銭《さいせん》泥棒をしようとして、鳥居の下敷きになって死んだとか……」 「ほうっ、この鳥居ですか?」 「いえ、この鳥居はその後に建てられたもので、事故があったのは三十何年も昔です」 「三十何年昔というと、僕が生まれたころかなあ」  浅見は言ったが、美佐子の目には、どう見ても三十歳そこそこにしか見えない。 「もっと昔だと思いますけど……たしか、いまの天皇さんのご成婚があった日だとか聞きました」 「じゃあ、僕の生まれる一年前です」 「そうなんですかァ、皇太子殿下と同い年なんですかァ……」 「ははは、そんな較べるような目で見ないでください。それでなくても、皇太子のご婚約が整ってからというもの、家の中の風当たりが強くなっているのです」  浅見がひどく情けない顔をするので、美佐子は思わず笑ってしまった。浅見も一緒になって笑う。 (よさそうなひと——)と、美佐子は風来坊のようなこの男に好感をいだいた。浅見の口ぶりから、彼が独身であるらしいと知ったことも、好感の一因になっているのかもしれない。それに、美佐子より十一も年長とは思えないくらい若々しいし——などと、いろいろな感情が頭の中で渦巻いた。 「そういえば」と、浅見は思い出したように言った。 「長屋さんの生まれたのがたしか、ご成婚の年だったはずですね」 「あ……」  長屋の名前が出て、美佐子はいっぺんに現実に引き戻された。 「そうすると、この御古址《おこし》で事故があって、人が死んだころ、すぐ近くの長屋家では男の子が誕生したわけですか……世の中って、不思議なものですねえ」 「でも、死ぬ人もあれば生まれる人もあるというのは、ごく当たり前の世の中の営みとちがいます?」 「あははは、そう言ってしまえば、身も蓋《ふた》もありませんけどね……しかし、何となく運命的なものを感じませんか?」  浅見の鳶色《とびいろ》の目で見つめられて、美佐子はドギマギしながら、「それはまあ、そうとも言えますけど……」と答えた。 「それに、その長屋さんが、御古址の祟《たた》りのような死に方をしたっていうのだから、ますます運命的だし、神秘的ですらある……」  喋《しやべ》りながら、浅見の目はしだいに空間のあらぬ一点に向けられていった。美佐子が視線の行方を辿《たど》ると、檜の梢《こずえ》の空がキラキラ光る辺りである。浅見はそこから何かの答えを引き出そうとでもしているかのように、その一点を凝視して、動かなくなった。 (何を考えているのかしら?——)  せっかく好感をいだきはじめたこの男に、美佐子は不気味なものの気配を感じた。     3  長屋家の玄関先は初七日の法事を終えた人々で賑《にぎ》わっていた。黒い喪服ばかりの集まりだが、あまり屈託した顔には出会わない。中にはすでに振る舞い酒に酔って、場違いな大声を張り上げている者もいた。他人の家の不幸は所詮《しよせん》他人事なのである。  浅見は仏間に案内され、真新しい位牌に向かって長いこと手を合わせた。長屋の写真も飾られているのだが、浅見は長屋と面識はない。白井の話によると、かつて舞台に出ていた当時の長屋を観ているはずなのだそうだが、どんな役柄だったのかさえ、まったく記憶になかった。  さすがに仏間はひっそりとして、香華の煙が漂っている。仏前には長屋の母親がつくねんと座り、浅見と一緒に息子の写真を見上げた。どういう時に写したのだろう。素人写真らしいが、少し首をねじ向けるようにして、白い歯を見せて笑った、いい顔である。気の毒な母親にとっては、かえってつらい笑顔かもしれない。  浅見はすぐには仏間を出ずに、母親と向かいあって、お悔やみの流れのように、さり気なく「長屋さんは僕より一つ年上ですから、たしか、天皇陛下のご成婚の年に生まれたのでしたね?」と訊《き》いた。 「はい、そうですけど」  母親は頷《うなず》いた。 「ことしは皇太子殿下のご成婚がありますが、その年に亡くなるなんて、なんだか不思議なめぐり合わせのようなものを感じます」 「はあ、そうですなあ……」  母親は、浅見が何を言い出すのか——不安そうな目を向けた。 「そうそう、さっき町で聞いたのですが、ご成婚の日に、あそこの御古址で鳥居の下敷きになって亡くなった方がいたそうですが」 「はあ……」  母親は、はっきりと警戒の色を見せて、眉《まゆ》をひそめた。浅見は自分の言葉の効果に戸惑いながら、つづけた。 「ご成婚は、昭和三十四年の四月十日でしたね。長屋さんが生まれたのはその前ですか、後ですか?」 「…………」  驚くべきことであった。長屋の母親は返事もできず、背中を丸め小さくなって、まるで逃げ道を探すように、怯《おび》えた目を畳に這《は》わせた。 (何が彼女をこんなに狼狽《ろうばい》させるのだろう?——)  浅見が疑ったとき、ふいに、背後から「あんた誰やね?」と、野太い声がかかった。振り返ると、その年代にしてはかなり大柄な初老の男が、次の間とのあいだの敷居の上に仁王立ちして、こっちを見下ろしていた。 「長屋さんの友人の浅見という者です。失礼ですが、あなたは?」 「わしは明正の叔父の長屋敬三です」  言いながら、ズカズカ仏間に入り、浅見と長屋の母親のあいだに割り込むように、どっかりと胡坐《あぐら》をかいた。 「叔父さんとおっしゃると、甲東木材の社長さんですか?」 「ああ、ようご存じやな。それで、明正とはどういう友人です?」 「学生時代に、いろいろお世話になりました。今回、仕事でたまたまこちらのほうに参って、長屋さんの事件を知ったのです」 「ふーん、そうですか。義姉《あね》から聞いたが、昨日訪ねてみえたいうのは、あんたのことでしたか。しかし、学生時代の友人いうと、まさかあんた、演劇の仲間と違うやろね」  言葉の様子から、白井の東京シャンハイボーイズに敵意を抱いている印象がある。 「いえ、僕は演劇とは関係ありません。いまは雑誌のルポライターのようなことをやっています」 「なるほど。それで余計なことを根掘り葉掘り訊《き》きよったわけですかな」 「余計なこととは、どういう意味ですか」  浅見は反発するような口調で言った。 「そうやないんかね。いまそこで聞いとったら、明正が生まれたんは、ご成婚の前か後かとか、そんなもん調べて、あんた、何を書こういうんやね?」 「べつに……」と否定しかけて、浅見は考えを変えた。 「べつにご成婚のことを書こうというのではありません。三十四年前のご成婚の日に起きた、御古址《おこし》での悲劇は、何でも賽銭《さいせん》泥棒をしたための祟《たた》りだと聞きましたし、今度の長屋さんの事件についても、それに似た風聞を耳にしました。なんだか、昔の事件と因果関係があるような気がして、そういった、いわば超常現象的な話題を記事にしたいと思っています。それに、率直に言って、長屋さんは盗掘をしていて、御古址の祟りに触れたという噂《うわさ》を聞いたのですが、はたしてほんとうに祟りがあるのかどうか……」 「あほらしい」  長屋敬三は鼻先で笑った。 「そんな祟りみたいなもん、あるわけがないでしょうが。あんたがどこで何を聞いてきたか知らんが、昔の|あれ《ヽヽ》は、朽ちとった鳥居が崩れ落ちた事故やし、今度の明正のは殺人事件以外の何物でもない。そういう、いたずらに人心を惑わすような真似《まね》は、せんといてくれんか」 「しかし、明正さんが殺されなければならないようなことは、誰も思い当たらないそうではありませんか」 「それは事実やが、そんなもん、大した動機もなしに人を殺すのは珍しくもない昨今や。通り魔みたいに、もののはずみのように殺されたんかもしれんでしょうが」 「いえいえ、これはとても、通り魔だとか、もののはずみで起きた事件とは思えません。現に……昨夜、かもしか荘で起きた事件はご存じですね?」 「ああ、知っとりますよ。狭い町やさかい、新聞より情報は早いのです」 「それでは、被害者の女性の死体の下に、明正さんの車にあったのと同じ、人形代が置いてあったこともご存じですか?」 「ん? それは知らんかったが……」  それまで強気一点張りに、押さえ込むような態度を見せていた長屋敬三が、はじめて、たじろいだ表情を浮かべた。  敬三ばかりでなく、「人形代」という言葉を聞いたとたん、長屋の母親はいっそう怯《おび》えて、おずおずと訊《き》いた。 「あの、それもやっぱし、明正がしまっとったのと、同じものですか?」 「ええ、僕の見た感じでは、ほとんど同じような系統のものだと思いました」  長屋の母親の、救いを求めるような目を受けて、敬三は言った。 「けど、そういった物は、ほかにもなんぼでもあるんとちがいますか。たまたま似ておったからいうて、関係があると決めつける根拠にはならんでしょうが」 「おっしゃるとおりです」  浅見は逆らわずに頷《うなず》いた。「ただ、人形代が両方の事件に現れたのを、単なる偶然と片づけてしまうわけにはいかないでしょう。少なくとも警察は、お宅にある沢山の人形代に、なみなみならぬ関心をいだくであろうことだけは、間違いないと思います」 「あのォ、そしたら、浅見さんは警察にそのこと、言うてしまわれたのですか?」  母親は不信の色を隠さずに言った。 「いいえ、言ってませんよ。そういうお約束でしたから」 「それやったらよろしいのやけど」 「しかし、事件の真相を解明するためには、いずれそのことを警察に知らせたほうがいいと思いますが」 「いや、知らせる必要はない」  敬三がごつい口調で言った。「人形代か何か知らんが、そんなもんは明正が殺された理由とは、何の関係もないこっちゃ。警察なんかには黙っとったらよろしい。それでなくても、何やかやとうるそう言うてきて、こっちはたまったもんやない」 「叔父さんのほうにも、捜査員が行きましたか?」 「ああ、来たなんていうもんとちがいまっせ。まるで犯人扱いや。誰が言うたんか知らんけど、まるでわしが甲東木材の乗っ取りを画策してでもおるかのように、あることないこと訊《き》きおった。アリバイ調べみたいなことまでやりおって、わしの息子たちにも事情聴取をしよったそうだ」  敬三は憤慨しているが、警察はやるべきことをやっていると思わなければならない。長屋明正の事件に関していえば、彼の死によってもっとも利益を受けるのは、敬三とその後継者であることはたしかだ。これまで営々として守ってきた甲東木材を、ぐうたらな明正専務の手に委譲するのは、決して愉快ではあるまい。逆な見方をすれば、放漫経営や会社の金の使途に不正のあることを隠すために、明正の社長就任を阻止する必要があったとも考えられる。  ともあれ、そういった基礎的な調査については、警察の捜査に遺漏はないと信じていいらしい。その結果、すんなり事件が解決してしまえば、それはそれでいいとしたもの。素人探偵がしゃしゃり出る幕はない。  しかし、浅見の感触としては、この事件がそういった正攻法的な捜査で解決するような、単純な性格のものとは思えなかった。社会通念上の利害を超えた、何か得体の知れぬ動機というか、殺意というか、とにかく、おどろおどろしい意志がはたらいていることを強く感じるのだ。 「困りましたねえ……」と浅見は大げさに苦笑して言った。 「人形代のことは、事件捜査上、かなり重要な要素になると思います。それを黙っていていいかどうか……犯罪に加担した、などとは思いませんが、少なくとも、僕自身の良心が咎《とが》めることだけは確かです」 「けど、あんた、明正が人形代いうものをぎょうさんしまっておったからいうて、事件に使われた人形代は明正のものではないのやろ。それやったら、黙っとったって差し支えないやないですか」 「どうも理解できませんねえ。そんなに人形代の存在を隠しておかなければならない理由とは、いったい何なのでしょうか? 昨日もお母さんにお話ししたように、仮に明正さんの人形代が盗掘したものであったとしても、あくまでも考古学研究が目的なのですから、それほど重大な犯罪行為というわけではありません。少なくとも殺人とは比較にならないでしょう。それに、何といっても、明正さんは被害者なのですよ」 「はあ、おっしゃることはよう分かっとりますけど……」  消え入るような母親の言葉におっかぶせて、「要するに」と敬三が言った。 「いや、これ以上、警察やらあんたやらに触ってもらいとうないんや。そっとして、ほっといてもらいたいんや。な、そうやろ?」  敬三に訊《き》かれて、母親は無言でコクリと頷《うなず》いた。浅見はそのやり取りを興味深く眺めた。初老といっていいような義理の姉と弟が、たがいに庇《かば》いあうように隠そうとすればするほど、浅見は隠された背後にある秘密めいたものに興味を惹《ひ》かれる。 「話は違いますが」  浅見はその場の緊張感をほぐす、のんびりした口調で言った。 「明正さんがこれまで結婚しなかったのは、何か理由があるのでしょうか?」 「ん?……」  敬三は意表を衝《つ》かれたように、わずかに身を引いた。母親のほうは、悲しげな眉間《みけん》の皺《しわ》をいっそう深くして、「理由なんて、べつにないと思いますけど」と言った。 「そうなのですか。僕には以前、東京で失恋して、それが心の痛手になっているというようなことをおっしゃってましたが」  浅見は少しばかり罪の意識を感じながら、嘘《うそ》をついた。 「そんなことを言うてましたか……そしたら、そうなのかもしれません。たしかに、東京におるころいちど、好きな女のひとがおるいうような話を、電話でしとったことがありました。けど、それから間もなく、土山に引き上げてきよったもんで、ああ、これはあかんかったんやな——と思って、こっちもあまり、根掘り葉掘り聞くことはせんかったのですけど」 「その相手の女性が誰かも、聞かなかったのですか?」 「はあ、聞いておりません。どなたさんでしたのやろ?」 「じつはですね……」 「もうええがな!」  敬三が低いかすれ声で怒鳴った。「そんな六年も前に過ぎてしもうたこと、引っ繰り返してどないしよう言うんやね」 「けど敬三さん、聞いたかて……」 「やめんかい言うとるやろ」  二人の対立にスルッと分け入るように、浅見は言った。 「小宮山さんとおっしゃるお嬢さんですよ。小宮山佳鈴さんといいます」  期待したような反応は、母親には見られなかった。「はあ、小宮山さんいいますの。やっぱし、聞いたことありませんわね」と首を傾げただけだ。それとは対照的に、敬三のほうは苦々しげにそっぽを向いた。 「その小宮山さんが、いま、映画のロケで土山に来ているのです」 「えっ、ほんまですか?」  母親は悲鳴のような声を出した。 「そしたら、あの日、明正はそのひとに会いに行ったのやわ……そうですがな、浅見さん、もしかしたら、明正が殺されたんは、そのことが原因とちがいますか? いえ、そうですよ、間違いありません。警察はどない言うてますの?」 「もちろん、警察も明正さんが小宮山さんと親しげに話していたことも知っていますから、無関心であるはずはないと思います。それに、昨夜殺された被害者というのは、じつは小宮山さんと同室の女性で、ひょっとすると小宮山さんと間違えられて殺された可能性もあるのです」 「えーっ、そしたら、犯人は明正ばかりでなく、小宮山さんいうひとも……」 「ええかげんにせんかい」  敬三が我慢の限界に達したといわんばかりに、手を上げて富子の言葉を遮った。 「浅見さん、あんた帰ってくれんか。事件のことは警察に任して、余計な手出しはせんといてくれ」  立ち上がって、ニワトリでも追うような手つきで、浅見を追い立てた。浅見は仕方なく部屋を出たが、むしろ母親の富子が納得しないで、「敬三さん、なんでですの? せっかく話を聞かせてもろてるのに」と追いかけてきた。 「まあ待たんかい」  敬三は浅見を追う手を富子に向けて、仏間の奥に連れ戻すと、富子の耳元で何事かを囁《ささや》いた。浅見のいる位置からでは、むろん声は聞こえないが、富子の驚きの表情ははっきり見えた。敬三が踵《きびす》を返してこっちに歩きだしてからも、富子は凝固してしまったように、仏壇の前から動かない。     4  廊下を歩きながら、長屋敬三が富子に何を囁いたのか、富子の驚きの原因を、浅見はあれこれと想像した。  あの日、息子の明正がロケ隊のところへ行ったのは、かつての恋人である小宮山佳鈴に会うのが目的だった——と富子は思い込んでいる。息子はそれっきり、生きては帰らなかったのだ。その消息をもたらした浅見から、もっと詳しい事情を聞きたいと思うのは、ごく自然の人情である。  だが、敬三に何事かを囁かれた瞬間、富子は驚くとともに、そのひたすらであるはずの想《おも》いを断念した。何か、よほど思いがけない事実を告げられたにちがいない。  仏間の奥に押し戻された時、救いを求めるようにこっちを見つめていた富子の目の中から、突如、プツンと光が消えたのを、浅見はたしかに見た。  いったい敬三は何を言ったのだろう?  長屋家の門を出て、道路|脇《わき》に停めてあるソアラに潜り込むと、浅見は「さて……」と声に出して言った。言ってはみたものの、後がつづかない。この先どうすればいいのかが閃《ひらめ》かない。事件の全体像が、まだ「像」といえるほど、はっきりした形を成していないのである。  長屋明正が殺され、それから六日後には塚越綾子が殺された。  この二つの事件を結ぶ糸があるのかないのか。因果関係らしきものの影はチラチラするのだが、確かな根拠と言えるようなものは何もないにひとしい。  浅見はソアラの鼻面を町役場へ向けて走った。役場のある北土山は、なだらかな斜面の中腹——南土山の集落から見ると、ほんの少しだが見上げるような位置にある。付近には商工会や農協の建物など、公共施設が集まっている。  役場の受付で聞くと、久米美佐子の勤務する文化財調査委員会は、役場の中ではなく、「あいの土山文化ホール」というところにあるのだそうだ。役場の西側の坂道を五百メートルばかり行った、役場よりもさらに小高い「あいの丘」と名付けた岡の上の、見晴らしのいいところだ。垂水頓宮《たるみとんぐう》の森も眼下に見下ろされる。  文化ホールは、人口わずか一万のこの町にはいささか過ぎていると思えるような豪勢な建物であった。昔の宿場や土蔵を連想させる、外観は白壁に黒い瓦屋根《かわらやね》を載せた純日本風だが、内部の設備は近代的で大小ホールや会議室などを備えたものだ。  その一角に文化財調査委員会の部屋があった。玄関で出会った女性の職員に、廊下の突き当たり左側——と聞いて、行くと、ドアが開いていて、中が覗《のぞ》けた。  十坪ほどの小部屋の、五脚あるデスクのうち四脚は空席で、ただ一人、久米美佐子だけが何やら書類の書き込みをしている。  久米美佐子は浅見の顔を見ると、目を丸くして「あらっ」と言った。 「先ほどはどうも」  浅見はドアのところから畏《かしこ》まった挨拶《あいさつ》を送った。 「あの、何か?……」  美佐子は腰を上げ、少し不安そうにお辞儀を返した。 「ちょっとお邪魔してもいいですか?」  訊《き》きながら、浅見は返事を待たずに部屋の中に入った。ドアを開けてあるのは、こんなふうに、女性一人でいるケースが多いためなのかもしれない——と、その時ふと浅見は思った。  久米美佐子は向かいあう側のデスクを指さして、「どうぞ、その椅子《いす》空いてますから」と勧めてくれた。 「お留守番ですか?」  浅見は物珍しそうに部屋の中を見回して言った。 「ええ、といっても、常勤はいまのところたった二人だけなのです。予算がないのと、それに、人手不足なのだそうです」  久米美佐子は部屋の隅でお茶を入れてきて、浅見と自分のデスクの上に置いた。 「ああ、美味《うま》い。さすが土山はお茶どころですねえ」  浅見の外交辞令に、久米美佐子は笑って、「これ、スーパーで買ってきた、安物のお茶です」と言った。浅見も一緒になって「ははは……」と笑った。  笑いが収まるのを待って、久米美佐子は浅見の用件を尋ねた。 「じつは、土山町の埋蔵文化財についてお聞きしたいのです。どのようなものが発掘されているのですか?」 「さあ……よく分かりません。何しろ、私は出来たてですから」  久米美佐子は真面目《まじめ》くさって言う。 「たとえば、人形代などはどうですか? ご存じですよね、人形代は?」 「えっ? ええ、もちろん知っていますよ。人形代ぐらいは」  久米美佐子はむきになって唇を尖《とが》らせたが、その様子はむしろ、あまり詳しく知らないらしいな——と思わせるものがあった。 「でも、人形代が発掘されたかどうかは知りません。望田先生ならご存じだと思いますけど」 「望田先生というのはどういう?」 「ここの責任者です。土山のご出身で、以前、ここの中学の先生をなさって、最後には水口の私の高校の校長先生をされて、その時、私は望田先生から源氏とか、古典をいろいろ教えていただきました」 「それじゃ、長屋さんのこともご存じですね?」 「ええ、知っておられますよ。家も近いし、教え子だったそうです」  その言葉が終わらないうちに、廊下に足音が聞こえて、初老の紳士が入ってきた。  久米美佐子は浅見を紹介して、土山町の埋蔵文化財について話を聞きたい旨を言ってくれた。 「とくに人形代のことを知りたいのです」  浅見が補足して言うのを、望田は名刺の文字を眺めながら聞いていた。 「残念ながら、土山町で人形代が発掘されたという事実は、私の知るかぎりではありませんな」  あっさりと、しかしどことなく、政府が公式見解を発表するような、用心深さを感じさせる口調で答えた。 「ということは」と浅見は食い下がるように訊《き》いた。 「望田さんがご存じないところで、発掘されていた可能性はあるのですね?」 「ん? ああ、いや、それはまあ、絶対にないとは断言できませんけどね。しかし、あなたは何か、そういった情報を得て、そうおっしゃっとるのかな?」 「ええ、じつは、ある人物が大量と言っていいほどの人形代を持っているのを目撃したのです」 「ほう、それはどちらさんです?」 「長屋さんです。長屋明正さんのお宅で拝見しました」 「長屋……」  望田はおうむ返しに言って、まるでE・Tでも見たような顔になった。隣の久米美佐子もギクッとして、これから何が起こるのか、固唾《かたず》を飲んで見守っている。  望田は自ら立って行って、開いているドアを閉め、席に戻ってから訊いた。 「あなたは長屋君の友人ですか?」 「ええ、といっても、それほど親しい間柄ではありませんが」 「長屋君の家で人形代を見たというのは、確かなのですか?」 「確かです。この目で見ました」 「いつのことです?」 「昨日です」 「昨日……じゃあ、彼の生前ではなかったのですな」  ほっとしたように、望田は遠近両用のメガネをはずして、丁寧に拭《ぬぐ》ってから、おもむろに言った。 「長屋君の家に、そんなぎょうさんの人形代があるとは、私も初耳ですが、おそらく長屋君はどこぞで仕入れてきたものでしょう。少なくとも、この土山町で出土したものとは違いますな」 「しかし、町の噂《うわさ》では、長屋さんは垂水頓宮跡で盗掘をしていたそうですが」 「そんなものはあなた、あくまでも噂に過ぎんでしょう」 「妙ですねえ……」  浅見はつとめて冷たい、くぐもった声で言った。望田がメガネをかけようとした手を停めるほど、われながら陰にこもった言い方であった。 「妙——とは、何がです?」  望田は斜めに浅見を睨《にら》む目をした。 「はあ、望田さんがそんなふうに、人形代の出土を否定されることが、です。長屋さんが人形代をどこで発掘したか、いまのところ何も証拠がないわけでしょう。それなのに、望田さんは頭から御古址《おこし》ではないと決めつけていらっしゃる。ひょっとすると、発掘場所が御古址であっては具合が悪い理由でもあるのでしょうか?」 「ん? そんなもん……」  あるわけがない——と言葉にならないうちに、浅見は追い打ちをかけた。 「文化財調査委員会というお仕事の性格からいえば、人形代の出土がきわめて重要な意味を持つものであると認識するのが当然だと思います。たとえそれが噂にすぎないと分かっていても、発掘場所について確認するか、少なくとも無関心でいられるはずがないのが当然です。それなのに、望田さんはむしろ、発掘の事実そのものから遠ざかろうとしているように、僕には感じ取れるのですが、違いますか?」 「いや、そんなことはないです」 「でしたら、もっと積極的に調査して、出土場所を特定されるべきだと思いますが。何の根拠もなしに、一方的に御古址ではないと断定されるのは、とても奇妙なことです」 「もちろん、それはあれです……これから調査をしなければならんことです」  そう暑くもないのに、望田はハンカチを出して額の汗を拭《ぬぐ》い、わざとらしく名刺を確認し直して、立ち上がった。 「えーと、浅見さんでしたな。いや、貴重なお話を聞かせていただいた。ちょっと所用があるので失礼しますが、今後ともひとつ、よろしゅうお願いします」  まるで逃げるような慌ただしさであった。後に残された久米美佐子が、あっけに取られた目を、閉められたドアと浅見に交互に注いでいる。 「驚いたでしょう」  浅見はニコニコ笑いながら言った。 「え? ええ、まあ……あの、長屋さんのお宅に人形代があったというのは、本当のことなのでしょうか?」 「本当です。それもかなりの量です。何十個という数でした」 「じゃあ、事実だったのやわ……以前、長屋さんから聞いたことがあるのです。ぜひ見せたいものがあるって。その時は何のことか分からなかったのですけど、長屋さんの車から人形代が見つかったいう話を聞いて、そのことかとは思っていました。けど、そんなに大量の人形代があったのですか……」 「ほう、長屋さんがあなたに話していたのですか。すると、望田さんもそのことはご存じだったのじゃないかなァ?……あなたはどう思いますか?」 「そうですねえ、ご存じやったと思いますけど……長屋さんのことは何でも知ってはるみたいな方ですから」 「何でも、ですか」 「ええ、中学の教え子でしたし、それに、近頃あまり素行がよくないから気をつけるようにおっしゃってました」 「ふーん、というと、長屋さんはあなたが好きだったのですか」  浅見の癖の、少し飛躍した言い方だったが、的を衝《つ》いたらしい。 「さあ、好きいうのかどうか……」  久米美佐子は赤くなった。「よう分かりませんけど、付き合うてくれ言うて、それもかなりしつこくて、毎日のように私の家まで車でつけてきたりしたもんで、父がひどく怒って……それで、警察は事件の後、うちの父を調べたり、すっごく迷惑しました」 「それで望田さんは、気をつけろと?」 「ええ、でも、長屋さんは遊びのつもりで付き合うてくれ言うたのではないように思いますけど。いえ、自惚《うぬぼ》れではなくて、ほんまに真剣やったと、いまでは思ってます」 「それはたぶん、あなたの考えが正しいと思いますよ」  浅見は真顔で言った。 「僕は長屋さんと同年配ですが、何も好き好んで独身でいるわけではないのです。それでなくても、あなたのように魅力的な女性が身近にいれば、結婚を前提に口説《くど》きたくなって当然です」 「いややわァ、魅力的やなんて、そんなに真面目《まじめ》くさって言わはったら……」  どちらかというと、化粧っ気もなく、乾いた感じの久米美佐子だが、紅色に染まった頬《ほお》を、両方の手で包むようにした風情には、まぎれもなく若い色気があった。 「でも、長屋さんはその後、映画の撮影に出掛けて、昔付き合うてはった女優さんと会うてはるのでしょう。ですから、ほんまにほんま、真剣やったのかと言われたら、自信はないのです。男のひというのは、光源氏のころからずっと、移り気ですものね。信じられません」 「そう言われると面目ない」  浅見は苦笑して頭を下げた。「信じられません」と、やや気負ったように言った久米美佐子の口調から、彼女の過去にも何かがあったことを想像させる。 「長屋さんとその女優さんとのことは、完全に過去の話ですよ」  浅見は言った。 「えっ、浅見さん、ご存じなのですか?」 「ええ、知ってます。たしかに昔、長屋さんが結婚を申し込んだ事実はありますよ。しかし実らなかった。それが原因で彼は土山に戻ったのです」 「それやったら、長屋さんにはまだ、その女性に未練が……」 「いや、それはないと思いますね」 「そうかて、現にロケ現場に会いに行ってはるのですから」 「それは彼女に会うためというより、ロケそのものを観に行ったのでしょう。長屋さんはかつて、その劇団に所属していたし、ロケ場所を教えたのも彼なのです。いや、そうは言っても、もしあなたという存在を知らなければ、僕だって長屋さんが昔の恋人に会いに行ったものと錯覚しますよ。その上、彼女の恋人やフィアンセだったりしたら、なおのこと黙っていられないでしょうね。六年も昔の未練を捨てきれずに、しつこく付きまとって……」  浅見は話しながら、ふいに愕然《がくぜん》と気がついた。 (そうか、錯覚か——)  憎悪や殺意の原因が錯覚である可能性だってあり得る——と思った。  第六章 びわこ空港建設計画     1  土山町から水口町へ行く道路沿いに「空港建設反対」の看板がいくつも目についた。こんなところに空港ができるのか——と、意外な感じがする。  水口警察署は鉄筋コンクリート三階建ての立派な建物であった。玄関|脇《わき》には「青土《おおづち》ダム殺人事件捜査本部」と「かもしか荘殺人事件捜査本部」の貼《は》り紙が出ている。いまは二連の貼り紙だが、いずれ一つに統合されることになるのかもしれない。  建物の前にあるかなり広い駐車場が、他署や県警から応援に駆けつけた車両や報道の車で埋め尽くされていた。浅見は仕方なく、ソアラをパチンコ屋の駐車場に置いて、警察署まで少し歩いた。  夕方近かったせいか、捜査員たちは次々に引き上げてきていて、受付で聞くと、江間部長刑事も在席していた。もっとも、玄関先に現れるなり浅見を見て、「なんや、あんたですか」と言った顔からは、どう見ても歓迎された印象はない。それでも江間は、二階の刑事課の隣にある、まるで取調室のような殺風景な応接室に通してくれた。 「何の用です? いや、捜査に進展があるかいうことやったら、べつに言うほどのことは何もありませんよ」  江間は先回りして皮肉っぽく言った。 「いえ、お聞きしたいことは、被害者の死因についてだけです。塚越綾子さんの解剖も、すでに終わっているのでしょう?」 「ああ、とっくに終わりましたよ。直接の死因は頭蓋骨《ずがいこつ》骨折による脳挫傷《のうざしよう》だが、犯人はそれだけでは心配だったとみえて、ご丁寧に首を絞めてますな」 「たしか、長屋さんも似たような死因でしたね?」 「ああ、最初は頭部に打撲痕《だぼくこん》があったので、それかと思ったのやが、解剖の結果、それは直接の死因にいたるようなものではなかったそうです」 「え? とすると、本当の死因は何だったのですか? 溺死《できし》ですか?」 「いや、水はまったく飲んでおらんです。死因は急性心不全でした」 「急性心不全?……」 「監察のお医者さんは、外因性ショック死と推定しております。おそらく頭部を強打された際に、ショックで心臓|麻痺《まひ》を起こしたいうようなことでしょう」 「それじゃ、二つの事件の犯行の手口は違うのですね?」 「まあ違ういうても、どちらも頭部を強打されておることは共通しておりますのでね。まず同一犯人による犯行と見てもよろしいのだそうです」 「しかし、長屋さんの場合は、何らかの原因で心臓麻痺を起こして、ダムに転落する際、頭部を打撲した可能性もあるのじゃありませんか? つまり、殺人事件ではなく、単なる事故だったという」 「それはまあ、ぜんぜんあり得ないことやないが、そしたらあんた、被害者をダムの現場まで運んで行った人間はどうなるのです? まさか長屋さんが歩いて現場まで行ったとは考えられんでしょう」 「一緒に行った人物は、長屋さんがダムに落ちたので、怖くなって逃げてしまった……警察に連絡しなかったのは、何か、警察に知られては具合の悪いことがあったためとも考えられます」 「ははは、それは、考えるのはなんぼでも考えられるが。いずれにしても、ほっといたら死んでしまうと分かっているものを、放置したまま立ち去るいうのは、殺人にひとしい犯罪行為やからねえ」 「それでも、犯行の手口が違うことは事実ですから、同一犯人説を撤回する根拠にはなると思いますが」 「撤回?……あんた、われわれの捜査方針を指導するいうのでっか? ははは、無茶言いよるなあ。もっとも、われわれとしても、百パーセント同一犯人と断定しとるわけやないです。同一犯人説をもっとも有力視すると同時に、まったく別の事件である可能性のほうにも、ちゃんと配慮しつつ捜査を進めておりますのでね、ご心配なく東京へお帰りください」  一応、丁寧な応対をしているけれど、江間としては、この小うるさいルポライターが、もし例の人形代《ひとかたしろ》の「解説者」でなければ、尻《しり》を蹴飛《けと》ばして追い出したいところだろう。 「あと少しだけお聞きしたいのですが」と、浅見はしぶとく食いついた。 「警察としては、犯人を男女いずれとお考えなのですか?」 「常識的に考えて、まず男でしょうな。とくに塚越綾子さんを、あの何とかいう乗物の中に運び込んだ力は、なんぼ被害者が小柄だからいうても、かなりのものがあったと思わざるを得ませんのでね」 「指紋その他、犯人に結びつくような遺留品などはなかったのでしょうか?」 「いまのところないですな。いや、もちろんあの人形代は別ですけどね。しかし、長屋さんの車にあった人形代には、長屋さんの指紋がついておったが、塚越さんのほうの人形代には指紋もついてませんでしたよ」 「だとすると、よほど用意周到に計画した犯行ということになりますか」 「まあ、そういうことです」  物的証拠や人間関係などに関する、通常行なわれるような捜査は万事遺漏なく進められているにちがいない。日本の警察の捜査力——とくに科学捜査については、かなりの信頼度があると思っていい。少なくとも、浅見のような素人探偵が束になってかかっても、警察の常識的な捜査の十分の一の成果も上げることはできないだろう。 「最後に一つお聞きしたいのですが、塚越綾子さんに関して、小宮山佳鈴さんが、『何となくソワソワしているように見えた』と言っていました。どうなのでしょうか、彼女に何か事件の前兆と思われるような行動はなかったのでしょうか?」 「そうやねえ……」  江間は腕組みして考える素振りをしてみせたが、いずれ分かることだと判断したのか、すぐに言った。 「これは事件と関係があるのかどうか分からんけど、塚越さんが事件前、数度にわたってどこかに電話しとったのを、劇団の連中が何人か目撃しとるのですよ。かもしか荘には、各部屋ごとに電話があるのやが、塚越さんはわざわざロビーの公衆電話を使用しとったそうです。それも、仲間が近づくと会話を中断したり、何やら秘密の電話のようやったということです。そんなことから、外部の誰かとデートの打合せでもしとったのやないかと考えられておるわけですな」  もしその話が事実だとすると、塚越綾子が小宮山佳鈴と誤認されて殺されたかもしれないという浅見の仮説の一つは消去できることになる。それにしても、彼女が殺されなければならない理由とは何だったのだろう? デートの相手とトラブルがあって、偶発的に殺されたものでないことは、彼女の死体を斎王の輿《こし》に入れた、病的とも取れる犯行から明らかである。いや、死体の下の人形代といい、この殺人は緻密《ちみつ》に計画された犯行であることは間違いないのだ。  浅見はさらに、ついでのように、基本的な捜査データを教えてもらった。江間は質問ごとに渋るような顔をしてみせたが、警察の人間としては、かなり親切だったといえる。  塚越綾子がかもしか荘を抜け出した時刻については、あまりはっきりしていない。食事を終えて、彼女が席を立ったのが午後七時前ごろ。その後、みんながビールやコーヒーを飲みながら雑談したのだが、綾子は一度もその席に戻ってこなかった。  小宮山佳鈴が部屋に引き上げたのは午後九時ごろだが、部屋には綾子の姿はなかったそうだから、七時から九時ごろまでのあいだに、こっそり外出したと考えられる。  そして午後十一時過ぎ、浅見や佳鈴が悲鳴を聞いた時刻に、綾子は殺害された。司法解剖の結果も死亡時刻を午後十時から十二時の間——と特定している。  事件の概要は知りえたとはいえ、それはあくまでも結果として現れたものであって、塚越綾子殺害の動機につながるような話は、何一つ聞けなかった。水口警察署を出て、土山町のかもしか荘へと向かう浅見の胸は、あまりの収穫のなさに重く塞《ふさ》がっていた。  かもしか荘に戻った時は日が落ちて、周囲の山々の稜線《りようせん》が、残照の空にくっきりと浮かび上がっていた。  ロビーで出会うロケ隊の連中は、どの顔も憂鬱《ゆううつ》そうだったが、白井の意気消沈ぶりは、慰める言葉を探すのに苦労した。 「いやになっちゃったよ」と、白井は力感のない声でぼやいた。今日一日、ロケ隊の全員が代わる代わる警察の事情聴取に引き出され、何もできない状況だったそうだ。 「おれなんか、まるで容疑者扱いで尋問しやがるんだ。綾子が殺された時、どこにいたとか、それを証明する人間はいるのかとか、しつこいしつこい。具合の悪いことに、相棒の浅見が部屋にいなかったもんで、アリバイを証明しようがない」 「なるほど、そういえばそうだな。たしかに犯行は可能だったわけだ」 「おいおい、冗談にもそんなことを言ってくれるなよ。第一、おれが綾子を殺すわけがないだろう。綾子は有能なマネージャーだったし、集金能力だって並じゃなかった。劇団が苦しい時、綾子のお陰で何度助けられたか分からないよ」 「彼女は結婚はしていないのか?」 「ああ、独身だ」 「恋人は?」 「よく分からんが、少なくともそれらしい男を見たことはないな」 「しかし、三十近い女に、特定の男性がいないわけがないだろう」 「そんなこと言ったら、おれはどうなるんだ? いや、浅見だって同じじゃないか」 「僕のことはいい。それより、彼女ときみの関係は何もないのか?」 「刑事みたいなことを訊《き》くなよ。おれは商品には手をつけないって言っただろう」  白井は強く否定したが、「ただ……」と顔をしかめて付け加えた。 「これは警察には黙っていたのだが、綾子はおれに惚《ほ》れていたかもしれない。いや、はっきりそうと言ったわけじゃないのだが、何となく……彼女は気の強い女だったから、口には出さないが、そんな感じはしていた。おれが言うと自惚《うぬぼ》れに聞こえるかもしれないが、たしかに常識では考えられないほど、献身的に尽くしてくれたと思っている」  語尾のあたりでは、白井の目元に涙が滲《にじ》んでいた。 「さっきの金策のことだが」と、浅見はそれに気づかないふりを装って、訊《き》いた。 「塚越さんにはパトロンのような存在があったとは考えられないか?」 「いや、それはないと思う」 「そうあっさり言うが、白井は案外、男女のことについて無知なところがあるからな」 「ばか、浅見にそんなことを言われる筋合いはないだろう」 「まあ、それもそうだが……」  二人の独身男は、顔を見合わせて苦笑しあった。 「ともかく、集金先は後援会員からの小口の寄付を除けば、すべて企業からの出資や賛助金、それにパンフ等の広告料といったところだ。個人的に大きな金額を出してもらっているケースはないね」 「そういう寄付金のたぐいは、劇団に対してのものなのか、それとも白井個人に対してのものなのか、どっちなんだ?」 「もちろん東京シャンハイボーイズに対するものだ」 「じゃあ、利益が出た場合には、返済するとか配当を出すとかするのか?」 「いや、そんなことはしない。企業関係からの出資はべつだが、寄付金はあくまで寄付金さ。だいたい、芝居だとか相撲に出した金は、戻ってこないのが当たり前としたものだよ。その点、利権がらみの政治献金みたいに汚くはない」 「なるほど、そういうものか」  かつて、その手で引っ掛かっているから、浅見は納得したが、汚くても何でもいいから、返済してもらいたい気持ちがしないでもなかった。 「ただし、今回の映画に関しては、製作費は共同出資という形で集めている。利益配分も行う契約だ。もっとも、あくまでも利益が出た場合——だがね」 「というと、何だか利益が出ないような印象に聞こえるが」 「ああ、その観測は当たっているよ。だいたい、いまどき、映画で儲《もう》けるのは、かなり難しいと思わなければならない。資金を出すほうもそれを承知の上で、いうなれば、映像文化の灯を消さないという、高邁《こうまい》な理念に立った、犠牲的精神の発露だね」 「ふーん、そうかねえ。企業にそんな高邁な理念みたいなものがあるとは、信じがたいものはあるけどな」  浅見は皮肉って、「それで、その最大の犠牲者はどこなんだ?」と訊いた。 「犠牲者はひどいが、うちのメインスポンサーという意味なら、それは喬栄《きようえい》建設っていう会社だ。社長の喬木《たかぎ》氏がうちの劇団の熱心なファンでね、今度の映画にもいろいろ尽力してくれている」 「そんなふうに協賛して、企業には何かのメリットがあるのかい?」 「メリット? だから、さっきも言ったように、映像文化の……」 「分かった分かった、高邁な理念だったね。ところで、それは金額にしてどのくらい高邁なんだい?」 「いやな言い方をしやがるな。何でもカネに換算するのは、俗人の悪い癖だ。まあ、だいたいこんなところかな」  白井は指を二本、立てた。 「二百万か?」 「アホか、おまえは」 「じゃあ、二千万か?」 「その上だよ」 「二億?……」  浅見は口をポカーンと開けて、われながら間抜けな顔をした。そんな金額を事も無げに言ってのける白井が、にわかに大物に見えてきた。 「二億も出して、それで何のメリットも……いや、それはたしかに高邁な理念かもしれないが、企業としてはあまりにも大きな出費じゃないのか?」 「もちろん、二億が丸々消えてしまうわけじゃないさ。あくまでも投資だからね。うまくヒットすれば、倍にも三倍にもなって戻ってくるかもしれない。製作スケジュールが順調なら、予算内で収まることもあるしな。それだけに、今回の事件は、痛い……」  白井はまた天を仰いで、大きくため息をついた。     2  浅見より一時間ばかり遅れて、ちょうど食事時間が終えたころ、塚越綾子の母親が到着した。北海道の帯広から少し北へ行った鹿追町《しかおいちよう》というところから出てきたのだそうだ。朝、電話で第一報を聞いて、すぐに家を出て、この時間になったという。  途中、大津の病院に寄って、娘の遺体を確認している。綾子よりもさらに小柄だが、日焼けした顔は見るからに逞《たくま》しそうだ。とはいっても、ほつれ毛に白いものが目立つ母親の、消沈した様子には、胸が痛む。  母親は玄関に迎えに出た白井に、「どうも、ご迷惑さまなことで」と頭を下げっぱなしだ。白井のほうが面食らって、「いえいえ、こちらこそとんだことになってしまいまして、申し訳ありません」と言うのだが、母親はロケ隊の全員に迷惑をかけたことばかりを、一途《いちず》に詫《わ》びるばかりだ。  おそらく、警察で、「外部の男と示し合わせて、無断外出をした——」と聞いてきたにちがいない。それにしても、大事な娘の不慮の死に、恨み言ひとつ言わない律儀さは、いかにも北の国の女らしい。  北海道の家には、病気の父親が残っているそうだ。  白井に聞いたところによると、綾子は高校を出るとすぐ上京して、短大時代に三、四度ばかり帰省しただけで、十年以上、郷里には戻っていないと言っていたそうだ。なんでも、会計事務所に勤めていたが、七年前、東京シャンハイボーイズが事務職の女性を募集した際に応募してきた。もちろん経理には明るいが、それよりもマネージャーとしての才覚に恵まれていた。とくに、対外的な折衝の能力に優れ、白井が言っていたように、カネ集めの才能は抜群だったのである。 「このあいだ電話で、ずうっと苦労かけたけれど、近いうちに必ずいいことがあっからと言ってましたっけが……」  母親は寂しそうに笑ってみせた。三十歳まで、気儘《きまま》に生きていた娘が、最後に優しいことを言ってくれた、それだけが老いた母親にとっては、せめてもの慰めなのだろう。  浅見は母親を迎えた時から、白井の脇《わき》で、劇団の一員のような顔をしていた。 「いいことがあるって、どんなことだったのでしょうか?」  浅見が訊くと、母親は苦笑した顔を俯《うつむ》けて、「地震で傷んだ家を、新しくしてくれるとか申しておりましたが、大きなことばっかしで……」と言った。  塚越綾子の母親は、今夜は警察が用意してくれた、水口の旅館に泊まるという。これからまた、事情聴取があるのだろう。  彼女が引き上げて行ったのと入れ替わるように、喬栄建設の喬木社長が訪れた。「空港建設計画の交渉で、名古屋のSホテルに居つづけでしてね。ついこの先まで来たものですから」と弁解がましく言っているが、二億円のスポンサーとしては、ことの成り行きが心配でならなかったのではないか——と浅見は疑った。事実、喬木は一応、悔やみは言ったが、挨拶《あいさつ》のつづきのように、「どうなのですか、映画の製作のほうは?」と訊《き》いている。 「正直言って、つらいところです。製作スケジュールは狂うし、スタッフの士気はダウンしますし……」  白井は膝《ひざ》の上に手を置いて、借金取りに言い訳をするような恰好《かつこう》だ。 「しかし、そう悲観することはないじゃありませんか」  喬木は初老といっていい年齢である。苦労人らしい笑顔を見せて、励ました。 「新聞にも事件のことが出ていましたが、かえって映画の前宣伝として、きわめて効果的だったですよ」 「はあ……それはそうかもしれませんが、マイナスイメージばかり強調されるのではないかと、心配でなりません」 「ははは、そんな弱音ばかりを言って、あなたらしくないですなあ。苦しいときこそ、あなたに頑張っていただかないとね。いや、出資者としては、ぜひ映画が成功してくれないと困りますよ」 「もちろん、全力を上げます」  白井はまったく、この男らしくなく、頭の下げっぱなしであった。 「あの、ちょっと質問させていただいてよろしいでしょうか?」  会話が途絶えたところで、浅見が横から口を挟んだ。喬木は首を傾げて、「失礼ですが、どなたでしたか?」と訊いた。 「白井君の友人で、ルポライターをやっている者です」  浅見は名刺を出した。喬木は傾げた首をそのままに、視線を名刺と浅見の顔とに往復させて、「以前、どこかでお目にかかりませんでしたかな?」と言った。 「さあ……すみません、僕のほうは記憶がありません」 「そうでしたかなあ……ずいぶん昔のことのような……そうそう、東京シャンハイボーイズの旗揚げ公演のときか何かの折にお会いしたような気がしますが、違いますか?」 「はあ、たしかに行くことは行きましたが、あれは八年も前のことですね」 「あっ、そうですそうです。思い出した。あなた、東京シャンハイボーイズに資金を援助なさったでしょう?」 「ああ……」  浅見と白井は同時に叫んだ。そういえば、楽屋に詰めかけた後援者の中に、喬木の顔があったような、かすかな記憶がある。もっとも、喬木にそう言われなければ、絶対に思い出すことはなかっただろう。それにしても、喬木の記憶力のよさに浅見は舌を巻いた。白井などは借りた金まで失念してしまうほどだというのに。 「じゃあ、喬木さんはあのころから、すでに東京シャンハイボーイズに援助をなさっていたのですか?」 「いえいえ、ちょうどあなたとお会いした時期からですよ。劇団が金策に苦慮していると聞いたもので、ささやかながら協賛させていただいたのです」  喬木は謙遜《けんそん》しているが、それにしたって、浅見が寄付《ヽヽ》した金額よりも少ないことはなかったにちがいない。 「今回の映画製作について、喬木さんの会社から、ずいぶん巨額の資金を出していただいているそうですが、その交渉に塚越綾子さんがあたっていたというのは、本当のことですか?」 「ええ、本当ですとも。まったくあの人は話し上手で、うまく丸めこまれ……いや、説得されましたよ」 「それにしても、二億とは、額が大きすぎはしませんか?」 「ははは、確かに少ない金額ではないが、だからといってドブに捨てるのとは、わけが違いますよ。当方としては、それなりに計算した上での出資です。それに、彼女や東京シャンハイボーイズには、過去の実績がありますからね。損はしないつもりでいます」  いくら塚越綾子が勧誘上手だからといって、喬木が最初から大きな金額の援助をしてきたわけではない。はじめはごくふつうの寄付や、パンフレットの広告出稿の付き合い程度だった。そのうちに公演に出資というかたちで金を出し、公演で利益が出れば、応分の配当をもらう方式になった。「実績」とは、そういったことを意味している。  喬木が帰って行ったあと、白井の口からその説明を聞いたが、浅見にはどうしても二億円というのは、想像を絶する金額としか思えない。それを言うと、「ええとこのぼんぼんの割に、浅見は貧乏性なんだからなあ」と白井は笑った。 「ふん、経済観念のない白井から、そんなことを言われる筋合いはないよ」  浅見が逆襲すると、白井は「うん、それは言えてる」と逆らわない。 「頼りの綾子が死んで、この先、どうやっていけばいいのか、まったく心もとないよ」 「しかし、喬木氏は今後も援助を約束していたじゃないか」 「そうは言っていたが、あてにはならない。バブルがはじけて、建設関係はいま、かなりきびしい情勢らしいからね。綾子もそんなようなことを言っていた」  喬木が様子を窺《うかが》いにやって来る気持ちも、理解できるということか。  塞《ふさ》ぎ込んだ白井を放って、浅見は大風呂《おおぶろ》に入りに行った。温泉ではないが、浴槽の広々とした気持ちのいい浴場である。  窓の外は真っ暗で、湯の落ちる音が浴室にこだまするほかは、何の物音も聞こえない。明日も撮影はとりやめになったとかで、ロケ隊の連中はマージャンやトランプゲームに熱中していた。  静かに湯に漬かりながら、浅見は塚越綾子のことを考えた。  人生の終焉《しゆうえん》をロケ先の山の宿で、しかもこんなかたちで迎えるなどとは、思いもよらぬことだったろうに——。 「三十歳か……」  浅見は呟《つぶや》いてみた。  塚越綾子には特定の恋人はいなかったらしい——というのが、白井をはじめとする東京シャンハイボーイズのメンバーたちの観測である。浅見は彼女とはかもしか荘の夕食の際に同席しただけだが、美人ではないけれど、小柄で可愛《かわい》い感じの女性だった。恋人がいてもおかしくないどころか、これまで結婚しないでいたのが不思議なくらいだ。  もっとも、浅見にしろ白井にしろ、それに死んだ長屋にしろ、三十をとっくに過ぎた男どもも、いずれも独身を託《かこ》っているのだから、他人のことは言えたものではない。  十八歳で単身、東京に出て以来の独り暮らしである。短大を出て何年間かOL生活をして、それから劇団に勤めた。平凡なOLに飽き足らなくなったのか、それとも、会社で何かがあっての転職なのか、とにかく七年前に東京シャンハイボーイズに移って……。  浅見はふと気がついた。 (そうか、一年後だったのか——)  浅見が白井に詐欺同然に金をふんだくられたのは、彼女が入る一年前のことだ。喬木もほとんど同じ時期からの付き合いだとか言っていたから、喬栄建設が東京シャンハイボーイズのスポンサーになったのは、塚越綾子の働きによるものではなかったことになる。そのことに、浅見は何がなし、ほっとした。二十歳を越えたばかりの女性が、金集めに奔走する姿など、あまり美しくない。  もちろん、その後の大口出資獲得に綾子は手腕を発揮しているのだから、才能はあったのだろうけれど、それは訓練の賜物というべきである。  だとすると、喬木が東京シャンハイボーイズのスポンサーになったきっかけは、いったいどういうことだったのか?——  やはり、自分がそうだったように、白井の騙《かた》りに引っかかったのか?——  部屋に戻ると、浅見は白井にそのことを訊《き》いてみた。 「さあ、どうだったのかなあ?……」  白井はビールのコップを口に当てたまま、天井を向いてしばらく考えてから、諦《あきら》めて首を横に振った。いくら思い出そうとしたって、白井の単細胞では無理なようだ。 「大昔のことだから、すっかり忘れてしまったが、とにかく意外だったことは確かだよ。おれは浅見のほうからの資金だけしか頭になかった。おれには金集めの才能なんて、まるっきりないしなあ」 「そうでもないけどね」 「いや、ほんとにそうなんだ」 「それ以前は、喬木氏との付き合いはなかったのは事実なのかい?」 「ああ、それは事実だと思う」 「東京シャンハイボーイズの熱心なファンだったのかもしれない」 「いや、それはないな。だって、おれの知るかぎり、喬木氏がうちの芝居を観に来たことなんて、浅見と出会ったあの時以外、ただの一度だってないのだからな。もっとも、団員の個人的なファンということは考えられないこともない。たとえば小宮山佳鈴のファンだとかね。彼女のファンで寄付をしてくれるのは、ほかにも何人もいる」 「しかし、芝居を観にこないファンなんてあるのかな?」 「うーん、そうだなあ。あんまり聞いたことはないな……」 「彼女に訊いてみてくれないか」 「訊くって、何を?」 「だから、喬木氏がパトロンかどうか……いや、パトロンというと語弊があるかもしれないが、少なくとも出資をしてくれるような間柄なのかどうかをさ」 「それはないと思うよ。だいたい、彼女のファンなら、楽屋や打ち上げパーティにおしかけてファン風を吹かすに決まっている。喬木氏はそういう場にまったく現れない、純粋に出資だけの付き合いだからね」 「まあ、とにかく、一応訊くだけ訊いてみようよ」  気乗りのしない白井をけしかけて、浅見も一緒に彼女の部屋を訪れた。  小宮山佳鈴はジーパンにピンクのサマーセーターといったラフなスタイルで、畳に寝ころんで推理小説を読んでいた。ほとんどノーメイクだが、ノックに「どうぞ」と答えて振り向いたままの恰好《かつこう》には、ハッとするような色気を感じさせる。  白井の質問に佳鈴は言下に「ううん、知らないわ」と否定した。 「喬木さんて、さっきチラッと見たけど、あの人が出資者なんですか」 「そうだよ。いや、佳鈴が主役デビューした旗揚げ公演の時にも、楽屋で会っているはずなんだけどな」 「あら、そうなんですか? あの時会った人は、浅見さんしか憶《おぼ》えてないけど。だったら、ご挨拶《あいさつ》しなきゃいけなかったかしら」  佳鈴は浅見が思わずニヤニヤするようなことを言ってくれた。 「いや、それはいいんだ。どうだ浅見、ほらおれの言ったとおりだろう」  白井は胸を張った。 「だとすると、ずいぶん奇特な人なんだなあ。白井が言ったように、ふつうなら、大金を出しているんだから、ファン風を吹かすどころか、後援会長に収まったりしそうなものなのに」  浅見は腕組みをして、首をひねった。 「そう言われると、たしかに珍しいな。金は出すが口は出さない——か。相当な大人物なのかもしれない」  白井もようやく気がついたようなことを言った。 「綾子さんは、そのことについて、何か言ってなかったんですか?」  佳鈴が訊《き》いたが、白井は首を振った。 「いや、彼女は契約のことなんかについてはきちんと説明してくれたが、喬木さんがファンかどうかという話は何もしてなかったな。考えてみると、喬木氏がほんとうにうちのファンだったのかどうか、あやしいものだ。ビジネスマンとして、要するに金儲《もう》けの手段として考えているだけなのだろう」 「いや、そんなことはない」と浅見は否定した。「金儲けなら、ほかにもっと確実で有利な投資がゴマンと転がっているだろう。客観的に見て、東京シャンハイボーイズへの出資なんか、よほどうまくいったってトントン。喬木氏に儲ける気なんかないと、僕は思うよ」 「そう言っちゃ、身も蓋《ふた》もないなあ。それじゃ浅見はどう考えるんだ?」 「問題は最初のきっかけだな。そもそもはじめて喬木氏と僕が会った、あの旗揚げ公演の時、どういうきっかけで喬木氏は東京シャンハイボーイズなんかを観に来たんだい?」 「最初は、誰かからチケットをもらって、義理で観に来たんじゃないかな。あの時は、正直言って、メンバーにかなり強引に、チケットの押し売りをさせたからな」 「それはそうかもしれない。しかし、その時以来、ずっと金銭的な応援をしてくれているのはなぜなんだ? 僕なんか、たったあれ一回で懲りたっていうのにさ」 「うーん、そう言われてみると、確かに不思議だな」  白井もようやく深刻そうな顔になった。 「僕に言わせれば、そういう白井の呑気《のんき》さのほうが、よっぽど不思議だ」  浅見は笑って、「いちど、喬木氏のことを調べてみたらどうなんだ。下手すると、東京シャンハイボーイズを乗っ取るつもりかもしれないぞ」 「おいおい、脅かすなよ」  白井は真顔で言った。「まあ、東京シャンハイボーイズはともかく、佳鈴まで乗っ取られたんじゃ、たまったものじゃない」 「あら、私は乗っ取られたりしませんよ。東京シャンハイボーイズあっての私、ボスあっての私ですからね」 「嬉《うれ》しいことを言ってくれるなあ」  白井は感涙に咽《むせ》ぶような声を出した。     3  朝、出掛けに父親の良治が「車に乗せて行ってくれ」と言った。 「蒲生《がもう》町の公民館で集まりがあるんや」 「蒲生町? 土山と反対方向やないの。そんな時間、ないわよ」 「ええやないか、たまには遅刻したかて」 「しようがないなあ」  美佐子は諦めて父親を助手席に乗せた。もっとも、元来が父親の車なのだから、文句を言えた筋合いではない。 「蒲生町で何があるの?」 「空港建設反対の集まりや」  水口町の北の蒲生町と日野町にかかる辺りに空港を作る計画は、かなり以前からあった。  名古屋と大阪に挟まれた、三重、滋賀、京都の府県は、空の交通網から取り残された地域である。たしかに、空港が出来れば、東京や北海道、九州など、遠隔地との時間距離はいまよりグンと近くなる。  とはいえ、その便利さと環境を守ることのどちらを選ぶかは難問だ。滋賀県南部のこの辺りには、新幹線や名神高速道などが走り、環境破壊は急速に進んでいる。この上、空港なんかが持ち込まれ、ジェット機が空を飛び回るようになったら、たまったものではない——というのが、反対意見の代表的なものである。  その一方で、空港建設もええやないか——という意見もなかなか強硬だ。交通の便がよくなるのはもちろん、名神高速道を作り、新幹線を通した時の、地元に投下された膨大な経済的波及効果というやつの恩恵は、当時を知る者なら誰もが「夢よもう一度」と思いたくもなる。  そうして、長いこと懸案になっていた空港建設計画が、バブルの崩壊で冷え込みのきびしい経済活動を活性化する目的とあいまって、ようやく実現化へ向かって走りだした。年度初めから、ヒヤリングの集まりが、空港計画に関係する市町村を巡回している。 「父さんは賛成反対、どっちなんだっけ」 「わしはどっちでもええんや。しかし、郡司のおやじが反対運動に参加してくれ言うよって、一応、顔だけ出さんとな」 「そんないいかげんなこと言うて」 「そしたら、おまえはどっちやね」 「そら、私は反対やわ。何もそんな飛行機みたいなもんに乗らんかて、どこへでも行けるやないの。それよか、こののんびりした雰囲気のほうが、なんぼいいか分からへんわ。自然や環境なんて、いちど壊してしもうたら、もう二度と取り返せへんのよ」 「まあ、そういう考えもあるけどな」  蒲生町公民館付近は、そろそろ集まりつつある人々の姿で賑わっていた。良治の見知った顔も多く、車で追い越しざま、声をかけたりしている。  こっちの車が停まるのとほとんど同時に、反対側から来た黒塗りのハイヤーが公民館の前に停まり、恰幅のいい紳士が降りた。秘書らしい男がドアの開閉をしている。 「あら……」と美佐子は呟いた。降りる支度をしていた良治が聞きとがめて、「何やね?」と娘の顔を窺った。 「あの人、見たことがある。ほら、いま車から降りた……」 「ああ、あれは喬木とかいう東京の建設会社の社長や。空港建設が始まれば土地の買収やら農地転用の保証やらで、住民との折衝にあたらにゃならんさかいに、いつもオブザーバーで来ておる」 「どこで会うたのかなあ……」  美佐子はその男のことが妙に気になって、記憶の底をまさぐって、思い出した。 「あっ、そうや、御古址《おこし》で見たんや」 「なんやね、そのオコシいうのんは?」 「父さんには関係ないことよ」 「ふん、何かっちゅうと、二言めにはそう言う」  良治は面白くもなさそうに、ブツブツ言いながら車を出た。  美佐子は朝っぱらから、なんだかいやな気がした。あの社長は、美佐子が初めて御古址へ行った日に、望田と一緒にいた男だ。空港建設推進派——というより、空港建設でもっとも恩恵をこうむる人物が、望田と知り合いであって、何やらこそこそした会い方をしていたのが、あまり愉快ではなかった。 (望田先生も、空港建設推進にひと役買っているのかしら?——)  まさか御古址の土地が空港建設に引っかかるとは思えないが、あの時の二人の様子は十分に胡散《うさん》臭い。空港建設にからんで、何か密約を交わしていたことも考えられる。教師から校長まで勤めた望田の人脈を利用すれば、反対派の切り崩しなども容易に出来るかもしれない。 (それに——)と、美佐子は思い出した。あの喬木という男は、「呪い殺す……」とか、そんなようなことを言っていた。もしかすると、反対派の中には、そんなふうに喬木を恨む者がいるのかもしれない。  十分ばかりの遅刻ですんだが、望田はあまり機嫌よさそうではなかった。お茶を入れても、いつもなら「ありがとう」というのに、黙ってお辞儀をしただけだ。 「父を蒲生町の公民館まで送って行ったのです。空港建設反対の集会があるそうで」  美佐子は少し硬い口調で言った。空港建設反対は望田への皮肉のつもりだった。 「ん? ああ、そう、それはご苦労さんやったねえ」  望田はびっくりしたように振り向いて、少しとんちんかんな答えを言った。その様子からすると、べつに不機嫌だったわけでなく、何か考えごとをしていただけなのかもしれない。 「集会に建設会社の社長さんが参加していたみたいですけど、先生はあの社長さんと親しいのですか?」 「建設会社の社長?……というと、喬木氏のこと? きみは彼を知っているのかね?」 「いえ、知っているわけではありませんが、いつだったか、先生と一緒に頓宮のところにいた人です」 「ああ、あの時の……だったら喬木氏だ。喬栄建設という会社の社長ですよ。大学時代の友人でね。東京で下宿が同じやった」 「そうなんですか……」  そういう関係なのか——とは思ったが、だからといって、邪《よこしま》な関係でないということにはならない。 「先生は空港建設に賛成なのですか?」 「空港?……藪《やぶ》から棒に訊かれても、答えようがないが。わし個人としては、空港みたいなもんはなくてもいいな。たしかに便利にはなるかしれんが、狭い日本、そんなに急いでもしようがないんとちがうか?」 「でも、あの社長さんは空港建設によって儲ける側の代表でしょう」 「ああ、そりゃまあ、建設が決まればそういうことになるやろがね」 「それで先生に援助を頼みに見えたのとちがうのですか?」 「援助? わしに援助を頼むとは、何のこっちゃね?」 「つまり、反対派の説得を依頼するとか、です」 「ははは、わしにそんなもん出来るかいな。あんたもおかしなことを考えるんやな」 「でも、あの時、なんだか深刻そうにお話ししてはったし……」 「なんや、そんなふうに見とったんか」  望田は笑顔が消えて、最前のような、憂鬱な表情に戻った。そのことで美佐子は、望田の憂鬱が喬木という、あの男に原因があるように思えた。  ドアがノックされて、役場の商工観光課長が入ってきた。後ろに二人の男がつづいている。一人は見知らぬ顔だが、もう一人は浅見であった。浅見が白い歯を見せて笑いかけた時、なぜか美佐子はドキリとして、お辞儀を返すのが少し遅れた。望田のほうは対照的に渋い顔をしている。 「いろいろ事件が重なったもんで、映画の撮影は、予定を変更して、いったん延期されるそうです」  商工観光課長が言うと、望田は「そうですか、それは大変ですなあ」と気の毒そうに慰めを言った。  美佐子は知らなかったが、ロケ隊は、シナリオハンティングの際に、長屋の紹介で望田のところに挨拶に来て、斎王の通った道筋についてレクチャーを受けた経緯があるらしい。  望田は客に応接セットのソファーを勧め、美佐子にコーヒーを出すよう頼んだ。めったに客の訪れのない寂しい部屋である。美佐子はなんだかうきうきする気分で、インスタントコーヒーの量を多めに入れた。 「長屋さんのことといい、うちの女性があんなことになってしまったことといい、まったく呪われているみたいな感じです」  ロケ隊のボスである白井という男は、しきりに慨嘆して、次回のロケーションの際もよろしくと頼んでいる。商工観光課長も望田も「どうぞどうぞ」と快諾したが、どちらの口調もそらぞらしく、むしろ迷惑を表明しているようにさえ聞こえた。  所用があるとかで、商工観光課長が立ち上がると、望田も「そや、わしもちょっと失礼しますよ」と課長を追うように部屋を出て行った。  望田の場合は明らかに客の応対を避けた印象がある。残った三人のあいだに、しばらく気まずい雰囲気が漂った。 「この辺に空港が出来るのですか?」  浅見が軽い話題を持ち出した。 「昨日、車で水口まで行ったら、到るところに空港建設反対と建設促進の看板が出ていました」 「ええ、蒲生と日野のあいだ辺りに建設する計画だそうです」 「そうですか、それは便利になりますね」 「でも、私はどっちかいうと反対です。せっかく静かでのんびりしているのに」 「なるほど、あなたは水口町でしたね。そういえば土山町には看板は一つもなかったな。この町の人にとっては、どっちに転んでもいいという、対岸の火事みたいなものなのでしょうね」 「そうでもないみたいですよ」  美佐子はふと、胸にわだかまっているものが口をついて出た。「この辺にも、建設促進の働きかけがあるのです」 「ほう、この辺りも飛行コースに入るのですか?」 「それはどうか知りませんけど、東京の建設会社の社長が暗躍しているのを見ました」  美佐子は「暗躍」などという言葉は、生まれてはじめて使ったような気がする。いつどこで知ったのか、記憶素子のどの辺りにインプットされていたのか知らないが、こんな死語の世界みたいな語彙《ごい》を自由に取り出して、自在に操れるほど、自分はおとなになったのだ——などと思った。 「建設会社の社長……」  浅見は白井と顔を見合わせて、「まさか、喬木氏じゃないだろうな」と言った。 「あらっ、そうです、その喬木っていう人です」  美佐子も驚いたが、二人の客はもっと驚いた様子だ。 「じゃあ、お知り合い……」  美佐子は急に白けてしまった。気がついたら、みんなグルだったということか——。 「そうか、喬木氏は、その根回しでこっちに来ているのか」  浅見は難しい顔で腕組みをして、しばらく考えてから美佐子に言った。 「その喬木氏の暗躍ですが、彼は何をしていたのですか?」 「え? いえ、そんなにはっきりとは……よく分かりませんけど……」  美佐子は警戒して、出来るだけ曖昧な態度を取ることに決めた。 「いや、あの社長が自ら現地に乗り込んでいるというのは、積極的に反対派の切り崩しをやっていると考えていいでしょう」  浅見の口調から察すると、どうやら喬木のことを知ってはいても、一つ穴のムジナではなさそうだ。 「ええ、たぶんそうやと思います」と、美佐子も気が軽くなったのと同時に、意を強くして言った。 「それで、喬木氏は土山町のどこで説得工作を行っていたのですか?」 「どこいうても……」 「まさか、役場やここで、ということはないでしょうね」 「そんな……違いますよ」  美佐子は慌ててドアの向こうに聞き耳を立てた。こんなことを役場の人間に聞かれたら大変な騒ぎになる。 「ほんまのことを言うと、確かにそうかどうかは分からないのです。この耳でちゃんと聞いたわけやありませんので」 「分かりますよ。話の内容は聞いていないけれど、雰囲気的にそんな印象を受けたのですね? いや、おそらくあなたの観測は正しいにちがいありません。そうすると、説得工作の相手は長屋さんですか?」 「えーっ?……」  どうしてこんなところに「長屋」の名前が出るのか、美佐子は面食らうよりも、恐ろしくなった。 「ははは、はずれたみたいですね」  浅見は愉快そうに笑った。 「いや、もしそうだと、まるでミステリーのように面白いと思ったのですけどねえ。そうはいきませんか」 「ち、違いますよ。相手は望田先生です」  ほとんど衝動的に、美佐子は言った。浅見は口を丸くすぼめて「ほうっ……」と感動したような声を発した。その反応は美佐子を十分に満足させた。 「望田先生とは意外ですねえ。どういうご関係なのかな?」 「学生時代、東京で同じ下宿だったとかおっしゃってました」 「なるほど、それならそういうことがあっても不思議はないですが、本当に説得工作の依頼だったのですか?」 「ですから、確かにそうかどうか、聞いたわけではないんです。ただ、垂水頓宮の森の中でこっそり会って話してはったので、雰囲気的にそうかなって思って……」 「ふーん、御古址でですか……確かに雰囲気としては胡散《うさん》臭い場所ですが、しかし、それだけでは……」 「それと、変なことを言うたんです。その喬木っていう人」 「変なこと?」 「ええ、『呪い殺す気かな……』とか」 「呪い殺す?……とは穏やかじゃないですが、望田さんにそう言ったのですか?」 「いえ、望田先生がそうだというわけではなく、誰かに呪い殺されるとか、そういう意味だったと思います。ですから、たぶん反対派の人がそんな脅しを言ったのじゃないか、思いましたけど」 「なるほど、考えられないわけではありませんね……それはいつごろのことですか?」 「私がここに勤めるようになった次の日ですから、四月二日のことです」 「というと、長屋さんはまだ生きていましたね」  浅見は笑いながら冗談で言っているのだろうけれど、美佐子はゾクッとするものを感じて、「いやだ……」と肩をすくめた。 「もちろんですよ。その帰りに、長屋さんと会ったのですから」 「ほう、長屋さんと……」 「ええ、本陣のそばの茶店でおまんじゅうを食べていたら、長屋さんから声をかけられました。さっき御古址にいたね、言うて、自己紹介して……その時初めて、御古址いう呼び方を知ったのです」 「じゃあ、長屋さんとはその時が初対面だったのですか?」 「そうです」 「だとすると、長屋さんはよほどあなたに一目惚れしたのですね」 「そんな、からかわないでくれませんか」  美佐子は顔を赤くして、なかば本気で怒った。 「すみません。あなたにとってはあまり愉快な思い出ではなかったですね。しかし、長屋さんは真剣だったのだと思いますよ。だからこそ、自慢の人形代をあなたに見せようとして、車の中に入れておいたのです」 「…………」  美佐子は言うべき言葉を失ったが、浅見の言うとおり、長屋は真面目に付き合いたかったのかもしれないという気持ちは、ずっと胸にあった。 「ところで、久米さんが御古址にいるところを見ていたとすると、長屋さんは、そこで望田先生と喬木氏が密談しているのも、見ていた可能性がありますね」 「あ……ええ、そうかもしれません。でも、そのことが何か?……」 「いや、べつにどうっていうことはありませんが……」  浅見ははじめて白井を振り返った。 「どうだろう、長屋さんと喬木氏は付き合いがあったのかねえ?」 「さあねえ、たぶんないと思うよ。喬木氏がうちの劇団に来た時は、長屋はまだ在籍していたから、顔見知り程度のことはあったかもしれないが、それっきりだし、その三年後には長屋は退団してるからね」  白井は言って、「しかし、そのことが何か事件に関係でもあるのか?」と訊いた。美佐子もその答えを待って、浅見の口許をじっと見つめた。     4  浅見が口を開こうとした時、望田が戻ってきた。(まだいたのか——)という顔をしながら、「やあ、どうも失礼しました」と席をはずした詫びを言っている。 「ちょうどいいところにお帰りでした」  浅見は嬉しさを隠さずに言った。 「望田先生は喬栄建設の喬木社長をご存じなのだそうですね」 「えっ?……」  望田はギクリとして、久米美佐子の顔を見た。余計なことを——という目である。その美佐子は浅見の背信行為に抗議の目を向けてきた。浅見はそのどちらにも気づかないふりを装って、言った。 「じつは、喬木さんは東京シャンハイボーイズの大スポンサーなのです」 「えっ、それは本当ですか?」 「ええ、今回の映画の製作費も、喬木さんの出資で賄っているくらいです」 「…………」 「ご存じではなかったみたいですね」 「ああ、喬木氏は何も言っておりませんからな」 「そうだったのですか、あの方は本当に奥ゆかしいっていうか、まったくスポンサー面《づら》をしませんからねえ。しかし、ロケ地の土山町に来て、親友である望田先生にも黙っていたとは驚きでした」  望田は浅見のやや誇張した言い方に、わずかに顔を歪めるような笑いを浮かべたきり、何も言わなかった。 「さて、そろそろかもしか荘に帰らないとまずいんじゃないか」  浅見は立ち上がり、白井を促した。 「ロケ隊の連中が待っていますので、これで失礼します」  まるで自分がボスのような口ぶりだったが、白井は素直に従った。その代わり、望田と美佐子に別れを告げて、文化ホールの建物を出るやいなや、白井は浅見に食ってかかるように言った。 「おい、なんであんなことを言っちまったんだ。久米さんだって、望田氏と喬木氏の関係をおれたちに喋ったと分かって、立場をなくしただろう。彼女、目を三角にして、だいぶ怒っていたみたいだぞ」 「うん、彼女にはすまないことをしたが、しかし、やむを得ないよ」  浅見は立ち止まって文化ホールを振り返ってから、厳粛な表情を白井に向けた。 「久米さんの迷惑は承知の上だ。僕が悪者になればいい。それより、いまはまず事件の真相を解明するのが先決だろう。そのためには、多少の軋轢《あつれき》は覚悟してでも、一つずつ謎解きの鍵を開けてゆく必要があるからね」 「ん? というと、喬木氏と望田氏の関係も鍵の一つだっていうのか?」 「ああ、たぶん」 「たぶんて……浅見はいったい何を考えているんだ?」 「決まっているだろう。依頼人であるきみの望みどおり、事件を解決したいだけだ。いけないのか?」 「いや、もちろんそう願いたいけどさ。しかし、浅見の言うことを聞いていると、喬木氏まで事件に巻き込みかねない感じだから、心配でしようがない。とにかく、喬木氏が東京シャンハイボーイズの大スポンサーだってことを忘れるなよ」 「分かっているさ。白井が困るようなことは——いや、きみなんかどうでもいいが、東京シャンハイボーイズの人たちや小宮山佳鈴さんが泣くようなことには絶対にしないよ」 「ふん、まあ何でもいいが、その約束だけは守ってくれよ」  ソアラに乗り込みエンジンをかけて、「ところで、次の鍵だが」と浅見は言った。 「塚越綾子さんが東京シャンハイボーイズに入る前の仕事だけど、たしか会計事務所か何かだったね」 「ああ、そうだったと思う」 「思うか……まったく呑気なやつだな」 「いや、その時は承知していただろうが、忘れたよ、そんな昔のことは」 「だったら、ひとつ、それを調べてみてくれないか」 「えっ? 綾子の前の会社をか?」 「そうだ。たぶん警察でも七年前の勤めまでは、まだ調べてないと思う。ひょっとすると永久に調べない可能性もある。そんな古いことが事件に関係しているとは思わないだろうからね」 「しかし、そんなことをどうやって調べればいいんだ?」 「方法はいくらでもあるじゃないか。きみのオフィスに履歴書が残っているかもしれないし、彼女のおふくろさんが知っているかもしれない。北海道の実家には、ちょくちょく手紙を出してはいたそうだから、その手紙に仕事先のことを書いたものがあるだろう。きみと違って几帳面な彼女のことだ、東京の自宅に古い支払明細表か源泉徴収表がしまいこまれている可能性もある」 「なるほど……さすがによくいろいろ考えるもんだなあ。しかし、そんなものが謎を解く鍵になるのかね?」 「知るものか。とにかくやってみなきゃ結論は出ない」  浅見は少し邪険に車を発進させた。  かもしか荘に戻ると、ロケ隊は出発の準備がほぼ完了していた。撮影がようやく目的の半分を達成したところでの撤退である。全員が浮かぬ顔をして白井を迎えた。  白井はロビーで訓示を垂れた。思わぬアクシデントによって、みんなにも迷惑をかけたが、映画製作を中止するわけではない。態勢を整え直して、ふたたびこの地にやってくるから、その時はよろしく——といったようなことを喋った。さすが劇団のボスだけに、声涙ともに下るような演説には、大袈裟にいえば悲壮感さえ漂っていた。  ロケ隊の車と浅見のソアラと、七台の車は連なってかもしか荘の駐車場を後にした。例の御腰輿《およよ》はトラックの荷台の上でユラユラと揺れている。最後尾の浅見から見ると、やはり何となく葬式のパレードのように思えてしまう。  浅見の車には小宮山佳鈴が同乗している。白井に頼んで、名古屋の新幹線駅まで乗せて行くことにしたのだ。ちょうど東京のテレビの仕事が入っていたこともあるが、道すがら話を聞くのが浅見の目的である。ほかの連中は、白井を含めて、すべて車のまま東京まで帰る。 「おい、誘惑なんかするなよ」  白井はこんな際でも軽口を叩いた。  佳鈴は浅見とのドライブを歓迎している様子だった。「ほんとに、二人だけでどこかへ行っちゃいましょうよ」などと言って、浅見をドキッとさせた。 「長屋さんとあなたとのことですが」  浅見は彼女の陽気さに冷水を浴びせるような口調で言った。 「またその話ですか」とたんに、助手席の佳鈴が顔をしかめた。 「ははは、まあ、そういやがらずに聞いてください。あれからいろいろ考えたのですが、いくら小宮山さんのお家の方に説得か妨害かをされたにしても、自分のほうからプロポーズした長屋さんが、いともあっさりと諦めたというのが、僕にはどうしても信じられないのですよ」 「でも、形の上とはいえ、現実にふられたのは私ですから」 「ですからね、長屋さん側に、そうしなければならない、何かよほどの事情か理由があったのじゃないかと思うのです」 「どんな理由かしら?」 「どうでしょう、その理由を調べてみませんか?」 「えっ、調べる?」 「そうです。いったい誰がどうやって、長屋さんにあなたとの結婚を諦めさせたのか、それと、出来ればその理由というか、説得の内容をあなたに調べていただきたいのです」 「いやですよ、そんなの」  佳鈴は、舞台で高慢ちきな令嬢を演じているような、高飛車な言い方をした。ひょっとすると、それが本当の彼女の地なのかもしれない——と浅見は苦笑した。 「困ったなあ」 「浅見さんが困ることはないと思います。それより、そんな昔の傷を、どうして暴《あば》かなければならないんですか?」 「あっ……」と浅見は胸を衝かれた。佳鈴の言った「傷」という言葉に、彼女の痛みを感じた。 「失礼……そうでしたか、僕はあなたのことを誤解していたようです。あなたにとって、長屋さんとのことは、ほつれ毛を撫でて通り過ぎた、秋風のようなものかと思っていました」 「あら、ずいぶん文学的な表現をしてくださるんですね。ええ、たしかに、本当はそうなのかもしれません。でも、私にしてみれば、あれは頬を刺す雪まじりのつむじ風でしたよ。思い出すのもいや」 「じゃあ、ロケ現場に長屋さんが現れた時は、さぞかし不愉快だったでしょうね」 「ええ、それに、あの人、ほとんどつきまとうみたいにしていたんです。だから、いやだなあって思って……でも……」  佳鈴は言葉を止めて、ふっと視線をあげ、フロントグラスのはるか遠くを見た。 「でも、何ですか?」  浅見が催促したが、佳鈴はしばらく間を置いてから、「ちょっと変な感じがしました」と言った。 「変な感じ?」 「うまく言えないんですけど、長屋さん、人が変わったみたいで」 「というと、しつこかったのですか? 塚越綾子さんも白井にそんなふうなこと——変なことをされるんじゃないかと思ったとか、そう言っていたそうですが」 「ああ、それはね、彼女の感じ方だと思います。最初は私もそう思ったくらいですから、無理もないんですけど、実際には、あの時の長屋さんはさらっとしていて、いやらしさなんか、ぜんぜんありませんでした。なんて言えばいいのか、とにかく純粋に女優としての小宮山佳鈴を評価してくれて、『すばらしい斎王を演じているよ』って……とても嬉しかったわ、そう言われた時は」  佳鈴は胸に支《つか》えていたことを思いきり出してしまったように、ほうっと吐息をついて、シートの背凭《せもた》れに全身を委《ゆだ》ねた。  車の列は鈴鹿峠を一気に下って、関町を通過しつつあった。かつて斎王の群行が通ったのとほぼ同じコースを、無骨なトラックに御腰輿を載せた、戦い敗れたような一群が行く。春の陽射しがむやみに明るくて、なんだか白日の悪夢を見ているようだ。 「長屋さんが、ふたたびプロポーズをするような気配はありませんでしたか?」  浅見が言うと、佳鈴は「えーっ?」と驚いて、それから笑いだした。 「あははは、いやだ、そんなの、ぜーんぜん……」  笑いがやんだと思ったら、佳鈴はしばらく黙って、少しくぐもった声を出した。 「私ね、長屋さんが死んだって聞いた時、ほんとは泣きたかったんです。誰も泣かなかったし、私が泣いたらおかしなことになるような気がして、白けた顔をしてたけれど、ほんとは泣きたかったんです。昔はともかく、今はもう別になんの関係もないのに、なぜだか知らないけど、とてもつらい気持ちで……」  語尾が乱れて、白いハンカチが浅見の視野の片隅をかすめた。 「それはあれかな。斎王の演技を褒められたせいですかね」  浅見がわざと間抜けなことを言うと、佳鈴は「そんなんじゃないですよ」と、洟水《はなみず》をすすりながら、むきになって言った。 「うまく言えないけれど、何ていうか、身内の誰かが亡くなったみたいな……」 「ほう、よほど長屋さんという人は印象が強かったのですね」 「さあ……そんなことはないと思うのですけど……よく分かりません」佳鈴は首をひねって、沈黙した。  亀山インターから東名阪自動車道に入ると、名古屋まではほんの一時間足らずの距離である。緩やかな起伏を行くハイウェイは快適だった。そのせいか、会話が途絶えても、気詰まりな感じはしなかった。  木曾川を渡って名古屋市街に入って間もなく、佳鈴はふいに、「浅見さんて……」と言った。 「浅見さんて、不思議な人ですね」 「は? どうしてですか?」 「だって、こんな事件、浅見さんご自身にはぜんぜん関係がないのでしょう? いくら白井さんに頼まれたからって、どうせボスのことですもの、謝礼なんかビタ一文出すわけでもないのに、そんなに一生懸命なさって、なぜなんですか?」 「はあ、たしかに変ですねえ……」  浅見は苦笑した。これまで、いろいろな事件に関わって同じ質問を何度受けたか分からない。そのつど、浅見は当惑する。単なる好奇心です——などと言えば、不謹慎に思われるだろう。かといって「正義感から」だなどとは、口が裂けても言えたものではない。本心を言えば、そのどちらでもなく、またどちらの要素もあるような気がする。 「やっぱり、白井に対する友情かなあ。それと、多少はボランティアのつもりもあるのかもしれません。といっても、そう立派なことではなく、罪滅ぼしみたいなね」 「罪滅ぼし?」 「そう、人間、誰だって、多かれ少なかれ、何かしら不正を行っているものでしょう。その埋め合わせっていうか、自分で蒔《ま》いた種は自分で刈るのココロかな」  冗談めかして、はぐらかすようなことを言った。 「浅見さんて、そんなに悪いことをしてるようには見えませんけどねえ」 「さあ、分かりませんよ。ジキル博士とハイド氏かもしれない」 「だめですよ、そんなふうに脅かそうとしても。浅見さんには、生まれながらに、悪事を働くような性格が備わっていないんだと思います。こうして二人だけでいても、ぜんぜんスリルを感じないんですもの」 「ははは、なんだかつまらなそうな言い方ですね」 「ええ、ちょっと物足りない……けど、気持ちが安らぎます」 (やれやれ——)と浅見は少し情けない気分であった。歳下の女性に安心されては、手放しで喜べたものではない。 「私、やってみることにします」  佳鈴は語調を変えて、言った。 「さっき浅見さんが言った、六年前のお節介焼きが誰だったのか、それから、長屋さんのどこに問題があったのか、調べてみます」 「そうですか、やってくれますか。それはありがたい」  浅見は心底、感謝をこめて言って、軽く頭を下げた。 「私も、少しは罪滅ぼしをしませんとね」  佳鈴は真顔で言った。「罪滅ぼし」が長屋に対してのことなのか、それとも単に一般的な意味で言ったのか、浅見には掴みかねた。  第七章 あやしい被害者     1  小宮山佳鈴を名古屋駅で降ろしたあと、浅見は喬木が泊まっているホテルにチェックインした。名古屋でトップクラスのシティホテルで、料金は浅見にとっては目玉が飛び出るほどだが、この際、やむをえない。  フロントで訊くと、喬木はまだこのホテルに滞在中だが、いまは外出しているとのことだ。ひょっとすると、空港建設計画のある水口か日野あたりに出掛けているのかもしれない。会えるとしても、今夜遅くになりそうである。  もっとも、そのほうが浅見には好都合であった。いまはとにかく、可及的速やかに『旅と歴史』の原稿を書かなければならない。  藤田編集長から受けた注文は三十枚だが、まだわずか数枚しか進んでいない。浅見の平均的執筆量からいえば、三十枚程度なら二日もあれば十分なのだが、今回の旅では取材不足、資料不足の上に時間不足という、決定的な悪条件が重なった。実際、旅に出てからというもの、朝から晩まで——いや、時には夜明けまで、浅見はワープロに向かう余裕など、まるでない状態がつづいていた。  部屋に落ち着くやいなや、浅見はデスクにワープロを置き、ありったけの資料をベッドの上に広げた。  斎王については、書くことが沢山ありそうで、じつは書きように苦労する。斎王の事蹟は驚くほど少ないのである。元々、天皇家にまつわる情報は、太平洋戦争以後まで公開されることはほとんどなかったのだが、斎王に関しては六百何十年も歴史が途絶えているだけに、さらに霧の中である。多くの学者が、いろいろな書物や記録文書の中に埋没しているようなわずかばかりの記述を頼りに、どうにか斎王像を研究してきて、ようやく集大成されつつあるところなのだ。明和町の斎宮歴史博物館などは、その結晶ともいうべきものである。  それだけに、斎王は神秘的な魅力に包まれた存在といえる。あるいは、文学的にかなり美化したりデフォルメして書いても、ある程度は許されそうな気がする。  遊びたい盛りのいたいけな皇女が斎王に選ばれ、宮中の斎院や野宮で精進潔斎の日々を強要され、あげくの果て、遠く伊勢の斎宮に送られる——というのだから、まったく気の毒な話である。外見は華やかだが、ご当人にしてみれば、悲しく辛い苦行の歳月だったことだろう。  そういう視点に立って斎王物語を書くと、いやしくも『歴史』を標榜する雑誌には不似合いな、あまりにもセンチメンタルに堕した文章になってしまいそうだ。 (こんなんでいいのかな——)と、浅見は内心ビクビクしながら、ためしに出来ただけの原稿をファックスで送ってみたところ、藤田からの電話は「いいね、いいじゃない」とご機嫌なものであった。 「この調子でずっとつづけてよ。満天下の女性たちの紅涙をしぼるような、悲恋物語なんてのがあると、いっそういいけどね」 「そんなものはありませんよ。斎王は厳粛なものなんだから」 「そうかねえ。ま、いいや。とにかく今夜中——遅くとも明日の夕方までに仕上げてくれ。遅れたら取材費は払わないよ」  鬼のような激励に感動しながら、ワープロのキーを叩いて、気がついたら、時計の針は午後六時を回っていた。  フロントに電話してみると、喬木はまだ戻ってきていないと言う。「お戻りになりましたら、ご連絡を差し上げるようにいたしましょうか」と言うので、「そうして下さい」と頼んでおいた。  その数分後、喬木から電話が入った。「喬木ですが」と言った口調は、少し警戒しているようなニュアンスだったが、浅見が「かもしか荘で会った東京シャンハイボーイズの……」と言いかけると、「ああ、あの時の」とすぐに明るい声になった。 「たまたま、このホテルに泊まったもので、ちょっとお目にかかりたいのですが、ご都合はいかがでしょうか?」 「いいですとも、今日はもう仕事を終えました。明日帰京しますが、それまでは何も予定がありません。そうだ、どうです、一緒に食事をしませんか。お近づきのしるしに、ご馳走しますよ」  もちろん、浅見に異論はなく、遠慮するような失礼な気持ちもさらさらない。  喬木に指示されたように、十一階にあるステーキハウスに行くと、喬木はすでに待っていて、鉄板焼きのカウンターの席をリザーブしてくれていた。鉄板焼きといっても、お好み焼きとはわけが違う。カウンターの向こう側には、白い帽子に黄色いハンカチを首に巻いたコックがいて、手品師もどきの巧みな手さばきで、鉄板の上の肉や海老や貝類を調理してくれる。 「高そうですねえ……」  浅見は上目遣いに進行中の料理を窺いながら、喬木に囁いた。遠慮はしないにしても、あまり過分なご馳走を頂戴しては、話の持ってゆき方に迫力の欠けるおそれがある。 「ははは、一流ホテルに泊まる割には、つましいことをおっしゃる。そんなことを気にするようでは、大物にはなれませんぞ」  喬木は少し皮肉な目をして、おかしそうに笑ったが、大物になる気などこれっぽちもない浅見にしてみれば、重大問題だ。  それはそれとして、和風ステーキは美味であった。とくに、最後に海老の頭の部分を、鉄板の上でせんべいみたいにつぶして、カリッと焼き上げたのが、ことのほか旨かった。喬木はそんなに気に入ったのならと、自分の分を譲ってくれた。  浅見も口数は多くないが、喬木は事業家にしては珍しく、寡黙な性格のようだ。もっとも、隣の席の新婚らしいアベックが、喋り通しに喋るのに圧倒された観もなくはない。  その騒音の中で、それでもおたがいの素性に関する情報を交換しあった。浅見のほうは、いまだに親の家に居候同然でいる、うだつの上がらないルポライターであること以外、大して自慢できる内容の経歴はない。喬木の喬栄建設はその名のとおり喬木家の先代が興した会社で、二部上場ながら土木建設の企業としては中堅どころということだ。 「道路公団だとか空港建設公団だとか、政府がらみの事業が多いもんで、固いことは固いが、受注条件はきわめてきびしいのです。時には土地買収の交渉にまで参画したり、心ならずも地上げ屋もどきの仕事までさせられますよ」  喬木は自嘲するように笑った。現に、ここ数日、名古屋に居つづけで、びわこ空港建設に絡む、地元への根回し工作に駆り出されているのだそうだ。 「こんなことは書かないで下さいよ」  途中で浅見の職業を思い出して、笑いながら言った。柔和なざっくばらんな語り口で、たとえ利害関係の反する人間でも、いつの間にか籠絡《ろうらく》されてしまいそうな、人間的な魅力を感じる。ご馳走されたせいばかりでなく、浅見は喬木という人物が好きになった。  席を最上階のスカイラウンジに移して、食後のコーヒーを飲んだ。喬木は浅見同様、あまりいける口ではなく、食事の際もビールをグラス一杯だけですましている。 「東京シャンハイボーイズはかわいそうなことをしましたなあ」  喬木は言った。白井たちの苦境を思いやるばかりで、自分の出資金の不安を口にしないあたり、太っ腹というほかはない。 「話は違いますが」と、浅見はようやく本論を持ち出した。 「喬木さんは、土山町文化財調査委員会の望田さんをご存じなのだそうですね」 「ん? ああ、そうですが、よく分かりましたね。望田に聞いたのかな?」 「いえ、べつの人物が、垂水頓宮にお二人がいらっしゃるところを目撃していたのだそうです」 「なるほど、すると、あの娘さんかな? 頓宮のところにお嬢さんがやって来たが」 「ええ、彼女もそうですが、もう一人、目撃者がいるのです」 「誰です?」 「長屋さんです」 「長屋?……」  喬木は眉をひそめ、浅見の顔をジロリと見た。悪い冗談を言っているのでは?——という目だ。 「長屋さんとは、あの、殺された人のことですか?」 「そうです。その長屋さんが、お二人と、それから女性のいるところを目撃していたということです」 「ふーん、そうですか……そういえば、長屋という人は、一時期、東京シャンハイボーイズのメンバーだったそうですな」 「ええ、そうです。あ、それじゃ、喬木さんは長屋さんのことはご存じなかったのですか?」 「知りません。もっとも、先方は私を知っていたのかもしれませんがね」 「そうでしょうね。喬木さんはなんといっても、東京シャンハイボーイズの大スポンサーですから」 「ははは、なに、私のほうは将来性を買って、いずれ儲けさせてもらうつもりで、いわば先行投資をしているだけです」 「それにしても、海のものとも山のものとも知れない劇団に肩入れして、今度の映画製作には、二億もの金を投じるなんて、僕のスケールでは到底、考えられません」 「いや、それはね、単純に利潤追求のみを考えてなら、ほかにも投資対象はいくらでもありますよ。しかし企業といえども、社会的役割はそれだけではない。文化とか教育についてなにがしかの貢献を果たすのも、企業の義務と考えるのです。ことに日本の映画産業は憂うべき状況にある。むやみに人を殺すばかりのような映画だとか、怪獣物やポルノやお笑いなど、すべて類型的な作品ばかりでしょう。人間の生き方を問いかけてくるような映画には、ついぞお目にかからない。ドンパチやエロがあってもいいが、必然性がなく、ただそれのみに終始するというのでは、あまりにも物欲しげで情けない。そうは思いませんかな?」 「思います」  浅見は素直に頭を下げた。 「僕なんかも、物書きの端くれとして、耳の痛いところです」 「いやいや、あなたなどはまだお若いし、そうして社会のあちこちを見聞して歩かれるかぎり、世の中の矛盾やものの哀れなど、感じる機会に恵まれるでしょう。ひとかどの作家になられても、その体験を忘れず、大切にされるのがいい。近頃は映画監督も作家も学者までもが、その本分を見失ったように、お笑いタレントもどきにテレビに登場する。あのようにだけはなっていただきたくないものですな」  お説ごもっともだが、どうも喬木のペースで話が展開している。こっちの訊きたいことを切り出すきっかけを掴むのに、浅見は苦労した。 「それにしても」と、浅見は強引に元の話題に引き戻した。 「喬木さんが東京シャンハイボーイズのような弱小劇団を援助しようとされたきっかけは何だったのでしょうか?」 「うーん、それはなかなか難しいご質問ですなあ……」  喬木は言葉につまったように、天井を見上げた。 「まあ、弱小ゆえ、ということもあるでしょうかなあ。既成のしっかりしたところなら、私のような者の微力など必要としないでしょうからね」 「直接のきっかけは、やはり劇団の誰かとお知り合いだったのでしょうね?」 「えっ? あ、いや、そう、多少のつながりはありましたが……」  喬木の応対が、急に歯切れの悪いものになったことに、浅見は驚きに近い興味を惹かれた。 「白井に聞いたところによりますと、彼は喬木さんからの突然の援助にびっくりしたのだそうです。おまけに、その後も面倒を見てくださるだけで、少しもスポンサー風を吹かせるようなことをしないし、それどころか公演を観に来てもくれない。まったく不思議な方だと悩ましい顔をしていました」 「ああ、それはね、そう、芝居を観に行くほうは、なかなか仕事のスケジュールとうまく噛み合わないもんで……」 「それで、僕はこう言ったのです。たぶん、喬木さんは小宮山佳鈴さんのパトロンにちがいないと。そうしたら……」  浅見が言いかけるのとほとんど同時に、喬木は「とんでもない!」と、怒鳴るように言った。浅見はニッコリ笑って、ペコリと頭を下げた。 「はい、白井にも『とんでもない』って怒られました。小宮山佳鈴さんはそんな人ではないというのです。それじゃ、誰の関係なんだと訊くと、さっぱり見当がつかないというのですね。それで、ぜひいちど喬木さんご本人に確かめてみたかったのですが、否定されて安心しました」 「安心、とはまたどうして?」 「僕もまだ独身でして、ひそかに佳鈴さんに想いを寄せている者の一人です。いまのところ、彼女には特定の相手はいないらしいので、とりあえず喬木さんがパトロンなんかではないことが分かって、ほっとしました」 「ははは、私のようなじじいに、あの子が似合うはずはないでしょう。それに、彼女は小宮山家のお嬢さんじゃないですか。パトロンなど必要としませんよ」 「あ、そうなのですか。喬木さんは佳鈴さんの家のことをご存じなんですね?」 「ん? というと、浅見さんは小宮山家を知らないのですか?」 「ええ、僕は白井との関係で、東京シャンハイボーイズとは付き合いがありますが、個々の団員のプライバシーについてはほとんど知識がありません。でも、さすがですねえ。喬木さんは、団員の家庭事情まで、ちゃんと調査ずみなのですか」 「いや、知っているといっても、たまたま小宮山佳鈴さんのことについてだけで……」 「ほうっ……」  浅見の興味|津々《しんしん》の眼に見つめられて、喬木はスッと視線を外した。 「ははは、かないませんな。なんだか誘導尋問にかかっているようだが。しかし、小宮山佳鈴さんのことは、ある知人から話を聞いて、多少の知識があるというにすぎません。もちろん詳しい家庭の事情などについては、ほとんど知りません」 「そうはおっしゃっても、援助のきっかけに佳鈴さんの存在があったことは事実なのでしょう?」 「どうも、あなたはなかなかくどい人のようですなあ。心配しなくても、私はパトロンでも何でもありません。どうぞ気兼ねなく、彼女を口説いてください」  喬木は「よっこらしょ」と、大儀そうな掛け声と一緒に腰を上げた。 「どうも、長い出張はしんどい。昔は何日でも、どこへ行くのも億劫でなかったのだが、この分ではそろそろ引退を考えたほうがいいかもしれない」  そう言う喬木の顔は、なんだか急に年寄りくさくなった。     2  部屋に戻ってからしばらくのあいだ、浅見はベッドにひっくり返って、天井を眺めながらぼんやりとしていた。やはり何となく、喬木の老獪《ろうかい》さにはぐらかされたような、不完全燃焼の気分が残った。  喬木が不用意に洩らした「小宮山家」という言葉は、喬木が本当は小宮山佳鈴の家と何らかの繋がりのあることを物語っているように思われる。それは、漠然と喬木と佳鈴の結びつきを思い描いていた浅見の直感を裏付けるものといっていいのだが、しかし佳鈴本人ではなく、「小宮山家」というかたちで出てきたことに、戸惑うものはあった。  とはいえ、いまはその疑念にかまけているひまはなかった。とにかく明日のチェックアウトまでに斎王のルポを書き上げなければならないのだ。  部屋に備え付けの、ただでさえ不味《まず》いティーバッグの日本茶をポットのぬるい湯で飲んで、浅見は睡魔とたたかいながらワープロを叩いた。壁の薄いビジネスホテルなんかだと、隣人から怒鳴りこまれるのだが、さすがに一流ホテルだけあって、遮音はしっかりしていて、文句の出るおそれはなさそうだ。  まもなく十二時になろうとするとき、白井から電話が入った。塚越綾子の履歴書が見つかったというのである。 「七時に東京に着いてさ、家に帰ってからいままでかかって、やっとこさ発見したよ。古い書類の中に綾子の履歴書が入っていた。七年前の若い写真を見てたら、面接をした時のことを思い出して、ちょっとジンときちゃってねえ」  白井らしくなく、しんみりした口調で言った。 「感慨に耽っているのもいいけど、それで、彼女の勤めていた会社はどこだい?」 「港区の後藤会計事務所っていうところだ。短大を出て、三年勤めている」 「ということは二十三歳ってことか。そこを辞めた理由は何だったのかな?」 「決まってるだろう。うちに入るためじゃないか」 「ふーん、つまり転職ってわけか……しかし、白井のところがそんなに条件がいいとは思えないけどね」 「ああ、自慢じゃないが、それは確かだ。その当時はいまより貧乏で、だから事務員が長続きしなくて困っていたのだ」 「前の会社を辞めてまで、東京シャンハイボーイズに入った理由は何だろう?」 「さあなあ……たしか、芝居が好きだからとか、そんな理由だったと思うよ」 「芝居が好きって言ったって、自分が俳優になるわけでもないのにかい? それに、北海道の実家だって、仕送りをしてくれるほど楽な暮らし向きだったとも思えないし、安月給で東京で暮らすのは大変だったのじゃないかなあ……そうだ、住所はどこだい? 彼女が住んでいたのは?」 「えーと、港区南青山……ふーん、いいとこに住んでいたんだなあ。ハイツ・グレイスというマンションの六階だ」 「だったら、アパートだとしても、それだけで安月給なんか吹っ飛んじゃうだろう」 「まあな……」 「まあなじゃないよ」  浅見は白井の呑気さに呆《あき》れた。 「そういえば」と白井は言った。 「採用の時、給料の安いことを一応、言ったんだ。それでもいいのかどうか」 「それでもいいと言ったのかい?」 「そういうことだな。そうだ、思い出した。その時、芝居が好きで好きでしようがないから——という話をしたんだ。いいコが来てくれたって思って、おれも感激してさ。若かったなあ……」  電話の向こうの白井の声が、少し湿っぽくなった。 「彼女が経理事務からマネージャーに転向したのはいつごろなの?」 「割と早かったな。おれは最初から彼女はマネージャーに適していると思っていたし、彼女もその気があったから、たしか二年目ぐらいからじゃなかったかな」 「それで、給料は少しは上がったのか?」 「いや、そう大したアップはしないが、うちの劇団自体が多少は景気よくなってきてたしね。それに、マネージャーってやつは、渉外費とか交通費なんかが使えるし、食事代だって経費で落とせる場合が多いから、かなりゆとりは出来たんじゃないかな」 「それにしたって、北海道の家を修復するほどの余裕はないだろう」 「ああ、それはまあ、そうだけどね」 「使い込みでもすればべつかな」 「おい、馬鹿なことを言うな。彼女はじつに几帳面な女だったのだ」 「ははは、冗談だよ」  電話を切って、ふたたびワープロの前に戻ったが、いまの話が気になって、なかなか仕事のペースが上がってこない。ひと眠りと思って横になったら、目が覚めると朝の七時であった。  それから二時間、猛スピードで最後の十枚を書き上げ、なんとか、藤田編集長の出勤時間前にファックスも送った。藤田との約束は昨日までだが、この程度の遅れなら文句はないだろう。ただし原稿の内容には自信がない。浅見は藤田からクレームを言ってくる前にホテルを出た。  出掛けに念のため、フロントで喬木のことを訊くと、すでにチェックアウトずみということだ。東京へ引き上げるといっていたが、またぞろ空港建設の件で奔走しているのかもしれない。  浅見はわけもなく背後から急《せ》かされるものを感じながら名古屋を発った。何かが目まぐるしく動きだしそうな予感といってもいい。無意識のうちに、アクセルを踏む足に力が入るのか、東名高速では何度もスピードメーターの数字に驚かされた。  東京目前の海老名のサービスエリアで自宅に電話を入れた。  お手伝いの須美子が出て、浅見の声を聞くなり「坊ちゃま、藤田編集長さんから、何度もお電話がありましたよ」と言った。案の定、何かクレームがついたにちがいない。 「今度電話があったら、いま東京へ向かって走行中って言っておいてくれ」  早口で言って、須美子が何か言う前に邪険に、浅見は電話を切った。これでまた、帰宅すると、ひとくさり須美子の小言を聞かされることになりそうだ。何しろテキは「坊ちゃまは心配ばかりかけるのですから……」と涙ぐむ武器を持っているから恐ろしい。しっかり者の女性もいいが、いちど怒らせると、なかなか許してもらえないので困る。  白井の自宅に電話すると、留守で下北沢の劇団事務所のほうにいた。 「これからそっちへ向かうから、事務所にいてくれ」 「ああ、いいよ。どうせ今日は夜遅くまで事務所にいることになるだろう」  白井は疲れきったような声で言った。製作スケジュールの立て直しに、ひと苦労といったところか。役者やスタッフのスケジュールを調整する作業は、かなり厄介なはずだ。手駒の小宮山佳鈴だからといっても、テレビなどの出演も入っていて、こっちの都合だけで独占できるわけではない。  東京シャンハイボーイズの本拠は下北沢にあった。浅見が知っているころは稽古場も、あちこちと借りて回っていたが、古い倉庫のような代物とはいえ、自前の小劇場つき事務所を構える身分になっていた。  事務所には白井と、マネージャー兼事務員らしい二人の女性がいるだけだった。 「スタッフは今日一日、休暇を取らせた」  白井はソファーに寝そべったままの恰好で言った。動くのも億劫なほど疲れきった様子である。  女性が浅見のためにだけコーヒーを入れてくれた。お世辞にもあまり上等のコーヒーとは言えなかったが、浅見は最後の一滴まで飲み干してから、「おい、ちょっと行ってみないか」と白井を促した。 「行くって、どこへ?」 「塚越綾子さんが勤めていた、後藤会計事務所というのを訪ねる」 「…………」  白井は一瞬、キョトンとしたが、浅見の鋭い目つきに恐れをなしたのか、おとなしく起き上がってきた。  塚越綾子の履歴書に書かれた「後藤会計事務所」は港区の麻布十番にあるKビルが、その所在地になっている。Kビルはすぐに見つかったが、後藤会計事務所というのはなかった。ビルの管理人に訊いても、そういうオフィスはありませんという答えだ。 「どこかへ移転したのかもしれません。七年前までは確かにあったはずですが」  浅見が言うと、管理人はムッとした顔になった。 「私はこの仕事を十三年つづけていますが、そんな事務所がこのビルにあった事実はありませんな。いったい、あんたたちはどういう目的です?」  妙なケチをつけると警察を呼ぶぞ——と言わんばかりの剣幕だ。 「どうなっているんだ?」  外へ出ると、白井は八階建てのビルを見上げて、追い出された憤懣《ふんまん》をぶつけるように言った。 「それはこっちが訊きたいよ」  浅見は駐車違反のソアラを気にして、白井には構わず、どんどん歩きながら、背後に投げ捨てるように言った。白井は慌てて追いかけて来る。 「塚越綾子が嘘の履歴書を出していたっていうことかなあ」  白井は自信を喪失した口調になった。 「まあ、そうなるね」 「だけど、何だってそんなことをしたんだろう?」 「常識的にいえば、前歴を隠したかったのだろうね」 「何のために?」 「知らないよ、そんなこと」 「うちの劇団に入るのに、前歴を隠す必要なんかないだろう。頭もいいし、事務能力もあるし……」 「その事務能力ってやつだが、本当に能力はあったのかい?」 「あったよ。さすが会計事務所にいただけのことはあるって、感心したくらいだ」 「だとすると、どこか、それらしいところに勤めていたことは事実だね」 「だったら、履歴書にその会社の名前を書けばよさそうなものじゃないか」 「僕に怒ったってしようがない。彼女にはそうしなかった、何らかの理由があったのだろう。とにかく、真相を調べてみる価値はありそうだ」 「調べるって、どうやって?」 「そうだな……いちど、南青山のマンションてやつを見ておこうか」  南青山の「ハイツ・グレイス」に、塚越綾子の部屋は確かにあった。それほど豪華というほどのことはないが、いずれにしても南青山は一等地である。たとえワンルームであろうと、そう安い家賃ではないはずだ。  二人が管理事務所に寄って、事情を話し、部屋の鍵を開けてもらえないかと言うと、それは出来ないが、いまなら塚越綾子の母親がいるはずだという。娘の後始末をしているらしい。  浅見は白井と顔を見合わせた。白井は辛い顔をしている。綾子の母親と会うのが憂鬱なのは分かるが、浅見は逆に(ラッキー!——)と、心の中で叫んだ。白井の腕を掴むとエレベーターに飛び込んだ。六階までの距離が、ひどく長く感じられた。  部屋のドアには「塚越」という表札が貼ってあった。住居のほうは隠すつもりはなかったらしい。  チャイムボタンを押すと、すぐにドアが開いて、母親が顔を覗《のぞ》かせた。 「あ、これは先生……」  母親は白井と浅見の顔を交互に見て、目を丸くした。 「ちょうどよかった。お母さんにお話をお聞きしたいことがあるのです。お邪魔してよろしいでしょうか?」  白井を押し退《の》けて、浅見が言った。 「はあ、それは構いませんけど……ちょっとお客さんがみえてまして……」  母親は背後を気にした。三和土《たたき》の上に母親の靴のほかに紳士靴が二足、こっち向きに並んでいる。玄関を入ると、短い廊下のすぐ向こうにリビングルームがあるのか、半開きのドアの隙間から「客」の背中が見えた。こっちの話が筒抜けで、客も玄関の様子が気になったのか、立ち上がって、玄関へ出てきた。若いのと中年と——その中年のほうの顔を見て、浅見も白井も「あっ」と言った。 「あっ、あんたら、東京シャンハイボーイズの……」  お線香の匂いと一緒に現れたのは、水口警察署の江間部長刑事と、たぶんその部下らしい男であった。     3  塚越綾子の住まいは彼女の几帳面な性格そのままに、きちんと片づいた、こざっぱりした部屋であった。間仕切りの奥の、たぶん寝室らしい部屋からお線香の煙が流れ出ているところをみると、そこに彼女の遺骨が安置されているのかもしれない。  白井と浅見は、綾子の母親にあらためて悔やみを言い、何か手伝うことがあれば言いつけてくれるように言った。こういう展開になるとは予測していなかっただけに、刑事に不審に思われないためにも、来訪の意味をはっきり見せつけておく必要がある。  母親は「ご丁寧さまなことで」と恐縮するばかりで、べつにお手をわずらわすようなこともございません。明日、いったん北海道に戻りまして、またあらためて後片付けに参りますので、そのさいにご挨拶に伺わせていただきます——といった趣旨のことを、くどくどした口調で述べた。  そう広くもないリビングとダイニング兼用の部屋のダイニングテーブルを挟んで、浅見と白井、それに江間部長刑事と山根という若い刑事の四人が向かいあいに座り、綾子の母親は扱い慣れない手つきで湯を沸かし、お茶を入れてくれた。 「どうも、あまり会いたくない相手とぶつかりましたな」  江間はのっけから、ズケッと正直なことを言った。 「それは僕のほうで言う科白《せりふ》です。刑事さんと会いたい人間なんて、あまりいませんからね」  浅見も負けずにジョークを言った。 「こっちは仕事やからね、塚越さんのお母さんと一緒に来て、朝からいままでかかって娘さんの住居《すまい》を調べさせてもろたのです」 「何か収穫はありましたか?」 「まあ、何とも言えませんな」 「塚越さんの交友関係はどうなのでしょう。たとえば恋人とかですね」 「おったとしても、あんた方に言うわけにはいかんでしょうが。それよか、そういうことは白井さんに訊いたほうが早いんとちがいますか」 「いや、刑事さんにも言ったと思いますが、彼はまるっきり知らないそうですよ。もっとも、僕も刑事さんと同様、白井が塚越さんの相手ではないかと邪推していましたが」 「おい、変なことを言うなよ」  白井が肘《ひじ》で浅見の脇腹をつついて、綾子の母親のほうを目顔で示した。母親はテーブルから少し離れたところに椅子を置いて、ちょこんと心もとなげに座っている。 「どうなんでしょう。長屋さんの事件も含めて、何か捜査のめどはつきましたか?」  浅見は刑事がいやがることを訊いた。 「さて、われわれは失礼しますかな」  案の定、江間部長刑事は質問に答える代わりに部下を促して、立ち上がった。 「じゃあ、僕たちも一緒に行きますよ」  浅見が言うと、江間は迷惑そうに顔をしかめて、「いや、われわれは予定がありますからな。それより、あんたらはいま少しいて、お母さんを慰めて上げたらよろしい」と、逃げるように立ち去った。 「あの様子だと、捜査はまるっきり進展していないな」  二人の捜査官がドアの向こうに消えるのを待って、浅見は言った。  綾子の母親がテーブルに戻って来ると、浅見は「お疲れになったでしょう」と気遣いを言い、そのついでのように、訊いた。 「綾子さんは、北海道を出て東京の短大を卒業して、たしか会計事務所にお勤めになったのでしたね?」 「は? いいえ、違いますけど……」  母親はキョトンとした目をして、「お勤めしたのは建設関係の会社です」と言った。  瞬間、浅見は心臓に痛みを感じた。白井も同じ想いだったのだろう、「えっ、建設会社ですか?」と、母親のほうがびっくりするような声を上げた。 「というと、喬栄建設ですか?」  浅見は努めて平静を装って、訊いた。 「あ、ご存じでしたか。はい、そういう名前でした。銀座に本社がある、大きな会社だと手紙に書いてありました」 「そうですね、喬栄建設はいい会社です。そうだよな?」  白井が硬直したような顔をしているので、浅見は水を向けてやった。 「ん? ああ、そう、たしかに……」  白井はしどろもどろに言って、額から吹き出た汗を手の甲で拭った。 「その喬栄建設から東京シャンハイボーイズに転職したわけですが、綾子さんは何か、転職の理由みたいなことをおっしゃってましたか?」 「いいええ、それがぜんぜん何も言わなかったのです。手紙にも何も……そしたら、さっき刑事さんに聞いたら、七年も昔に勤めを変わったとおっしゃるもんで、なんでいい会社を辞めて……あ、いえ、先生の劇団も立派なところですけど……」  母親は慌てて言い足してから、当惑げに黙ってしまった。 「失礼なことをお訊きしますが、綾子さんは仕送りはどうだったのでしょうか?」  浅見は、綾子への仕送り——という意味で訊いたのだが、逆の答えが返ってきた。 「はい、親孝行な子で、毎月きちんきちんと五万円ずつ送ってくれておりましたです。東京は物価も高いし、大変だからいいというのに、心配ねえからと……」  母親は言いながら涙を流した。浅見もすぐにもらい泣きの涙が滲み出た。どうも、こういうのには弱いが、感傷を払い除けて質問をつづけた。 「結婚に関してはどうだったのでしょうか?」 「はい、それがいちばん心配でしたけど、あの子は自分で相手を見つけるからと言って、いっさい口出しは断っておりました。ただ、最後にもらった手紙には、もしかすると、近いうちに結婚するようになっかもしんねえと書いてあったのです」 「なるほど。その相手の人が誰なのか、お母さんはご存じないのですね?」 「はい、知りません。それは綾子の嘘かも分かんねえと思っております。そうでなければ、綾子がああいうことになったのに、駆けつけてもくれねえのはおかしいのではないでしょうか」 「おっしゃるとおりですね」  浅見は母親の説に頷《うなず》いたが、「相手」が現れないのには別の理由のあることも考えられないわけではない。かりに結婚を前提に付き合っていたとしても、殺人事件に巻き込まれるのは、誰だって、あまり嬉しいことではないのだ。 「そのことは、さっきの刑事さんも知っていますね?」 「はい、お話しましたです」 「それで、刑事さんはここの管理人さんなんかに、いろいろ聞いて回ったはずですが、それらしい人物がいたようなことは、言ってませんでしたか?」 「それは……」と、母親は言っていいものかどうか、しばらく逡巡《しゆんじゆん》してから、思いきったように言った。 「はっきりそうだとはおっしゃらねかったのですが、何となくそういう人がおったような感じがしました」 「ほう、それはまた、どうしてそう思われたのでしょうか?」 「刑事さんがあそこの書類入れの中の手紙を調べていましたけど、同じ名前の男の人の手紙が五、六通ありまして、それで、この人に心当たりはあるかと訊かれましたもんで」 「その手紙、押収して行きましたか?」 「はい、みんな持って行かれました」  浅見は舌打ちしたい気持ちだったが、警察より先にこの部屋に入るチャンスがなかったのだから、やむをえない。 「その男の人の名前ですが、憶えておいでですか?」 「はい……あの、でも、言ってもいいのでしょうか?」 「それは構いませんよ。いずれ分かることなのですから」 「でしたら申しますけど、八木沢さんという名前でした。八木沢修さんです」  万一「喬木」と言われたらどうしよう——と緊張しきっていた浅見は、白井とほっとした顔を見合わせて、「知ってる名前かい?」と訊いた。 「いや」と、白井は首を振った。 「うちの劇団の関係者ではないな」  母親に住所を見たかどうかを訊いたが、見たことは見たけれど、刑事がすぐにしまったので憶えていないということだ。いずれにしても、その男のことは警察に任せるほかはない。  浅見と白井はそれからまもなく、気の毒な母親に別れを告げて、塚越綾子の部屋を出た。エレベーターの中でも、建物を出てからも、二人ともずっと押し黙ったまま、ソアラに乗った。  綾子が喬栄建設に勤めていたことと、その事実を伏せて東京シャンハイボーイズに転職したこと、そして彼女の転職とほぼ同じ時期に、喬栄建設の喬木社長が東京シャンハイボーイズに接近し、有力なスポンサーになったこと、これらのあいだに何の関連もないなどということは絶対にありえない。 「どういうことなんだ……」  車が動きだすと、白井は堪えきれなくなったように、呟いた。 「単純に考えれば、塚越綾子さんは喬木氏のスパイとして東京シャンハイボーイズに送り込まれたのだろうね」  浅見は言った。 「したがって、彼女の収入の大半は、喬栄建設かあるいは喬木氏のポケットマネーから出ていたということになる。それなら、安月給でも仕送りができたことの説明はつく」 「そう、そうだよな。喬木さんにしてみれば、大金を出すのだから、うちの内情がどうなっているのか心配だったろうしな。事業家としては当然の配慮というべきだよな」  白井は自分に言い聞かせるように言い、うんうんと頷いた。 「しかし、そうまでして、なぜ東京シャンハイボーイズに肩入れしなければならなかったのか、その説明はつかないね」  浅見は冷やかな口調で言った。 「あの人が芝居好きだったわけではないのは、ただの一度きりしか公演を観に行ってないことで明らかなのだろう。かといって、利潤目的でないことも確かだ。いったい、何が喬木氏を動かしていたのだろうかねえ?」 「…………」  白井は不安そうに浅見の横顔を窺った。 「一つだけ、ちょっと気掛かりなことはあるのだ」  浅見はチラッと白井に視線を送ってから、言った。 「喬木氏と小宮山佳鈴さんとの関係なんだがね。いや、佳鈴さん本人とパトロンのような関係でないことは分かったよ。そうではなく、喬木氏と小宮山家の関係がどういうものなのか、それが気になっている」 「喬木氏と小宮山家の関係?……何か関係があるのか?」 「分からないから気になるんじゃないか。そもそも、小宮山佳鈴さんの家というのはどういう家なんだ?」 「おれだって詳しいことは知らないにひとしいけどさ。おやじさんは銀行員だとか聞いたことがある」 「銀行員か……銀行家ではないんだろうね。ただの銀行員じゃ、それほど金持ちとは考えられないけど、銀行家なら話はべつだ」 「銀行家ということは、つまり経営者という意味かい? まさか、そんなことはないと思うよ。だいたい、銀行の経営者の娘が、うちの劇団なんかに来るものか」 「それは言えてるな。さながら、掃き溜めに鶴だ」  浅見は笑いながら言ったが、白井はニコリともしなかった。  白井を自宅まで送って、浅見はようやく帰宅した。白井が「めしでも食わないか」と言ったが、断った。その判断は正しくて、帰宅すると、須美子が待ってましたとばかりに出迎えて、いきなり「電話がいっぱい入ってますよ」と言った。 「坊ちゃまの欠点は、ちっとも連絡して下さらないところです。いくら申し上げてもお直しにならないんですもの……」  恨みがましい目で叱られて、浅見は急いで電話に向かった。 「電話は藤田さんからだろ?」  数字をプッシュしながら訊いた。 「ええ、編集長さんからも三回ありましたけど、小宮山さんとおっしゃる女の方からも二回です。こちらからお電話いたしましょうかってお訊きしたら、結構ですっておっしゃって……」  話の途中で藤田が出たので、浅見は「もしもし」と声を張り上げた。  クレームかと思ったら、意外にも藤田は上機嫌で「浅見ちゃん、いいじゃないの、最高だよ」と言った。 「来月号が皇太子のご成婚特集だから、その前の号の目玉としてピッタリだよ。時あたかも斎宮の館跡が発掘されたというニュースもあるしね。天皇家の神秘のヴェールいま開く——みたいなキャッチフレーズでいこうと思ってる」  それが言いたいばっかりに、何回も電話してきたのだそうだ。ばかばかしい、昨日や今日、編集を始めたわけじゃあるまいし——と思ったが、「そう言ってもらえると、僕も張り合いがあります」と、浅見は一応、感激しておいた。  小宮山佳鈴からの電話は、それからほぼ一時間後に入った。  ちょうど、浅見家の夕食がすんで、一家|団欒《だんらん》のひとときであった。浅見の兄で、この家の主であるところの警察庁刑事局長ドノを除く全員の顔が揃っていた。 「坊ちゃま、小宮山さまからお電話です」  須美子が宣言するように言い、母親の雪江未亡人以下、兄嫁とその息子と娘——の目が注がれる中で、浅見は受話器を握った。     4  小宮山佳鈴は明らかに緊張ぎみの声をしていた。 「いま、公衆電話からかけているんです」 「公衆電話?……」 「ええ、ちょっと、家ではかけにくいものですから」 「なるほど」  佳鈴の緊張が伝わってくる分、浅見の期待は膨らんだ。 「それで、電話ではあれですから、もし差し支えなければ、出掛けてきていただけませんか?」 「これからですか? 僕のほうはいいですけど」 「だったら、代官山のマールという喫茶店で九時にお会いできますか?」 「分かりました、行きます」  受話器を置いて振り返ると、甥と姪以外の視線はあらぬ方角を向いていた。それでかえって、浅見家の人間の、電話の相手に対する関心がなみなみならぬものであることが、よく分かった。  九時少し前にマールへ行くと、佳鈴はすでに来ていた。テーブルの上のコーヒーカップは空になっている。服装はロケ先と同じようなものなのだが、こうして薄暗いライトの中で見る佳鈴は、ガラリと印象の違う「都会の女」であった。近い席でこっちを見ていた若い男が、浅見の出現にがっかりした表情を浮かべた。  渋谷や代官山には、あまり馴染みはないのだが、マールは高級感あふれる静かな店だ。お客は入っているのだが、テーブルとテーブルの間隔はたっぷりとってあるから、隣の会話が気になることはない。 「とても変なんです」と、佳鈴は浅見がコーヒーを注文するのを待ちかねたように、テーブルの上に乗り出すようにして、話を切り出した。 「母に訊いたら、何も知らないって言うんです。『そういえばあの縁談、どうなっちゃったの?』って、反対に訊かれました」 「ほう……そうすると、長屋さん側のことを調べたのは、お母さんのご意思じゃなかったということですか?」 「ええ、そうみたいです。母は私の結婚のことに関してはまったく干渉しない主義なんです。結婚ばかりでなくて、学校のことだって芝居のことだって、ほとんど口出ししませんでしたからね」 「お父さんはどうなのですか?」 「父は母の言うなり。おとなしいっていうより、本当のおとななのかなあ。昔でいうと華族のお坊ちゃまで、母はそういうのに憧れて結婚したらしいんですけどね。母も浮世ばなれしてますけど、父はもっと徹底してるんです。世の移り変わりなんかには、まったく無頓着。家がお金に困っていようと、母がどんな難題をぶつけようと、泰然自若っていう感じなんです。子供のころは、そういう父が歯がゆくて仕方がなかったけれど、いまはむしろ大物に見えてきちゃいました」 「なるほど。それじゃ、お父さんでもないとすると、ほかに誰かいますか?」 「ぜんぜん思い当たらないんです。ただ、ひょっとしたら、祖父の関係かな——とは思うのですけど」 「お祖父さん?」 「ええ、母の父です。でも、祖父は五年前に亡くなりましたから、確かめようがありませんけどね」 「そうですか、亡くなられたのですか」 「とてもいい祖父で、私をいちばん愛してくれたのは、もしかすると祖父かもしれません。両親の放任主義を祖父が一人でカバーしていたって言ってもいいくらい。父の父——小宮山家の祖父も優しかったけど、いつも『夏岡のじいさんにはかなわん。何しろ土産の単価がケタ違いだからな』って、こぼしていました」 「夏岡さんとおっしゃるのですか」 「ええ、夏岡総一郎といって、母方の祖父です。小宮山の祖父はいわゆる斜陽の華族で、気位ばかり高くて、どうしようもない貧乏でしたから、そりゃ、お土産で勝負なんかできませんよ。こっちだって、愛情はお金じゃないって思うんですけど、でも、やっぱり子供は正直だから、戴いたときの反応を比較すると、喜びの度合いに差があったのでしょうね。いまになってみると悪いことをしたって思います」 「小宮山家のお祖父さんはご健在なのですか?」 「いいえ、祖父は私の成人式の直前に亡くなりました。無理してお振り袖をプレゼントしてくださって……」  あとの言葉がつづかず、佳鈴は慌てて目頭を押さえ、顔を伏せた。 「どうやら、夏岡さんのお祖父さんが、長屋さんを調べたようですね」  浅見は気づかないふりをして、言った。佳鈴もすぐに立ち直った。 「でも、祖父はそのころもう八十歳近かったと思いますけど」 「いや、もちろん、お祖父さんご本人が調査するわけじゃありませんよ。どこか調査会社を使うとか、誰かに頼むとか……」  言いながら、浅見はふと喬木正隆の顔を思い浮かべた。 (そうか、喬木かもしれない——)  その着想は急速に膨らんだ。 (佳鈴の祖父と喬木とには親しい関係がある——)  もしそうだとすれば、喬木が佳鈴の後見役として、東京シャンハイボーイズを援助したり、塚越綾子を送り込んだりした理由も説明がつく。  しかし、それにしても、なぜ喬木は佳鈴へのバックアップを隠さなければならないのだろう?——  いや、かりにそうして欲しいというのが、佳鈴の祖父の意向だったとしても、祖父が亡くなった後も援助を継続し、それどころか二億円という巨額な金を出資したりする理由が分からない。佳鈴の祖父と喬木とのあいだに、よほど強い結びつきがあったとしか考えられなかった。 「どうかなさいました?」  浅見が黙りこくってしまったので、佳鈴は心配そうに訊いた。 「あ、いや……そうですね、誰かに調査を依頼したとしても、肝心のお祖父さんが亡くなられたのでは、確かめようがないですね。それに、長屋さんもいないのだし」 「あの……」と、佳鈴は言いにくそうに口ごもりながら言った。 「またこんなことを言って、気を悪くされるかもしれませんけど、私と長屋さんのこと、どうして調べ直さなければならないんですか? 今度の事件と何か繋がりがあるのかしら? 少なくとも、私はほんとに事件とは無関係ですよ」 「もちろんです。そんなことはぜんぜん疑っていません。じつは、いまはあなたにこういうお願いをしたこと自体、後悔しているくらいです。不愉快な想いをおかけしたとしたら謝ります」  浅見は頭を下げた。 「あら、そんな、違うんです。不愉快だなんて思っていません。ただ、六年間、何の疑問も感じていなかったこと……つまり、どうして長屋さんにふられたのか、その理由に、私の知らない裏があるような気配がしてきて、驚いているのです。正直なところ、あのことがあったおかげで、私の人生、変わったのじゃないかしらって、そう思うんです」 「ほう……人生、変わった、ですか」 「長屋さんにふられた時、平気みたいな顔をしてましたけど、内心はザックリ、重傷でしたもの。だから、それ以来というもの、男性不信ていうか、男性に対して自信が持てなくて、こりゃもう、一生結婚出来そうもないって、なかば諦めて……」  佳鈴はニコッと笑って、「おかしいでしょう」と言った。 「いえ」と浅見は首を横に振った。 「おかしいどころか、身にしみますよ。白井だってそうでしょう。いや、やつには立派な戦歴があるから納得できるけど、僕なんか、重傷も負わないくせに、まったく自信喪失してますからね」 「あらっ、浅見さんはあれでしょう、重傷を負わせっぱなしのほうじゃなかったんですか?」 「ははは、からかわないでください。もっとも、もしかすると、気がつかないうちに、重傷はともかく軽傷や掠《かす》り傷ぐらいは負わせているのかもしれませんけどね。しかし、それは僕のほうも同じ、満身|創痍《そうい》です。所詮、男と女なんて、どっちか片方だけ傷つくっていうことではないんじゃないかな……なんて、偉そうな口をきけた柄ではないけど」 「満身創痍かァ……浅見さんも歴戦の強者《つわもの》なんですね」 「えっ、いや、うそですよ。そういう意味じゃないですよ」 「あは……浅見さんて、かわいいですね」  佳鈴は上目遣いにこっちを見て、十分な演技力を伴った、蠱惑《こわく》的な瞳をキラッと光らせた。 「参ったなあ……」  大いに照れながら、浅見はしかし、今夜の「会談」がこういう形で締めくくられることに、ほっとするものを感じていた。小宮山佳鈴に「調査」を頼んだのはいいけれど、彼女の古傷をつつく結果になってしまうのは本意ではない。  まして、喬木と佳鈴の繋がりが、おぼろげながら怪しい背景を思わせながら見えてくるという、想像もしていなかった展開である。もはやこれ以上、佳鈴を巻き込むことは許されるべきではなかった。 「白井は相当参ってましたが、どうやらロケのスケジュールを立て直したようですよ」  浅見はすっきりと話題を変えた。 「あ、ほんとですか? よかった」 「小宮山さんも忙しくなるのでしょう?」 「ええ、明日は朝いちばんで緑山スタジオです。連ドラが始まるんです。劇団のためにも、少しよそで稼がないと」 「たくましいですねえ。白井が聞いたら、感涙にむせびますよ」 「さあ、どうかしら? ボスは鈍いですからね。当たり前だぐらいにしか思ってないかもしれません」 「うーん、それは言えてるなあ。僕が貸した金のことだって、ぜんぜん忘れちまっているんだから」 「あはは、そういえば、浅見さんもかつての被害者でしたっけ。でも、それには東京シャンハイボーイズの一員である私も、恩恵に浴している一人なんだから、ボスのために弁護しなければいけないんだわ」 「あ、そうか、そうすると、僕は本当は偉いのですね」  笑い声が静寂を侵害したことに気づいて、二人は肩をすくめあった。  時計を見ると、いつの間にか十時を過ぎていた。 「いやあ,久しぶりに楽しかったなあ」  浅見は心の底から言った。 「しかし、考えてみると、小宮山さんはどんどんスターになってゆく人ですねえ。こんなふうに会えたのが、きっといい思い出になってしまうんだろうなあ」 「いやです、そんな悲しいことおっしゃらないで。ようやく知り合ったばかりなのに」  佳鈴は真顔で言って、真顔のまま席を立った。  第八章 破局の真相     1  その夜、浅見が帰宅して、さて風呂にでも入るか——と思った時、白井から電話が入った。「ちょっと出てきてくれないか」と言っている。 「おいおい、たったいま帰ってきたところだよ」 「そうか、それは気の毒だが、もっと気の毒な人間がいるんだ」 「誰だいそれは? まさか白井のことじゃないだろうな」 「いや、おれよりも気の毒だな。ほら、綾子の彼だよ」 「えっ? というと、八木沢とかいう手紙の男か?」 「そうだ。きみに助けてもらいたいと言っている」 「そこにいるのか?」 「ああ、おれの自宅にかくまっている」  かくまっているというのはおかしいが、だいたいの状況は察しがついた。浅見は「分かった、すぐ行く」と電話を切った。 「坊ちゃま、またお出かけですか? もう真夜中ですよ」  背後から須美子の非難する声がした。浅見のためのバスタオルを用意していた。 「うん、急病人が出たんだ。面倒を見てやらなきゃならない。おふくろさんにはよろしく言っておいてくれ」 「だんな様に訊かれたら、何て言えばいいんですか?」 「兄さんには……そうだね、デートに行ったとでも言っておいてよ」 「あの、それ、嘘なのでしょう?」 「ん? ああ、嘘に決まってるじゃない」 「じゃあ、行ってらっしゃいませ」  須美子に快く送り出されて、浅見は深夜の街にソアラを走らせた。  白井のマンションはちゃんとした2DKなのだが、ひと部屋分は本とガラクタで満パイの状態だ。ほかも乱雑そのもので、足の踏み場もない。  十畳の部屋の真ん中に電気ゴタツのふとんのないのが置かれ、上板にワープロが載っている。それが台本書きのデスクであり、食事用のテーブルでもある。テーブルの脇にはカップラーメンのカップが転がったままになっていた。  そのテーブルをコの字型に囲んで、床に胡坐《あぐら》をかいて、浅見と八木沢が向き合った。白井はワープロと向き合う恰好で司会者然としている。  八木沢修が、想像していたのよりはるかに若い男だったことに、浅見は拍子抜けした。年齢を訊くと、二十三歳になったばかりだという。殺された塚越綾子は三十歳。そうしてみると、リードしていたのは、むしろ綾子のほうだったのか。見るからに神経質そうな痩せ型で、顔だちは芥川竜之介と中原中也に似ている。いまどき流行《はや》らない文学青年タイプだが、そういう風貌を綾子は愛したのかもしれない。  実際、八木沢は大学を出てアルバイターをしながら小説を書いているのだそうだ。推理小説を書いて自費出版するのが夢だという。そうやって成功して、ベストセラー作家になった例があるのだという。その運のいい男のことは浅見も知っているけれど、誰もが成功するとはかぎらないだろう。  そう言うと、八木沢はむきになって、「僕の作品を読んで、綾子は必ず成功するって、保証してくれたんです」と強弁した。 「小説が書き上がったら、自費出版の費用を出してくれるって言ってたんです。もうちょっとで、僕は作家デビューするところだったんですよね」 「そうですか、それはすごい。で、どういうことになっているのですか?」  浅見は逆らわずに、話の本題に入った。 「このままだと、彼は殺人犯人にされちまうって言ってるんだ」  白井が言った。 「なるほど、あの二人の刑事が事情聴取に行ったわけか」 「いや、自宅近くに刑事らしい男がいたもんで、帰るに帰れなかったそうだ」 「どうもよく分からないが、たしか白井は八木沢さんを知らないと言っていたのじゃなかったか? あれは嘘か?」 「いや知らなかったよ。しかし彼は綾子から聞いて、おれのことも、ここの住所も知っていたのだ。それで、なんとか綾子のアパートに入って、手紙を取り戻さないと、犯人にされちゃうと思って、おれを訪ねて来た」 「ああ、それは、時すでに遅しです」  浅見は八木沢に苦笑して見せた。 「そうだそうですね」  八木沢は泣きそうな顔で、コクンコクンと頷いた。 「刑事が持ち去った手紙には、あなたが犯人であると疑われそうな内容が書かれているのですか?」 「ええ、最初のころのはそうでもないのですが、後のほうの二通には、もしこの愛が裏切られたら、僕はあなたを殺して自殺する——みたいなことを書いたんです。いえ、もちろん本気じゃありませんよ。本気じゃないけど、本気らしく書いたんです。文章に迫力がありますからね、刑事なんかだと、信じちゃうだろうなあ……」 「うーん、それじゃ殺人の容疑をかけられても仕方がないですねえ、少なくとも動機は十分にあると思うでしょう。となると、問題はアリバイですが、綾子さんが殺された時、あなたはどこにいたのですか?」 「自宅にいました」 「自宅はどこですか?」 「世田谷区の代田橋です」 「それじゃアリバイは成立するじゃないですか」 「それが、証明できないのです」 「しかし、東京から滋賀県土山町の現場まではどうやって行ったって往復十二、三時間はかかりますよ」 「いえ、そんなにはかかりません。新幹線や車を巧妙に利用すれば、十時間以内で往復が可能です。つまりですね……」 「分かりました」  浅見は本格推理マニアのトリック遊びには興味はない。 「まあ、とにかく十時間でもいいですが、その間のアリバイがまったく証明できないのですか? たとえば、隣人とか訪問者とか、そういう人はいないのですか?」 「訪問者はありました。それも、午後七時と八時と九時と十時と十一時と……」 「何なのです、それは?」 「ローンの借金取りです」 「なんだ、それだったら、ぜんぜん問題ないじゃないですか」 「いえ、それがですね、僕は居留守を使ったのです。電気を消して、息を殺して……連中の波状攻撃には慣れていますからね。つまり、自宅のほうの不在証明は完璧なのです」 「ばかばかしい……」  さすがの浅見も、八木沢の得意そうな顔を見て、開いた口が塞がらない。 「そういうわけでね浅見よ、彼にきみの名探偵ぶりを話して、何かいい知恵がないか、相談してみろと言ったのだ。力になってやってくれないか」  白井が口添えをしたが、浅見はまるでその気が起きない。 「これはねえ八木沢さん、やっぱり警察に自首しなさいよ」 「えーっ、なんてことを……」 「ははは、自首は冗談ですが、出頭したほうがいいです。だいたい、動機があってアリバイがない程度のことじゃ、有罪になる心配はめったにありませんからね。ためしに警察へ行ってみたらどうですか。事情聴取や尋問を受け、場合によっては留置場に入れてもらったり、うまくすれば殴る蹴るの拷問も体験できるかもしれない。あなたの対応しだいでは、起訴されて、拘置所送りから裁判所へと、ふつうじゃやりたくてもできない実地学習も可能です。最悪でも、まさか死刑になることはないでしょう」  早口で言うだけ言うと、浅見は立ち上がった。八木沢は目をパチパチさせて、浅見の顔を見上げた。  玄関を出る浅見を白井が追ってきて、階段の踊り場のところで、腕を掴んだ。 「おい浅見、何を怒ってるんだか知らないけどさ、もうちょっと親身になって相談に乗ってやってもいいんじゃないか?」 「どうしてさ。あんな薄情な男は、いちどひどい目に遭ったほうがいいんだ。そうじゃないか。塚越綾子さんが殺されたというのに、彼は現地に飛んで遺体と対面することもしなかったんだよ。推理作家志望だか何だか知らないが、ナルシシズムもはなはだしい手紙にほだされて、あの男を愛して、自費出版の費用まで出してくれるという、塚越さんの好意に対して、自分のことだけ考えて逃げ回っているなんて、僕は許せないよ」 「なるほど……それもそうだな」  白井は浅見の腕を放した。 「よし分かった。おれもあの野郎に自首しろって言ってやるよ。だけど浅見は、よほど推理作家が嫌いらしいな。何か恨みでもあるのか?」 「ああ、ないこともない。だいたい、他人様の不幸を小説に書いて、メシの種にしようなんていうのが、気にくわない。それじゃ、またな」  浅見は手を上げると、振り返らずに、大股で歩いた。疲れているせいか、ひどく怒りっぽくなっている自分に気づいていた。  その夜は泥のように眠った。  わけの分からない夢をいくつも見た。  斎王の乗る輿《こし》が暗い野道をユラユラとやってくる。やってくるのだが、担ぎ手の姿は見えない。輿だけが空中に浮いているのだろうけれど、べつに違和感はない。  輿の中を覗くと、死んだインコが横たわっていた。死んでいるくせに、目だけが動く。黒いつぶらな目だ。  背後で「そんなふうに見つめないで」と佳鈴の声がして、振り向くと須美子が笑って、「編集長さんからお電話です」と言った。  何がなんだか分からない映画だ——と思ったら、とつぜん、輿がはげしく揺れ、ドンドンと輿の屋根が音を立てる。壊れるじゃないか——と気が気ではないが、ドンドン、ドンドンと……。  目が覚めたら、ドアがノックされ、「坊ちゃま、編集長さんからお電話ですよ」と須美子が呼んでいた。  藤田からの電話は、ゲラが出たからファックスで送るというものだった。いつもなら会社に呼びつけるのに、よほど原稿が気に入ったとみえて、やけにノリまくっている。それにしたって、くだらない用件で叩きおこしやがって——と時計を見たら、とっくに十時を回っていた。  浅見は喬栄建設に電話をして、交換手に喬木社長さんを——と頼んだ。 「お約束でしょうか?」 「いえ、約束はありませんが、浅見から電話だとお伝え下されば分かります」  本当にこれで通じるかどうか、自信はなかったが、電話は繋がった。 「浅見です、名古屋のホテルでは、たいへんご馳走になりました」 「ああ、いや、どういたしまして。何かご用ですかな?」 「じつは、小宮山さんのことで、ちょっとお話があるのです」 「小宮山さん?……というと、小宮山佳鈴さんのことですかな?」 「はい、そうです」 「しかし、そのことは一昨日、名古屋でお話したでしょう。あれ以外のことは何も分かりませんよ」 「いえ、今回は佳鈴さんご本人のことでなく、佳鈴さんのお祖父さん——夏岡総一郎氏のことをお聞きしたいのです」 「夏岡……」  一瞬、喬木は絶句した——と浅見は思った。明らかに浅見の言った言葉は、ピンポイントを衝《つ》いたにちがいない。浅見には、口の奥から肺にかけての不随意筋がこわばり、心臓の鼓動が聞こえるほど高まっている、喬木のいまの状態が手に取るように分かった。それは浅見自身の状態でもあった。渓流の底に潜むイワナの主を探っている釣り竿に、思いきりガツンと手応えがあったときのショックに似ている。 「どういうことですかな」と、喬木はゆったりした口調で言った。 「私は所用があって、出掛けなければならんのですが」 「それでは、ご都合のいい時間を教えてください」 「いや、都合といっても、なかなか……それに、そういう話をあなたとしても、あまり意味のないことでしょう」 「しかし、話し相手としては、警察よりも僕のほうがましだと思いますが」 「警察?……ほほう、何やらきな臭いことを言われますな」 「すみません、脅すようなことを言いまして。しかし、殺された塚越綾子さんが、かつて喬栄建設の社員で、喬木さんが東京シャンハイボーイズに援助を行なうようになるのと、ほぼ前後して転職したことや、安月給で南青山のマンションに暮らし、北海道の実家に毎月五万円の仕送りまでできた不思議な現象を知れば、警察だって無関心ではいられないと思うのですが」 「…………」  長い沈黙があった。  浅見はじっと待った。淵の底の巨大イワナとの対決を連想した。テキの首のひと振りで、張り詰めた糸は釣り竿ごとはじき飛ばされるかもしれない。 「あなたが何を言いたいのか……」  喬木は言いかけて、痰《たん》がつまったのか、咳払いをしてから、言葉を繋いだ。 「とにかく、いちど会いますか。恐縮だが、正午ちょうどにうちの社に来てください。受付に言っておきます。では」  喬木は一方的に言って、こっちの了解を待たずに、電話を切った。  正午に来いと言うところを見ると、また食事を誘われるにちがいない。今回は奢《おご》られるわけにいかない。コーヒーぐらいは付き合うが、物欲しそうに腹がグーグー鳴ったりしては醜態である。  浅見は須美子に無理を言って、朝だか昼だか分からない食事をすると、家を出た。     2  西銀座の喬栄建設本社ビルは、そう大きくはないがいかにも土木建設会社らしいがっちりした感じの建物だ。  一階の受付で「浅見」と名乗ると、少し待たせて、エレベーターから喬木が現れた。周囲にいる社員や受付の二人の女性が丁寧に挨拶を送っている。オーナー社長の風格が感じられた。 「少し歩きますが、外へ出ましょう」  喬木は言うと、さっさとドアに向かった。こっちの意向などお構いなしだ。  歳の割には大股で足の運びも速い。かといって、せかせかした歩き方には見えない。テニスかゴルフか、それとも山歩きで鍛えた脚かもしれない。  電通通りの一つか二つ裏手のビルに入り、階段を下りた。「八百善」という小さな看板が出ていた。階段を下りきったところの自動ドアを入ると、いきなり料亭の趣きに設《しつら》えられた別世界であった。笹藪《ささやぶ》を配した中庭を、敷石伝いに茶室風の離家《はなれや》に上がる——といった趣向である。  仲居さんが「お待ち申し上げておりました」と出迎えて、床の間も違い棚もある八畳の部屋に案内してくれた。喬木と浅見は、春慶塗の座卓を挟んで座った。 「どうです、ちょっとしたものでしょう」 「はあ、ビルの中にこれほどのものがあるとは、驚きです。しかし喬木さん、僕は食事をすませてきました」  浅見は口をへの字に結んで、ひと粒の飯たりとも口にしない決意を表明した。 「おやおや……」  喬木は目を丸くして言った。 「浅見さんらしくもない、それはあなた、失礼というものですぞ。正午にお誘いするというのは、食事を前提にしたものです。たとえ気に染まぬ相手であっても、お受けになった以上はお付き合いするのがエチケットではありませんかな?」  これには浅見も参った。 「おっしゃるとおりです。すみません」 「ははは、いや、私のほうも勝手に決めさせてもらったようなものだから、偉そうなことは言えたものではない。まあ、箸をつけるだけでも、付き合ってください。お若いのだから、まだ入るでしょう。それとも、どうしても盗泉の水は飲めませんかな?」 「いえ、頂戴します」  八百善は江戸期からつづく江戸前の京風懐石料理の店なのだそうだ。「江戸前の」というのが、浅見にはよく分からないが、京都の料理とでは、味付けや盛り付けなどに微妙な違いがあるらしい。  仲居さんが、何度にも分けて一品ずつ料理を運んでくる。昼の膳ということで、軽めのコースということだが、もちろん、浅見には多すぎるボリュームだった。  喬木はビールの小瓶を取って、手酌で飲んでいた。 「塚越綾子さんのことを、いろいろおっしゃっておられましたな」  仲居さんが引っ込んでいるあいだに、喬木は口を開いた。 「つまり浅見さんは、塚越さんの事件に、私が関係している——あるいは、私が犯人ではないかとお疑いなのですかな?」 「ええ、僕はそう思っています。あなたの地位や力からいえば、誰か、別の人物に犯行を依頼することも考えられますが、それはかえってリスクを増幅させるばかりですから、僕はあなたが直接手を下した人物だと信じています」 「ははは、大した自信ですな。しかし、塚越綾子さんが殺されたのは深夜のことだったのではありませんか?」 「そうです。僕と佳鈴さんや他のスタッフの何人かが彼女の悲鳴を聞いたのは、午後十一時五十七分でした」 「その時刻なら、私は名古屋のホテルにいましたよ」 「アリバイですか」 「まあ、そういうことになりますな」 「立証できますか?」 「もちろん。ちょうどその時刻——いや、正確にいえば少し前ということになるが、私はバーにいましてね、十一時三十分がクローズだったから、三十二、三分ごろ、チェックして部屋に戻りました。ボーイかレジが記憶しているでしょうし、伝票にサインしてますからな、疑問の余地はないでしょう」  喬木がでたらめを言っているとは思えなかった。絶対の自信を持った顔で、鯛の刺し身を口に運んでいる。  対照的に、浅見は自信と一緒に食欲までも完全に失った。  名古屋のホテルから土山のかもしか荘までは、車でおよそ二時間の距離である。死体の状況から死亡推定時刻を割り出す場合には、一時間程度の誤差を見込むことも可能だが、それでもアリバイは成立する。ましてあの場合は、悲鳴を聞いた午後十一時五十七分という時刻は動かないのだ。  それから後、浅見は何を食ったのか、何を話したのか、上の空であった。  話の中で、塚越綾子が前歴を伏せて東京シャンハイボーイズに転職した経緯について、喬木は自分の裁量でやったことを認めた。 「浅見さんはたぶん、佳鈴さんからお聞きになったのだと思うが、たしかに、彼女の母方の祖父である夏岡総一郎氏に頼まれ、佳鈴さんをひそかにバックアップすると同時に、東京シャンハイボーイズという、頼りない劇団の経理を健全なものにする目的で、塚越綾子さんを送り込んだのは事実です。なにぶん、夏岡さんはわが社にとっては大恩人でありますからな。私としては全力を尽くす義務がある。ただし、これは佳鈴さんには黙っていていただきたい。アイドルタレントではない佳鈴さんが、遅まきながら、いままさにスターになろうとしている、大切な時期です。こういうごたごたでその芽を摘んでしまうことのないように、お願いするばかりです」  喬木はテーブルに両手をついて、深々とお辞儀をした。それに対して浅見も慌てて座り直して、礼を返したが、喬木の話にどう受け答えしたのか、そういった細部については、はっきり憶えていない。  八百善の前で喬木と別れて、デパートの駐車場に突っ込んでおいたソアラに乗り、街を走った。四月にしてはやけに眩しい太陽だった。  皇居のお堀端を迂回して、青山通りを渋谷へ向かう。べつに目的はないが、何となく代官山のマールに近い、小宮山家の前を通ってみたかった。  代官山から南平台にかけて、広壮な邸宅街である。小宮山家もその一つで、明るいカーキ色の瓦屋根《かわらやね》を載せたベージュの塀の上に、椎の木が枝葉を繁らせ、その隙間から南欧風の建物が覗いている。  そこから坂を下り、山手線の恵比寿駅からくる駒沢通りを右へ行く。環状6号を渡ると目黒区である。夏岡家まではそう遠くなかった。やはり静かな邸宅街で、その中でも夏岡家はひときわいかめしく、大きな建物だ。  ここからほど近いところに、皇太子妃になられる女性の家があるのを、浅見は思い出した。皇太子が強く望まれた魅力的なお妃候補を、宮内庁は三代まで遡《さかのぼ》って身元調査をしたとマスコミが報じていた。わが浅見家でそんなことをされたらどうなのだろう。まあ浅見本人はいいけれど、この先、甥や姪の縁談に差し障りが出るだろうな——叔父に出来の悪いのが一人いて、定職にもつかず、探偵ごっこにうつつを抜かし、いつまでも居候《いそうろう》のままでいて、嫁の来手もなかった、などと、報告書には書かれるのだろうなと、浅見は忸怩《じくじ》たるものがあった。  その連想から、長屋明正と小宮山佳鈴の縁談のことが頭に浮かんだ。  長屋の事件のことは、なんだかずいぶん昔のことのように、頭の中で薄れていたが、じつは塚越綾子の事件より、ほんの数日前の出来事なのだ。 (そうか——)と、浅見は、喬木が長屋と佳鈴の縁談を破談にした人物だった可能性のあることを、あらためて思った。そのことと、長屋の事件との関係はどうなのだろう? 長屋がいともあっさりと佳鈴を諦めたのは、なぜなのだろう?  皇太子でさえ、六年もの歳月、たった一人の女性への愛をじっと温めて、待ちつづけられたというのに——。  そういえば、長屋が佳鈴にプロポーズしたのも六年前だ。まったくの偶然とはいえ、それを思うと、長屋の愛情のはかなさは、いっそう浮き彫りになる。  それとも、長屋の身元・素行調査の結果がひどいものだったのだろうか。たとえば、親戚に浅見みたいな不肖の叔父がいたとか。  ひょっとすると喬木の強力な妨害にあって、挫折せざるをえなかったのか?  妨害されたくらいで諦めるとも思えないから、買収されたことも考えられる。  いや、その「出来事」のあと、長屋が東京シャンハイボーイズを辞め、郷里に引き上げたくらいだから、長屋にとっては、もっとシリアスなショックがあったと考えるべきだろう。だとすると、いったい何があったのだろう?  次から次へと、さまざまな思惟《しい》が乱れ出て、疑惑とも好奇心ともいえるものが、浅見の内部でぐんぐん大きくなっていった。  帰宅するのを待っていたように、白井からの電話が入った。八木沢修がどうやら警察に出頭したらしい。ちょうど白井の事務所に江間たち二人の刑事がやって来るのに合わせて、八木沢も待機していたそうだ。 「あの刑事は獲物があったもんで、八木沢を連れて、喜び勇んで帰って行ったよ」  いまごろは、新幹線で熱海辺りを走っているだろうということだ。 「あいつ、大丈夫かな?」  白井は心配そうな声を出した。一夜の宿を貸しただけで、赤の他人とは思えなくなっているのだろう。金銭感覚はだらしがないが、まったくいいやつだ。 「ははは、警察もそんなに馬鹿じゃないからね。たぶん一週間もすれば、無罪放免ということになるよ」 「そうかな……しかし、警察と冤罪《えんざい》はつきものみたいなものだろう」 「ひどいことを言うなよ。かりにもうちの兄は警察庁刑事局長ドノだぜ」 「あ、悪い悪い、浅見のところはべつだ」 「ははは、なに、警察一体というから、所詮はひとつ穴のムジナさ。とはいえ、そんなに気になるのなら、僕が行って、見て来てやってもいいよ」 「ほんとか? いやあ、そうしてくれるとありがたいなあ。しかし、浅見も忙しいのに、すまないなあ」 「いいんだ。僕も自首を勧めた手前、無関心ではいられないからね」  多少、恩着せがましく言ったが、そのことがなくても、浅見はとっくに土山へ行くつもりになっていた。  翌朝、浅見は夜明け前に家を出た。須美子が眠そうな顔で、「またお出かけなんですか?」と、玄関先まで出て見送った。     3  名古屋から東名阪自動車道で亀山まではよく晴れていた。関町を過ぎるころから雲行きが怪しくなり、鈴鹿峠の坂を登りつめ、トンネルを越えたら雨になっていた。まさに「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」を証明したような天気であった。  長屋家はしとしと雨に濡れて、ひっそりと静まりかえっていた。町の中をゆく旧東海道には人の姿はなく、長屋家の広々とした屋敷も、まるで廃屋のように人の気配が感じられない。しかし、車を門内に乗り入れて停めると、玄関から長屋の母親が顔を出した。 「あ、このあいだの……」 「浅見です。先日はどうも」  浅見は雨の中を走りながら挨拶をした。母親は素直に歓迎していいものかどうか迷う表情をしながら、それでも反射的に、客のために格子戸を大きく開けた。  浅見は仏間に入り、長屋の霊にお線香を上げて、長いこと手を合わせた。母親は浅見の後ろにうずくまるように座っている。 「息子さんのことを考えると、さぞかし無念だったろうと、悲しくなります」  浅見は仏壇に向かったまま、言った。 「ありがとうございます。そうおっしゃってくださると、あの子もさぞかし喜ぶことやと思います」 「残されたわれわれは、息子さんの代わりに犯人を捕まえて、無念を晴らす義務があるのです」 「…………」  客の気張った言い方に対してどう応じればいいのか、母親が当惑している気配を、浅見は背中で感じていた。 「この前お邪魔した時、息子さんと小宮山佳鈴さんのことをお話ししましたね」 「はあ……」 「じつは、長屋さんは小宮山さんと、いわば相思相愛の間柄だったのですが、なぜか、最後の段階で、プロポーズをした長屋さんの側から小宮山さんに断りを言って、破談になったのだそうです」 「えっ、それは違うんやありませんか?」  長屋の母親は、息子の正当性を主張するような強い口調で言った。 「私が聞いたんは、小宮山さんのほうから、断ってきたいう話でしたけど」 「ああ、それは敬三さんからお聞きになったのですね?」 「はい、そうです」 「その断りの理由は何だったのですか?」 「…………」  母親は沈黙した。それだけは言えない何かがあることを、その沈黙は物語っている。  浅見は彼女が義弟の敬三から何事かを囁かれた時に浮かべた、驚きの表情を思い出しながら、母親に向き直った。 「小宮山家が長屋さんとの縁談を断ってきたというのは、たぶん事実だと思います。しかし、息子さんが小宮山佳鈴さんに断りを言ったこともまた事実なのです。その時の理由はただひと言、『愛情がなくなった——』だったそうですよ」 「まあ、あほなことを言うてから……断ってきたのは先方やいうのに……」 「そのとおりです。しかし長屋さんが佳鈴さんに断りを言ったのも事実なのです。佳鈴さんにしてみれば、ずいぶん残酷なことを言う——と思ったでしょう。事情を知らない人々もそう思い、長屋さんの仕打ちを怒ったにちがいありません」 「そうですがな。明正が断ったなんて……もし、それがほんまやったら……どういうことですの、それ?」 「長屋さんは、自分だけが悪者になることによって、ほかの人たちを傷つけないように配慮したのでしょうね。じつに男らしい立派な行為でした」 「そうやったのですか……」  母親は茫然と宙の一点を見つめ、それから顔を伏せ、目頭を押さえた。 「そうまでして長屋さんがその秘密を守ろうとした、破談の本当の理由はいったい何だったのですか? いったい、小宮山家側は何が気に入らなくて、長屋さんのプロポーズを断ったのですか? そのことについて敬三さんは何て説明したのですか?」 「それは……」  母親は躊躇《ためら》ったあげく、言った。 「もうあの子もおらんようになってしもうたのですから、隠しておく必要もない、思いますけど……じつは、明正は、私ら夫婦のほんまの子やないのです。小宮山さんのところからは、それを理由にして断ってきたいうことでした」 「えっ、そうだったのですか……」 「はい、私も先日、敬三さんの口から聞くまでは、ちっとも知らんかったのですけど」  まったく予想していなかった事態だ。破談の理由は、長屋の素行に問題があったわけでもなく、まして、親戚に不出来な叔父がいたわけでもなかったのだ。 「しかし……それは、ひどいですねえ……たとえご両親がじつの親でなくても、長屋さんの価値そのものには、変わりはないはずなのに……」  慰めにもならないと分かっていながら、浅見は愚痴のようなことを言った。 「いえいえ、そういうもんやありません。それは先方さんのお考えやから、どないされようと構いまへんのです。けど、それよりも、私は明正がかわいそうで……あの子はそんなこと——私らがほんまの親やないなどということは、二十八になるその年まで、ちっとも思ってなかったのです。それを敬三さんの口から知らされて、縁談を諦めるよう言い含められて。さぞつらかったろう、思いますけどなあ……それでも明正は、私にはそのことは黙っとってて、恨みごとも何も言わんと。おまけに、いまお聞きしたら、相手のお嬢さんにも、愛情がなくなったと、それだけ言うて別れたいうのでしょう……ほんま、健気で、かわいそうやわ……」  とぎれとぎれに言う、そのとぎれたところで、母親はとめどなく涙を流した。浅見も長屋のつらい気持ちを想いやって、目頭を熱くした。  だが、その感動の中で、浅見はふと、(しかし——)と思った。 (しかし、それだけで長屋は小宮山佳鈴への愛を、諦めてしまったのか?——)  両親がじつの親ではないというのは、たしかに長屋にとってはショッキングな事実だったかもしれない。それを楯に破談を申し入れてきたという、小宮山家側の論理も分からないではない。  しかし、それはそれとして、本人同士の愛情はどうなるのだ?  長屋が佳鈴を愛していたことも事実だし、佳鈴が長屋を愛していたことも事実だ。長屋の「出生の秘密」を知った時、はたして佳鈴の愛はどう変質するのか——その佳鈴の気持ちを確かめることもしないで、長屋がいともあっさりと撤退してしまったのは、潔《いさぎよ》いというよりも、あまりにも不甲斐なさすぎるのではないか?  そう思った時、浅見はマールでの佳鈴の話を思い出した。  佳鈴の父親も母親も、彼女の縁談のことについては、まったく関与していなかった——と佳鈴は言っていた。  まして、破談に至った経緯や、交渉の使者が誰だったかなど、知っているはずもない。 「たぶん祖父じゃないかしら?」というのが佳鈴の推測であり、母方の祖父夏岡総一郎の意向を受けて交渉に赴いたのは喬木正隆ではないか——というのは、浅見の憶測である。 「六年前、破談の申し入れをしに来た小宮山家側の人とは、お母さんはお会いになったのですか?」  浅見は訊いてみた。 「いいえ、敬三さんが一人でお相手をしとったようです」 「そうでしたか……。こちらに見えた使者はたぶん、喬木さんという人だと思うのですが、あるいは夏岡さんという人かどちらかだと……」 「夏岡……さん?……」  とつぜん、長屋の母親は全身を硬直させた。窪んだ両の眼が大きく見開かれ、浅見を——というより、浅見の顔を突き抜けた、どこか遠いところを睨《にら》んでいた。 「ご存じなのですか? 夏岡さんを……」 「は?……いえ……いえ……」  母親は狼狽のあまり失った言葉を探し求めるように、オロオロとあらぬ方角に視線を彷徨《さまよ》わせている。  その母親と同じ程度に、じつは浅見も驚いていた。「夏岡」という名前がこれほどの効果をもたらすとは——。 「夏岡さんとは、どういう?……」 「あ、あの、ちょっと頭が痛くなりましたので、休ませてください。どうぞ、あの、失礼いたします」  母親はヨロヨロと立ち上がった。浅見が思わず手を差し延べるほど、危なげに見えたが、彼女はその手を払い除けて、襖《ふすま》を開け、奥の部屋へ消えた。  残された浅見は茫然とした。 (いまのあれは何なのだ?——)  とにかく、長屋の母親の狼狽ぶりを見るかぎり、彼女が夏岡という名前に心当たりがあることは間違いなさそうだ。  たしかに「夏岡」は比較的めずらしい名前である。しかし、だからといって、その名前を聞いただけで、まるでドラキュラに出会ったような驚きを示すというのは、よほどのことがなければならない。 (何があったのだ?——)  仏壇の長屋の写真は白い歯を見せて笑っている。誰か仲間と一緒に撮ったスナップの、彼の部分だけを切り取って、引き伸ばしたものらしい。人生のいちばん楽しい部分を切り取ったような、明るい笑顔だ。とつぜんの死の訪れも、その後の騒ぎも、何も予測していない無心の笑顔である。  浅見はかなり長いこと、仏壇の前に座っていたが、やがてノロノロと動きだして、空き巣が退散するようにこっそり長屋家を抜け出した。     4  どこへ行くというあてもないような走り方で、浅見のソアラは、役場の横の道を登って行った。  あいの土山文化ホールの文化財調査委員会を訪ねると、望田も久米美佐子も在室していた。望田は浅見を見て、露骨に顔をしかめて、それでも口先だけは「さあ、どうぞ」と言った。  久米美佐子も、お茶を入れてくれたものの、表情は能面のように硬い。  歓迎ムードとはほど遠いけれど、熱いお茶を口に含むと、長屋家ですっかり湿りきった精神に、活を入れられたように、ようやく元気が湧いてきた。 「東京へ帰られたとばかり思っとったのですが。まだいてはったのですか」  望田はお茶を啜りながら、皮肉に聞こえるような言い方をした。 「いちど帰って、たったいま、こちらにお邪魔したところです」 「ほう、すると、ロケ隊も一緒ですか?」 「いえ、今日は僕一人で来ました。少し事件のことを調べたいと思いまして」 「事件のこと?……」 「あれから、いろいろなことが分かってきたのです」 「そのようですなあ。ちらっと噂にききましたが、昨日、東京から容疑者が連行されてきたとかいう話です」 「ええ、八木沢という青年です。警察はその気になっていますが、彼は犯人ではありませんよ」 「えっ、浅見さんはそんなことまで知ってはるのですか?」 「はあ、たまたま接触する機会があったものですから。じつは、今回やって来たのは、彼の無実を晴らして、留置場から救い出す目的もあるのです」 「ほう、そうなのですか……」  望田は、いったいこの男はどういう?——という疑惑に満ちた目で浅見を見つめた。それは久米美佐子も同様だ。ただし、彼女の場合には、それに少し、好意的な意味合いが込められている。「無実の青年を救い出す」という言葉が、若い女性の優しい心の琴線に、心地よくひびかないはずはない。 「このあいだ、名古屋のホテルで、喬栄建設の喬木社長にご馳走になりました」  浅見は本論を切り出した。 「喬木社長と望田さんとは、学生時代に同じ下宿だったそうですが、ずいぶん親しくされていたのですか?」 「そうですな。まあ、親しくしとったことはたしかやが、彼のほうは、まだ大学におるころ、金持ちの家の住み込み秘書みたいに、うまいこと就職しおったもんで、卒業する前の年ぐらいからはべつべつでした。私のほうが、卒業後も一年間、滋賀県の教職員採用のアキを待っているあいだ、下宿生活を余儀なくされとったのと、えらいちがいですな」  望田は昔を思い出して、懐かしい目になっている。 「いまから三十五、六年前のあのころは、ほんま、就職難でしてなあ、私のような才能のない者は、教師になるくらいしか行き場がなかったもんです。そこへゆくと、三浦のやつは目端がきいて、仕事も人生もとんとん拍子。おまけに女性にももてて、まったく羨ましかった」 「あの、三浦とおっしゃいましたが?」  浅見は不審に思って、訊いた。 「あっ、三浦いうのは喬木の旧姓です。彼は大学を出るとまもなく、喬栄建設の創設者である喬木家の養子になったのですよ。まったく抜け目のない男やった」 「ああ、そうすると、秘書をしていたのは、喬木家だったのですね?」 「いや、それはまた違うのやが……じつは、それについては、あほらしい話がありましてね。住み込み秘書のアルバイトには、本来は私がなるはずやったのです。この町の出身の人がその家の会社に勤めとって、その人の紹介で私が決まっとったのを、どういうことやったのか忘れたが、たまたま三浦を連れて行ったのが運のつき。先方はたぶん、気のきかん私より、サービス精神旺盛な三浦のほうがええと思うたのでしょう、秘書には三浦を採用してしもうたのです」 「ひどいですねえ。まるでトンビに油揚げをさらわれたような話じゃありませんか」 「ははは、まったくひどい話やが、必ずしも彼の責任やないので、文句も言えんのです。どういうわけか、いつもそういうめぐり合わせになる。どうも世の中、運のいいやつと悪いやつとがおるもんですなあ。喬木家に婿入りしたのも、その秘書をやっとった家の紹介ですからね。まったく、運がいいとしか言いようがないです」 「しかし、そうすると、喬木さんの幸運は、元をただせば望田さんのお陰ということになりますね。つまり、喬木さんにとって望田さんは大恩人……」 「ははは、そんな大袈裟なもんやありませんけどね」  望田が楽しそうに笑っているが、浅見の脳裏では、「大恩人」というキーワードから連想が走っていた。 「ひょっとすると、喬木さんが秘書をやっていた家というのは、夏岡家ではありませんか?」 「ん?……ああ、そのとおりやが……よう分かりましたな。浅見さんは夏岡さんをご存じやったのですか?」  望田の表情に、驚きと同時に警戒の影が射した。 「そうだったのですか、喬木さんは夏岡さんのお宅にいたのですか……」  浅見は強烈なショックをかろうじて抑え、さり気ない笑顔を装った。その笑顔の裏側——薄い皮膚と肉と頭蓋骨を隔てた脳の内部では、ありとあらゆる細胞が猛烈なスピードで情報を伝達しあい、いろいろなファクターを演算していた。 「さっき、長屋さんのお宅にお邪魔してきたところです」  浅見はゆっくりと喋った。急に三十歳も老成して、世の中の何もかもが分かってしまったような気分であった。 「三十五、六年前、望田さんを夏岡家に紹介した人というのは、長屋さんのお父さんだったのですね?」 「は? ああ、そう、そうです……」  望田は、何か重大な過ちをおかしたのではないか——と、自分に問いかける目を、あらぬ方角に向けて言った。 「……そのころ、甲東木材は長屋明正君のお祖父さんの時代でしてね、その息子さんの長屋信弘さんいう人が、夏岡家の経営しとった東京江東区の木場にある材木会社に、修業も兼ねて勤めておったのです。信弘さんいうのは、小学校から中学、高校まで二年先輩で、私が東京の大学へ行っておるころには、何かとお世話になったもんです」  まるで歴史の授業でもするように、望田は一語一語、間違いがないか確かめながら喋っている。 「そして、信弘さんは東京で富子さんと結婚して、生まれたばかりの明正さんを連れて、郷里に戻られたのですね」 「そういうことですな」 「ひょっとすると、その当時、甲東木材は経営的に苦境に立たされていて、信弘さんが戻られてから、立ち直ったのではありませんか?」 「ん? ああ、たしかにおっしゃるとおりのようだが……しかし、浅見さん、そんなことがよう分かりますなあ」 「ええ、クロスワードパズルというのは、一つの言葉を発見すると、鎖の輪のように、消えていた言葉が次々に見えてくるでしょう。あれみたいなものです」 「はあ、クロスワードパズルですか……よう分からんが……そういうものですかなあ……久米さんなら分かるかもしれんが」  望田の困惑した視線を受けて、久米美佐子はさらに当惑げに首を振った。  浅見は冷えたお茶を、最後の一滴まで啜ってから、立ち上がった。 「あ、そうそう、もう一つお訊きしたいのですが、長屋さんのお母さん、富子さんは、土山の人ではないのですね?」 「ああ、あの人は違います。大阪の泉南のほうの出身やなかったかな。それが何か?」 「いえ、ちょっと言葉のイントネーションが違うような気がしたものですから。そうすると、ご夫妻が知り合ったきっかけは、どういうことだったのですかねえ。富子さんもやっぱり、夏岡さんの木材会社に勤めていらっしゃったのですか?」 「いや、奥さんのほうは、夏岡家でお手伝いさんをしてはったのですよ。よう働くかわいい女性で、私ら学生が行くと、握り飯を作ってくれはったもんです」  望田の目に、若い日々を思い出す懐かしい光が宿った。三十数年前、彼は青春真っ只中にいたのだ。貧乏学生の目に、明るくて優しいお手伝いの女性が、どれほど美しいものに映ったことだろう。浅見はふと、わが家の須美子を思って、望田のノスタルジーに共感を覚えた。 「夏岡家のお嬢さんとはお会いにならなかったのですか?」  浅見はごくさり気なく言ったのだが、望田は痺《しび》れた足を叩かれたように、ギクッと居住まいを正した。 「あ、いや、そうやね……そういえばお嬢さんとはあまりお会いすることはなかったですな。まあ、大きな屋敷やさかい、めったに顔を見ることもなかったし……」 「その点、喬木さん——いや、当時はまだ三浦さんでしたか。あの方は住み込み秘書だったのですから、しょっちゅう会えたのでしょうねえ」 「さあ、それはどないですかなあ……大きな屋敷やし、格式のうるさい家やったし……なかなかねえ……」 「しかし、学生たちにとっては、令嬢は憧れ的存在だったのでしょう?」 「まあ、それはそうやが……」  望田はハンカチを出して、額に滲み出た汗を拭った。 「いいですねえ、お若いころのそういう話。またいつかゆっくり聞かせていただきたいものです」  浅見は晴々とした笑顔を見せて、「どうもお邪魔しました。ご馳走になりました」と、丁寧にお辞儀をした。  第九章 因果はめぐる     1  甲東木材の倉庫前は、木材の荷下ろし作業で活気を呈していた。長屋敬三社長みずから大声を張り上げて指示を与えている。五十歳代なかばかという年のはずだが、精悍《せいかん》な風貌といい、大柄な体躯といい、若い連中を睥睨《へいげい》するようにエネルギッシュだ。 「お忙しそうですね」  仕事のきりのいいところを見極めて、浅見が声をかけると、敬三は猪首をひねって振り向いた。 「ああ、あんたか。そうやなあ、皇太子殿下のご成婚ムードのお陰で、ようやく景気が戻ってきてくれた」  嬉しそうに言って、それから、忘れていた不愉快なことを思い出したように、ガラッと表情を変えて歩み寄った。 「そや、あんた、さっき義姉のところへ行っとったそうやな」 「ええ、お邪魔しました」 「何やらまた余計なことを言うたんとちがうかいな。電話ではよう分からんかったが、何やらおろおろしとったで」  日焼けした逞しい顔を突きつけるようにして、言った。 「さあ、余計なことかどうかは分かりませんが。富子さんからはいろいろ、参考になるお話をお聞きしました」 「参考って、義姉の話を聞いて、何の参考にしよう言うんや?」 「たとえば、昔、御古址《おこし》で死んだ、賽銭《さいせん》泥棒のことだとか」 「なにっ?……」  敬三はグルッと周囲を見回した。トラックの運転手や事務所の男たちが数人、作業の後片付けにとりかかっている。その一人に敬三は「おい、サトシ」と声をかけた。大柄で敬三とよく似た面差しの青年が「はい」と振り向いた。 「あと、頼むで」  敬三は言い、「はい」と礼儀正しく答えた青年に顎《あご》をしゃくって、「長男や、常務をしよる」と照れたように言った。しかし、柔和な父親の顔は一瞬のことで、すぐにきびしい表情に戻った。 「ちょっと、あんた、ここではなんやから、中に入ってくれんか」  ポケットから出した手を建物の方に向け、先に立って歩きだした。  一階のオフィスは、空席のままになっている正面の明正専務のデスクをはじめ、ほかのデスクもすべて、あの事件の前と変わっていない。男性社員は荷下ろしの作業や営業で出払っているのか、女性事務員ばかり三人が立ち上がって、見かけない客にお辞儀を送って寄越した。 「お茶はいらんよって、しばらく誰も上がって来んように」  そう言い置いて、敬三は階段を上がった。二階は廊下と物入れ以外はほとんどが社長室らしく、ドアを開けるとびっくりするほど広い。社長の大きなデスクの前にも応接セットはあるけれど、敬三はその右手のドアを開け、さらに奥の応接室に入った。  正面に、台湾土産らしい石の彫刻など、あまり趣味のよくない調度品を載せた飾り戸棚がある。敬三はそれを背にして、革張りのアームチェアに座り、浅見には向かいあうソファーを勧めた。 「御古址の賽銭泥棒がどないしたって?」  せかせかした手つきで煙草に火をつけながら、上目遣いに浅見を見て、言った。 「三十四年前の四月九日の夜、御古址の鳥居に打たれて死んだ、野元末治さんの事件ですが、たしか、賽銭泥棒をしていて、御古址の祟りで死んだという噂でしたね」 「ああ、そんなこともあったなあ。ずいぶん古いことやが、あんたが生まれる前の話とちがうかね?」 「ええ、僕が生まれる一年前のことです。ちょうど、いまの天皇皇后両陛下のご成婚前夜のことですね」 「そう、そうやったな……」  敬三は一瞬、当時をしのぶように目を細めたが、すぐに眉をひそめて言った。 「そんな古い話を持ち出して、それがどないしたというんや?」 「野元さんがなぜ死んだのか、そのことをもういちど、あらためて考えてみたのです」 「そんなもん、あらためて考えんかて、鳥居のてっぺんが落ちてきて、下敷きになったんやないか」 「ええ、しかし、何もしないで鳥居が壊れるわけはないのですから、きっと野元さんは鳥居にはげしくぶつかって、その拍子に鳥居の上端部分が落ちたのでしょうね。問題はなぜ鳥居にぶつかったのか——です」 「ほう、なぜやね?」 「残念ながら、僕はまだこの世に存在していなかったので、現場の様子がまったく分かりません。ですから、誰かと争って、鳥居に激突したのかどうか、その相手が誰なのか、推測する以外、方法はありません」 「ははは、そりゃまあ、そういうこっちゃなあ」 「しかし、社長さん、あなたなら知っているはずです」  浅見は長屋敬三に指を向けて言った。その指から逃れるように、敬三はほとんど反射的に、体を右に傾けた。 「えっ、わしが? 何でやね、何でわしが知っているのかね?」 「いえ、知っている可能性があると言い直してもいいです。少なくともあなたは当時、すでにおとなでしたし、御古址から近いこの地におられたのですからね」 「ふん、そんなもん、ここにおったからいうて、何で知っていることになるんや?」  敬三の冷笑を無視して、浅見は抑揚のない口調で言った。 「その前の日、東京からあなたのお兄さん夫婦が帰郷しました。生まれたばかりの明正さんを抱いて、です。そうでしたね?」 「ん? ああ、そうや、それがどないしたというんや?」 「明正さんは信弘さんと富子さん夫婦の本当の子ではなかった。ある人の不倫の子として、この世に生まれた。そうして、その男の子の出生の秘密は、永遠に守られなければならなかったのですね。いかがですか?」 「なんやて?……」  敬三の顔いっぱいに、驚きの波紋が広がった。 「当時、長屋家と甲東木材は危機的状況にあった。あなたのお父さんが社長だった時代です。憶えておいでですね?」 「…………」  何か反論しかけた形で口を半開きにしたまま、敬三は沈黙し、地獄を見た日々のことを思い出したのか、顔をしかめた。 「その危機と破滅から長屋家と甲東木材を救うために、莫大な資金提供を交換条件として、お兄さんご夫婦は他人の嬰児《えいじ》をわが子として育てることになった。事実、それを契機に甲東木材は息を吹き返しましたね」 「そうか……」と、敬三はようやく声を出した。 「あんた、義姉からその話を聞いてきたいうわけか。たしかに、そういう事実はあったかもしれん。けどな、それは大昔のことや、誰にかて、どこの家にかて、つらい苦しい時期はあるものやろ。それをいちいち引っ繰り返して、どないするんや」 「ええ、そのこと自体を問題にするつもりはありません。ただ、話をそこから始めないとすべての謎が解けないのです」 「謎? 謎とは何やね?」 「まあ聞いてください。おいおいご説明しますよ。ところで、一般的に言って、嬰児を違法に譲り受けた場合——ことに、交換条件のある場合には、後にトラブルが発生したときに備えるために、出生の秘密の証拠となる物を受け取るのは、ごく常識的な配慮といえます。たとえば、親御さんの身分や氏名を証明するものだとか、臍《へそ》の緒……」 「もうええ。それがどないしたっていうのかね?」  敬三はうんざりしたと言わんばかりに、手を左右に振った。 「問題はですね、そういった証拠の品を、いったいどう処理したか——です。いまなら銀行の貸金庫に保存するという手段も考えられますが、当時はそんな知識は一般的ではなかった。かといって、家の中にしまっておいたのでは、盗難や火災のおそれがある。ずいぶん悩むところなのですが、土山にはきわめてすぐれた保管場所があります。それが御古址の森だったのですね」 「ははは、そんな、あほな……」  敬三のひきつったような笑いを、浅見は完全に無視した。 「あの禁断の森なら、誰も手をつけたり掘り返したりすることはない。もし改修工事などの手が入るような場合には、町の有力者である長屋家に、まずお伺いが立てられるはずです。というわけで、証拠品は御古址の森に埋められることになったのです」 「くだらん……」 「その晩、雷鳴とどろく嵐の中で埋蔵作業が行われました。あなたと、あなたのお兄さん——信弘さんが真っ暗な御古址で、稲光を頼りに穴を掘ったのです」 「あはは、なんや、安っぽい推理小説みたいな話やな」 「そうでしょうか。僕はデュマの『モンテクリスト伯』の、嬰児を生き埋めにした話を連想しました。人間の本能には、何かを捨てたいとか、何かを隠したいとかいった場合、土に埋めようとする行為がインプットされているのではないかと思ったのです。たとえば、垂水頓宮の斎王が人形代を川に流さずに土に埋めたのは、都に対する執着や愛する人への絶ちがたい想いを、この世にとどめておきたい気持ちの表れのような気がするのです」  冷やかな笑いを浮かべている敬三の表情に、浅見の口から「斎王」と「人形代」の単語が出た時だけ、稲妻のような脅《おび》えの色が走った。その反応は、明らかに、埋蔵作業の際、人形代を掘り当てたことを物語っている——と浅見は思った。 「もしその時、何事も起こらなければ、御古址の祟りもなかったのかもしれません。もっとも、何かが起こったそのこと自体が、御古址の祟りだったのかもしれませんが」 「ええかげんにせんかね。祟りやなどと、愚にもつかんことを……」 「そうでしょうか。本当にそう思いますか? あれは祟りではなかったのでしょうか? 稲妻の中に野元末治さんの顔が現れ、『何をしているんや』と穴の中を覗き込み、人形代の盗掘を目撃したのは、あれは祟りではなかったのですか? あなたとお兄さんのどちらかが、野元末治さんと押し合いになり、そのはずみで御古址の鳥居が崩れ落ちたのは、あれは祟りではなかったのでしょうか?」  敬三の顔面から血の気が失せた。 「やめんかい。やめろ……」  敬三は両手を目の前に広げ、絞り出すような声で言った。  浅見は言われるままに口を結んだ。敬三はしばらく気息を整え、大きく頷いて見せてから、「よう分かった」と言った。 「あんたの話は、話としては大いにおもろいかもしれんが、いまはそんな作り話を聞いている時間はないんや。この後、約束があるのでな、その話はまたいつか聞かせてもらうことにして、今日のところは帰ってくれや」  わざとらしく手帳を見ながら、立ち上がった。 「いつかとおっしゃいますと、いつごろのことですか?」  浅見は座ったまま敬三を見上げて、のんびりした口調で言った。 「ん? そりゃ、いつか言うたらいつかですがな。いずれまた、次の機会に……」 「それは残念ですね。僕は今夜ひと晩で東京に帰ります。次にお目にかかる機会があるのかないのか……かりにあるとしても、その前に警察の方と会うことになるので、事態は変わっているでしょう」 「警察?……そんな昔の事件、いまごろ警察に言ったかて、相手にもしてくれんやろ」 「ええ、おっしゃるとおり、昔の事件はとっくに時効です。まあ、真相が明らかになったとしても、道義的責任や名誉の問題だけで片がつきます」 「そうやろ。それやったら……」 「しかし、あの三十四年前の事件はすべての事件の発端に過ぎませんよ。それから何があったのか……この話に対しては、警察も相手にしてくれるどころか、かなりの興味を示すのではないでしょうか? いかがです?」 「そんなもん、あんた……」  この厄介な相手にどう対処すればよいのか、判断がつきかねて、敬三は口ごもったまま返答に窮している。  浅見はゆっくりと立ち上がった。 「さて、それではお忙しそうなので失礼します。僕は今夜、かもしか荘に泊まります。午後十時が就寝時間ですので、もしご連絡をいただくのでしたら、そのことを考慮してください」  応接室を出て、社長室を抜け、廊下に出た。敬三は社長室のドアまで送って、浅見が階段を下りるのを見届けてから、急いでドアを閉めた。  浅見は階段の下で自分の歳の数だけ数えてから、静かに階段を上がった。社長室の中から、電話の声が聞こえる。浅見はしばらく聞き耳を立ててから、足音をひびかせ、ドアをノックした。 「誰や?」  敬三の質問に答える代わりに、浅見は無造作にドアを開けて、「応接室に帽子を忘れました」と言うと、さっさと社長室を通り抜けた。しかし、応接室から出てきたときは手ぶらだった。 「どうも勘違いでした。帽子は車に置いてきたみたいです」  笑顔でお辞儀をしたが、敬三は送話口を覆って、通りすぎる浅見の横顔を、ものすごい形相で睨みつけていた。     2  長屋敬三から電話がくるかどうか、浅見はフィフティフィフティだと思っていた。電話がくるようなら安全。電話がなければ、大いに危険を覚悟する必要がある。もっとも、電話があったからといって、必ずしも安全とはかぎらない。塚越綾子の場合も、事件前にどこかの誰かに電話をしていたのだ。  いずれにしても、万一を考えて、安全策を講じておくに越したことはない。  甲東木材を出たあと、浅見は水口警察署へ八木沢修の「救出」に行った。  玄関先には、相変わらず二つの殺人事件の捜査本部の貼り紙が下がっているが、捜査員の動きは鈍く、報道関係者の姿も見えなかった。事件捜査はさっぱり進展していない様子だし、東京から連れてきた「容疑者」も、どうやら空振りに終わった雰囲気だ。  受付で江間部長刑事を呼んでもらうと、いささか疲れはてたような顔をして現れた。 「八木沢さんはどうしてますか?」  浅見はニコニコ笑いながら訊いた。 「ああ、あの人ね……」  江間はあたりを見渡すと、ふいに浅見の腕を掴んで、まるで窃盗犯を逮捕したような勢いで、一階奥の資料室のような小部屋に引き入れた。 「あんただから言うが、あの野郎、ちょっと頭、おかしいんとちがうか?」  左側頭部を指差して、しかめ面をした。 「いや、そんなことはないと思いますが、ただ、彼は推理作家志望ですからね、変わっているかもしれません」 「それやがな。推理作家いうのは、みんなおかしいのやろか」 「そう決めつけるのは差し障りがありませんか。せめて、ごく一部の——という言い方をしたほうがいいでしょう」 「それやったら、あの男はそのごく一部に入るな。言うことがいちいちけったいなんや。客観的に言って動機は十分やとか、アリバイ工作は完璧に可能やとか、てめえでてめえの首を絞めるようなことを言うとる。自供と情況証拠だけで立件できるものやったら、やつは死刑やね」 「ははは……」 「笑いごとやないで、ほんま。やつに自首を勧めたんは浅見さん、あんたやそうやな。それやったら、ひとつ、責任を取って連れて帰ってくれんか。どうせ車で来てはるんやろ? あの野郎のためになんぞ、帰りの交通費を払うのがもったいないわ」  ひどい話だが、浅見は快く八木沢の身柄を引き受けた。八木沢は顔の色つやもよく、サウナにでも入ったように元気だった。 「浅見さんが迎えに来てくれるって、白井さんから聞いていたので、安心してました。しかし刑事っていうのは頭が悪いですね。僕がいくら犯人らしく装っても、ぜんぜん気がつかないんですから。あれじゃ事件は解決しませんよ」  浅見は「ふーん、そうなの」と感心して聞いてやった。  かもしか荘には夕方着いた。塚越綾子の遺体が乗っていた御腰輿があった場所に立って、ここがそうだと教えると、さすがに八木沢もシュンとなって、殊勝に手を合わせた。しかし、晩の食事にぼたん鍋が出ると、とたんに息を吹き返し、勝手にビールを頼み、肉を追加した。  浅見は用心のためにビールは控え、八木沢にも一本だけでストップをかけておいた。  午後六時五十分、食事の最中に電話が入った。  長屋敬三のダミ声で、九時に甲東木材の社長室に来てくれ——ということだ。  八時半にかもしか荘を出た。八木沢には行く先を言わず、ちょっと付き合ってくれとだけ言った。八木沢はどこかへ飲みにでも行くつもりになってはしゃいだ。  甲東木材の建物には二階と入口辺りだけに明かりがあるほかは、昼の賑わいと対照的に暗く静まり返っていた。駐車場にはトラックが三台と乗用車が二台停まっている。  浅見は門にいちばん近い辺りに車を停め、エンジンを切った。駐車場の正面には森がある。前を向いているかぎり、暗黒と静寂の世界にいるような気分だ。  ドライブの途中で居眠りを始めた八木沢を揺すり起こした。 「しばらくここで待っていてくれない?」 「ああ、いいですよ」 「三十分以上かかるかもしれない」 「そんなに……じゃあ眠ってますよ。しばらくぶりで安い酒を飲んだせいか、眠くてしようがないんです」 「眠るのはいいが、もし四十分経って戻らなかったら、江間さんのところへ行ってくれませんか」 「江間って、あの刑事ですか? またブタ箱へ行くんですか?……え? それって、どういうこと?」 「いいから、言うとおりにしてね。頼みましたよ」  浅見は車を出ると、静かにドアを閉めて建物に向かった。  人の気配はまるで感じられない。入口のドアには鍵がかかっていなかった。浅見は構わず中に入り、指示されたとおり二階に上がり、社長室のドアを開けた。  電灯を半分だけ点《つ》けた部屋の、社長のデスクに長屋敬三がいた。 「来ましたね。正確なもんや」  時計を見て、満足そうに言って立った。 「どうぞ、そこに座ってください」  社長席の前の応接セットを示して、自分はデスクを背にする位置に座り、浅見には向かいの椅子を勧めた。 「さて、早速やが、何の話でしたかな」 「昼間の話は、野元末治さんが無惨な死に方をした——というところまでです」 「ああ、そうやったな。それをわしら兄弟のせいやとか、御古址を掘っとったとか、そういうけったいな話をしとったな。まあ、三十四年も昔のことやさかい、どんな作り話をしようと、あんたの勝手やが、妙な噂を広げよったら、名誉棄損で訴えなならんな」 「その話をよそへ行ってするつもりはありませんよ。警察だって、相手にしてくれないでしょうからね。僕が話すとしたら、それから先のこと……つい先日起きた二つの殺人事件のことについてです」 「ふん、そういえば、その昔の事件が発端やとか言うてはったな」 「そうです。野元末治さんが死に、奥さんが自殺したいたましい事件が、三十四年経ってまた二つの殺人事件につながったというのですから、因縁というのか因果というのか……ほんとうに御古址の祟りがあるのではないかという気さえしてきます」 「やめんかい。ああ、気色悪い……」  敬三は冗談めかして体を震わせたが、顔は笑っていなかった。 「何を証拠にあんた、野元の事故が今度の事件につながっとる言うんやね」 「六年前」と、浅見は重々しく言った。 「長屋明正さんが、ご自分の出生の秘密を聞かされ、それを理由に小宮山佳鈴さんとの結婚を諦めたとき、明正さんは知ってはならない事実まで知ってしまったのですね。つまり、明正さんと佳鈴さんが兄妹だということをです」 「…………」  敬三は声が出なかった。 「佳鈴さんの母親、夏岡頼子さんは、夏岡家の秘書、三浦正隆氏と愛しあった……いまから三十五年前のことです。それを知った父親の夏岡総一郎さんは、頼子さんをイギリス留学に送りだしました。戦後の成り金である夏岡氏は、名門の名が欲しかったのでしょう。頼子さんには旧華族の小宮山家とのあいだで、親同士による縁談がまとまっていたのです。そして、三浦氏は夏岡家を出され、その代わり喬木家の令嬢と結婚、喬木家の養子になります。悲劇はここから始まったのですね。イギリスに行った頼子さんは、すでにその時、三浦氏の子を宿していた。夏岡家ではその事実をひた隠しにしたまま、頼子さんはひそかに出産します」  浅見はいったん言葉を止めて、長屋敬三の反論を待った。だが、敬三は何も言わなかった。むしろ、さらにその先の浅見の話を待つ姿勢だ。そのことに浅見はふと不審なものを感じたが、それを払い除けるように、話しだした。 「生まれた子は、当時、夏岡家の会社の一つであった木材会社の従業員長屋信弘さんと、お手伝いだった富子さん夫婦が実子として育てることを条件に引き渡されます。長屋さんご夫妻の婚姻届けは、おそらく頼子さんの妊娠が分かった直後と思われる、昭和三十三年の秋ごろに提出されたはずです。その時点で長屋家と夏岡家とのあいだでは、甲東木材への融資を交換条件とする話し合いがなされていたのでしょうね。そうして、引き取られた子は『長屋明正』と命名されました。昭和三十四年四月四日が彼の生年月日です。その五日後、長屋さん親子は東京を離れ、夏岡頼子さんには『死産』と伝えられました」  傲岸《ごうがん》とさえ見える敬三が、「死産」の言葉を聞いたとき、目をつぶった。生まれながらに「死」を告げられなければならなかった赤ん坊の悲しい運命を想えば、どんなに剛毅な人間だって、平静ではいられない。 「それから長い歳月が流れ、東京の大学へ進んだ明正さんが、大学の後輩であり東京シャンハイボーイズの劇団員である小宮山佳鈴さんを愛し、結婚の約束まで交わしたというのは、もはやただの運命のいたずらなどという言葉が虚《むな》しいほど、残酷な悲劇です。それを知った時の関係者のみなさんの驚きや恐怖はどれほどのものだったでしょう」 「祟りやね……」  敬三は呻《うめ》くように言った。彼にはすでに、浅見の「仮説」を打ち砕く気持ちはなくなっているらしかった。それにしても、「祟りやね……」と言った彼の言葉に、この地に住む人々の、御古址に対する敬虔《けいけん》な想いが滲み出ているのかもしれない。 「ほんまに」と敬三は言葉を繋いだ。 「あの時、喬木さんが夏岡家の意向を伝えにやって来た時、わしは、これは祟りやと思った。明正と小宮山家の娘さんがじつの兄妹やと……こんなあほなことが現実に起きるなんて、祟りのせいとしか考えようがないもんな。わしは明正を呼び戻して、小宮山の娘さんを諦めるように説得した。いまだから言うが、おまえの両親は、おまえのほんまの親やないんや。先方はそのことを調べて、それが気に入らんいうて断ってきたんや——とな。けど、明正は承知せんかった。両親と血の繋がりがなくたって、そんなものは関係ない。結婚するんは自分と小宮山家の娘さんや——いうことを主張して、一歩も引こうとせんのや。わしは万策尽きて、ついにほんまのことを言うてしもうた。これだけは言うまいと思うとったが、じつは、おまえと小宮山家の娘さんはほんまの兄妹なんや……」  敬三は天を仰いだ。浅見は慰める言葉もなかった。  しばらくは、この恐ろしい因縁話の余韻が遠のくのを待って、二人ともじっと黙りこくっていた。 「明正はよう耐えたと思う……」  敬三はしみじみと言った。 「二十八歳とはいえ、女を好きになった時の男は、少年と一緒や。その明正が、想像もしとらんかった両親の秘密に耐え、さらに恋人との信じられん秘密に耐えなならんかったのやから、なんぼ辛かったか……それをおふくろさんにも言わんと、一人黙って耐えたんやなあ。けど、それが限度やったのやろ。その日を境に、明正は変わってしもうた。東京の劇団も辞めて、土山に戻ってきたときには、明正はまるっきり別人やった。怠け者で遊び人で、雄琴なんぞへ入り浸ってからに。もちろん仕事もせんし、ヤクザとの付き合いもあるいう噂を聞いた。こんなことしとったら、いつか何かが起こるにちがいないと心配しとったのやが、とうとう、それが現実のことになってしもうて……」  長い話に区切りがついて、敬三はほっとしたにちがいない。これで自分の役割は終わった——というように、大きく息をして椅子に深く座り直した。 「そうすると、あなたは明正さんは暴力団がらみの事件に巻き込まれて、殺されたとおっしゃりたいのですか?」  浅見は訊いた。静かな口調だが、それは、これから始まるドラマのプレリュードのようなものだ。 「まあそうやろね。警察もそのセンで追いかけてる言うとった」 「それでは、塚越綾子さんの事件との関係はどうなるのですか?」 「さあなあ。それは知らんが……あっちの事件とは関係がないのと違うか。現に、捜査本部も一応、べつべつに看板を出しとる」 「そうですね。残念ながら警察はまだ確信が持てないのですよ。二つの事件は同一の根っこから起きた事件だということに」 「ふーん……そしたら、あの女性が殺されたのも、ヤクザの仕業やったんか」 「いや、違います。明正さんと塚越綾子さんを殺したのは……」  浅見は片頬を歪めるような笑いを浮かべながら、人差し指を長屋敬三に向けて、「あなた……」と言った。 「なんやて?……」  敬三は腰を浮かせた。一瞬、度肝を抜かれたことは確かだ。それから憤怒がこみ上げてきた。 「わしが殺したんやと? 何を言うか。そらな、三十四年前の事件のことはたしかにあんたの言うとおりや。野元さんを突き飛ばしたんはわしの兄のほうやった。けどな、いま起きとる事件のことを言われて、黙っとるわけにはいかん」 「そうですよ」 「ん? 何がそうですや?」 「黙っていたら、あなたも同罪——共犯関係になるということです。しかしあなたはいまに至っても、まだ口を噤《つぐ》もうとしている。だから、僕は『あなたも共犯だ』と言おうとしたのです。いや、法的に言っても、あなたは犯人に協力していると見ていいでしょう。そういう状況にあるのですよ」 「…………」  敬三の顔に浮き出ていた怒りが、たちまちのうちに困惑に変わってゆくのが、手に取るように分かった。 「何でやね……何でわしが……あんた、犯人はいったい誰か、知っとるんかね?」 「それは、あなたの後ろにいる人物です」 「えっ?……」  思わず敬三は後ろを振り向いた。その視線の先のドアが開き、真っ暗な応接室から幽霊のように青ざめた男が現れた。     3  喬木正隆は微笑を浮かべてはいたが、顔面は蒼白だった。「こんばんは」と浅見に軽く会釈して、長屋敬三と並ぶ椅子に座った。 「私がそこにいることが、よくお分かりになりましたな」 「はあ、それは長屋社長が僕の話——とくにあなたと夏岡頼子さんとのことを話しているあいだ、じっと黙っていて、まるでその話の内容が正確かどうか、誰かに聞いてもらっているような様子だったからです。それから、駐車場の車の一台がレンタカーのナンバーでした」 「ははは、なるほど、さすがですな。たしかに、あなたが何をどの程度知っているのか、それが分かるまでは対抗措置を決めかねていたことは事実です。しかし、あなたはよく調べている。いや、中には憶測で言っておられることもあるようだが、じつに鋭く的をついておいでだ。敬服せざるをえませんな」 「では、僕の言ったことはお認めになるのですね?」 「大筋においては、です。長屋明正さんは、たしかに私の子です。つまり、小宮山佳鈴さんとは、父親の異なる兄妹の関係であることも事実です。私が佳鈴さんをバックアップすることは、夏岡氏の依頼もさることながら、私自身の義務だと思っているのです。あるいは、笑われるかもしれんが、私の愛した女性に捧げ尽くせなかった愛情を、間接的に表現しようとしているのかもしれない。それにしても、彼女が生んだ兄妹が、めぐり会い、愛しあうようになるとは……」  喬木は絶句した。その感傷に水を注《さ》すように、浅見は冷たい口調で言った。 「喬木さん、そのことはもう言い尽くしました。いま話さなければならないのは、新しい二つの事件についてです」 「ああ、そうでしたな。あなたは塚越綾子さん殺害の犯人を私だと名指しされたわけだ。そのことは東京ですでに説明がついていると思ったのだが?」 「ええ、あの時はたしかに、あなたのアリバイの説明を聞いて、僕の仮説は挫折したと思いました。しかし、ちょっとしたトリックを使えば、あの程度のアリバイ工作はわけなく可能になることに気がついたのです」 「ほう、どうするのですかな?」 「塚越さんの事件で、あなたのアリバイの根拠になるのは、次の三点にすぎません。第一に、死亡時刻が午後十一時五十七分であること——これは僕や佳鈴さんほかの東京シャンハイボーイズのメンバーが、塚越綾子さんの悲鳴を聞いていることと、司法解剖の結果によって、ほぼその時刻であると特定されています。第二に、その時刻に、喬木さんは名古屋のホテルにいたこと。第三に、名古屋のホテルとかもしか荘の現場との時間距離は、ほぼ二時間であること。以上の三点によって、喬木さんのアリバイは完璧であるかのように見えたのです」 「おっしゃるとおりですな」 「ところが、第一の死亡時刻に、僕たちは死体そのものを見てはいないのです。あの場所を犯行現場と断定したのは、単に彼女の——ものと思われる——悲鳴を聞いたにすぎないのです。実際にはあの時点では、現場に死体はなかった。犯人がなぜ苦労して、あんな御腰輿の中に死体を入れなければならなかったのか——。それを僕は怪奇趣味の演出が目的だと思っていましたが、そうではなかった。犯人は、悲鳴の録音テープをセットし、タイマーを使ってあの時刻に作動させたのですが、しかし、そうすることによって、当然、悲鳴を聞いた人々が外に飛び出して、付近を探し回る可能性がある。そこで、御腰輿の中という常識では考えられない場所に、死体を持ち込む必要があったのです。では本物の死体はどこにあったのか。いや、本当の犯行場所はどこだったのか——それは喬木さんに話していただくほうがいいでしょう」 「ほほう、私がなぜ知っていなければならないのです?」 「もちろん、それはあなたが犯人だからに決まっています。あの夜、あなたは塚越綾子さんとかもしか荘付近で落ち合い、名古屋に連れて行き、ホテルの地下駐車場か、あるいはホテル付近のどこかで殺害し、死体を車でかもしか荘まで運んだのです」 「それは大胆な断定ですな。しかし独断と偏見に満ちてはいませんか? 塚越さんは十二時ごろまでは生きていたのですよ。その間、彼女はいったいどこでどうしていたのですかな?」 「僕があなたなら、あのホテルの近くのモーテルに連れ込みますね。モーテルなら車のまま出入りができますから、顔を見られる心配がありません。あなたはいったんそこを出てホテルに戻り、十一時半過ぎまでホテルのバーで過ごし、犯行時刻直前にモーテルに戻ったのです。犯行場所がモーテルの中なのか、モーテルを出た後なのかはその場所の物理的な状況によって判断されたのでしょう」  浅見の「解説」が終わり、しばらく間を置いてから、喬木は「ははは」と笑った。乾いた、力感のない笑いであった。 「どうも、大した想像力ですなあ。八木沢さんといいましたか、その人よりむしろ、あなたのほうが推理作家に向いているのかもしれません。とはいえ、いずれも勝手な想像ばかりで、何の根拠も証拠もない、ただの作り話にすぎないのではありませんか?」 「いや、この程度のトリックは、警察が本格的に捜査を開始すれば、簡単に裏付けが可能ですよ。日本の警察はトリックの仕掛けを考えつくのは苦手ですが、仕掛けが分かった場合の裏付け捜査に関してはきわめて優秀です。もっとも、場合によっては、ありもしない仕掛けをでっち上げて、冤罪《えんざい》を引き起こす危険性もありますけどね」 「ははは、あなたはなかなかの皮肉屋だ。その上、ユーモアのセンスもある。ルポライターなんかにしておくのは、もったいないですなあ。ひとつ、わが社に入って、私の片腕になっていただけませんかな」 「そうですよ、浅見さん」  ふいに長屋敬三が沈黙を破った。必死に、すがりつくようなひたむきな口調で、「そうしたほうがいい。そうしてくださいや」と懇願した。 「残念ながら……」と、浅見は悲しそうに顔を歪め、深々と頭を下げた。 「僕にはそういうことは出来ません」 「なぜですねん? そうしたほうがあんたの将来のためにもええやないですか。なんで出来んのです? 正義のためでっか?」 「正義だなんて、そんな恰好のいいものじゃないと思いますが……強いて言えば、趣味の問題でしょうか」 「趣味?……」 「ええ、赤い服を着ればおまえをスターにしてやると言われても、白い服が趣味に合っていると思えば、絶対に赤い服は着ません。目白に行けば総理にしてやると言われても、嫌いな目白に行くくらいなら総理にならなくてもいい。そういう人間なのです」 「ははは、嫌われたものですな」  喬木は笑ったが、敬三はみるみるうちに険しい顔になった。 「浅見さん、あんた、そんなかっこええことを言うが、喬木社長さんがなぜあの女を殺さなならんかったか……いや、その前に、明正が何であんなことになったか、それを分かって言うとるのかね?」 「たぶん……」と浅見は憂鬱そうに首を振りながら、言った。 「恐喝でしょうね、原因は。喬木さんと塚越綾子さんがいつからそういう関係にあるのか、七年前に東京シャンハイボーイズに移籍させた時からのことなのかどうかは知りませんが、彼女はそういう、喬木さんのために尽くす人生に訣別して、新しい方向に向けて羽ばたこうとしていたのですね。八木沢さんという、推理作家志望で詮索好きな青年の出現は、喬木さんにとっては愉快なことではなかった。おまけに、塚越さんが、長屋さんと佳鈴さんの秘密や、ひょっとすると長屋さんの死の真相を材料に、法外な慰謝料を請求してきて、それはやがて際限のないものになってゆくであろうことも、大きな不安だった。それがたぶん、喬木さんの殺意を決定づけた動機だと思います」 「驚きましたなあ……」  喬木は敬三と顔を見合わせた。 「いや、そんなに意外なことではないでしょう。喬木さんが殺人などという馬鹿げた犯罪を犯すのに、正当——とはいえないかもしれないけれど、少なくともやむをえない理由がないはずはありませんからね。もっとも、泥棒にも一分の理というくらいですから、犯罪の多くは犯罪者本人にとっては多少の言い分があるものです。それにしても、喬木さんの場合はいくつもの不運が重なって、追い詰められた結果だとは思います。たとえば長屋明正さんを殺すことになったのもそうだったのではありませんか?」 「そのとおりですよ、浅見さん」  喬木が言った。言葉の表情に、何かがふっ切れたような、透明感が生まれた。 「じつは、明正さんから、数度にわたる恐喝を受けましてね。金銭をせびる脅迫状を、それも、人形代という、不気味な呪い人形のようなものを添えて送りつけられたのです。私はそれまで人形代というものを知らなかった。彼の手紙には、土山町の御古址から掘り出したと書いてありましてね。何か意味ありげなのだが、その意味も分からない。それで、文化財調査委員会の望田さんに聞いたところ、もし御古址から発掘されたものだとすると、その人形代には祟りがつきまとっているという言い伝えがあって、それを送りつけるのは、呪いをかける意図があるのかもしれないということでした」  久米美佐子が、御古址にいた喬木と望田の会話を、たまたま耳にした「呪い殺す」という言葉の謎はこれだったのだ。 「ただ、望田さんの話によると、御古址が盗掘された事実は、少なくともここ十年間はありえないというのです。垂水頓宮の価値が見直され、管理態勢もしっかりしましたから、もしも盗掘などがあれば、掘り起こした痕跡にすぐ気がつくはずだというのですな。しかし、その謎も浅見さんにかかると、あっさり解明されてしまうらしい。こちらの長屋さんに聞きましたが、御古址から人形代を掘り出したのは、あなたが指摘したとおり、長屋さん兄弟でした。三十四年前のことです。そうして、お兄さんの信弘さんが土蔵の奥に仕舞い込んでいた。しかも、同じ場所に、明正さんの出生の秘密を証明する品々と、彼の臍《へそ》の緒が隠されていたのですよ」 「すると、証拠の品は御古址には埋められなかったのですね」  浅見は確かめた。 「ああ、それはあかんかった」と長屋敬三が無念そうに答えた。 「掘った穴から人形代が出たのは、ほんまの偶然やが、その穴を埋め戻したとしても、ほかの地面との差は歴然としたものや。すぐ傍に野元の死体があったのでは、誰かて怪しいと思って掘り返すやろ。それで、御古址に隠すのは諦めざるをえなんだわけや」  浅見は「なるほど」と小さく頷いて、喬木に視線を向け、話のつづきを待った。 「そして何年か前、土蔵の中でお父さんの遺品を整理していた明正さんがそれを発見したわけですな。それは、三十年間眠りつづけていた彼自身との対面だった。私の貧弱な想像力では、憶測するすべもないが、その瞬間から、彼の心理の奥底に、私への呪いが芽生えたのではないかと思っています。それだけに、彼から執拗な恐喝を受けるたびに、むしろ私としては、彼が不憫《ふびん》でならなかった。元を質せば、三十五年前の私の不行跡に端を発することなのです。だから、いずれの場合にも彼の言うなりに金銭を与えていました。ただ、どうしても許すわけにいかないことがあった。それは、彼にとって妹である佳鈴さんの秘密——つまり、彼と佳鈴さんが兄妹である事実を暴露するという内容の手紙があったことです。もっとも、その後の手紙では、あれは間違いだ、一時の感情に衝き動かされて書いたにすぎない——と書いてきましたがね。しかし、一度だけとはいえ、それがあったために、私は過剰な警戒心を抱くことになった。東京シャンハイボーイズのロケが土山で行われると知った時、私は自棄的になった彼が、佳鈴さんに何かをするのではないかと、恐怖に近い危惧を覚えたのです」  その喬木の心理は理解できる——と浅見は思った。あの人形代の不気味さは、人間の深層にある原始的な恐怖心をかき立てるものであったにちがいない。 「そしてあの夜、私は空港建設問題のヒヤリングが終わった後、こちらの長屋さんに事情を話し、二人でかもしか荘に様子を見に行ったのです」 「そうやがな、浅見さん」  敬三が言った。 「わしは喬木社長さんの話を聞いて、申し訳ないことやと思いましたがな。明正がヤクザに脅されて、金に困っとったことは知っとった。けど、社長さんを恐喝しとるとは……その上、小宮山さんのお嬢さん——自分の妹まで不幸にするいうのは、許すわけにいかん悪事ですがな」 「しかし、だからといって殺すことはなかったでしょう」 「いや、それは違う。違うのですよ、浅見さん。あれは事故といっていい、偶発的な出来事だったのです」  喬木が苦しそうに言った。 「私と敬三さんがかもしか荘にさしかかった時、かもしか荘から明正さんが出てきました。駐車場で落ち合って、佳鈴さんのことを詰問しようとしましたが、あの場所では具合が悪いので、彼を車に乗せ、少し離れた青土ダムまで行ったのです。そこで車を停め、話しあっているうちに、彼は興奮しだして、いきなり私の襟首を掴むと、『おれは佳鈴がかわいいだけだ。兄が妹をかわいいと思って、何が悪いんだ』とわめきながら、すごい力で首を締め上げました。いや、それは大袈裟でなく、殺されるかと思うほどのはげしさでした。それを見かねた長屋さんが、背後から彼を殴りつけました。それほどの強打ではなかったのですが、明正さんは急に苦しみだし、ものの一分も経たずに、あっけなく亡くなったのです」  やはり長屋明正の死因は警察の発表どおりだったのだ。いわゆる外因性ショック死というものだろう。  浅見は深夜のダム湖畔の情景を思い浮かべた。足元に横たわる死体を見下ろして、二人の初老の男が、どれほど絶望的な恐怖に晒されていたかを思った。  殺した相手は喬木にとっては実のわが子であり、敬三にとっては甥である。また、甲東木材の次期社長になるべき人間なのだ。 「私たちは狼狽の中で、それなりに冷静に行動したつもりです。私の頭の中にまず浮かんだのは、佳鈴さんの顔でした。あの子だけは不幸にしたくない——という、その想いでした。それから長屋家のこと、夏岡家のこと、小宮山家のこと、東京シャンハイボーイズのこと……一人の人間の死によって、何人も、何十人もの不幸な人間が生まれることを恐れました。そして、ほとんど躊躇なく、明正さんの死体をダムに放り込んだのです」  死体を抱え上げ、ダムに投げ込む瞬間の感触をまるで懐かしむかのように、喬木は膝の上の掌を見つめてから、言い足した。 「塚越綾子のことは、もはや説明を必要としないでしょう。浅見さんの推理がすべて正しいとは言いませんが、結論的には同じことですからね」  話し終えた喬木の顔からは、張り詰めていたものが、スーッと抜けて、代わりにいっぺんに歳を重ねたような白茶けた皺《しわ》がやけに目立った。 「そこまで話してしもうたら」と、敬三は対照的に強張《こわば》った顔つきで言った。 「あんたをこのまま帰してしまうわけにはいかんな」  血走った目が、いまにも襲いかかろうとするオオカミのそれを連想させた。 「長屋さん、それは無駄なことですよ」  喬木が静かに窘《たしな》めた。 「調べてみてはじめて知ったのだが、浅見さんは優秀な探偵さんでもあるのだそうです。しかも、お兄さんは警察庁の刑事局長をしておられる。おそらく万全の備えがあってこちらに来られたのでしょう。もはや、抵抗は無益なことです」 「けど社長さん、何もせんでは……」 「いや、それよりも、私たちは浅見さんの好意に感謝すべきではありませんか?」 「好意? 何ですかそれ?」 「そうではありませんか。これだけ調べ尽くしたからには、浅見さんとしては警察に通報すれば、それですべて片がつくと思うのがふつうです。あえてそうしない理由があるとすれば、それは恐喝のタネにすることぐらいでしょうが、どうやら浅見さんは、ユスリ・タカリをする人種ではなさそうだ。その点、私の血筋とは、えらい違いですな」  喬木は肩を揺すって、自嘲した。 「だとすれば、浅見さんがこうして、殺されるかもしれない危険を冒して単独でやって来られた目的は、常識で考えて一つしかありません。つまり、自首を勧めること。しかし、その常識も浅見さんの場合には通用しないものかもしれませんな。違いますか?」  喬木は目を細めて浅見を見た。浅見は黙って、その目を見返したが、じきに自分のほうから視線をはずした。 「どういうことです?」  長屋敬三は不安そうに、二人の顔を交互に見た。 「要するに、私と浅見さんの気持ちは、奇しくも一致したということですね。一人の人間の死によって、大勢の人の不幸を作り出してはいけない。しかし、一人の人間の死によって、大勢の幸福が守られることもあるというわけですよ」 「何ですと?……」  敬三は一瞬の間をおいて、怒鳴るように言った。「そしたら、浅見さん、あんた、喬木社長さんに死ね、言いに来たいうことでっか? なんちゅう思い上がりや。正義漢|面《づら》しおってから……あんたみたいなぼんぼんには、わしらの苦しい胸のうちは分かりゃへんのやろ。よし、死んだろやないか、社長さん、わしかて死にまっせ。わしかて、明正が死んだ時、ほんまのこと言うと、心のどこかで、これで息子に社長を継がせるいう邪心があったことは事実なんや。明正は所詮、血の繋がりのない甥やいう気持ちもたしかにあった。天罰が下るいうことやったら、わしかて同じこっちゃ……」  一気に喋って、敬三は胸の支えが下りたように、茫然と天井を見上げた。 「ありがとう長屋さん」  喬木は敬三の肩に手を置いて、わずかに頭を下げ、「しかし、みんなもう、終わったことですよ」と言った。     4  文化財調査委員会室に現れた時の喬木正隆はご機嫌だった。明らかにアルコールが入っている。 「いやあ、まだ昼を過ぎたばかりだというのに、こういう体《てい》たらくでお邪魔して、申し訳ありませんなあ」  望田の隣の空いた席に座り込んで、美佐子に「すみません、冷たいお水を一杯、頂戴できませんか」と頼んだ。 「どうしたんです? 喬木さんらしくもないやないですか」  望田はさすがに顔をしかめ、美佐子に「悪いな」と、旧友の無礼を詫びた。美佐子は水に添えて、熱いお茶を出した。喬木はその両方とも、旨《うま》そうに飲んだ。 「空港建設計画の交渉がどうやらうまくいきましてね、それでかるくお祝いということになったのです。私は車だからと遠慮したのだが、公団のお偉いさんに勧められると、断りきれなくてね、つい……」 「えっ、そしたらあんた、飲酒運転で来たいうことですか? 困るなあ、かりにも、ここは役場の付帯施設ですよ。警察に捕まりでもしたら、えらい迷惑ですがな」 「ははは、大丈夫ですよ。この程度の酒で捕まるようなへまな運転はしません。それより望田さん、あなたにはいろいろお世話になりました」 「何ですか、いきなり」  望田も苦笑した。 「いや、空港問題にめどがつきましたからね、これでしばらくはこちらに来ることもなくなったのです。ほんとにありがとう」 「わしは何も手伝いなどせんですよ。お礼など言われても困りますがな」 「まあいいじゃないですか。今日は誰でも構わず感謝したい、いい気分なのです。こちらのお嬢さんにもお礼を言います」 「えっ……」  美佐子は思わず中腰になった。 「あの、私はべつに……かえって失礼なことをしましたし……」 「ああ、あの浅見さんという青年に、われわれの関係を喋ったことをおっしゃっているのですかな? それでしたらお気になさることはありません。それに、あの青年はいい男ですぞ。結婚するなら、ああいう男を狙いなさい」  喬木は言いながら、しげしげと美佐子を眺めた。 「あなたは、今年大学を卒業されたというと、二十二歳ですかな? いや、失礼なことをお訊きするようだが、いちばんいいお年頃だと思いましてね……ねえ望田さん、あの頃を思い出しますなあ」 「えっ? ああ、そう、そうですな……」 「あの頃は若かった……みんな若かった。そして、美しかった……」 「ああ、美しかったですな……」  二人の目が自分に向けられているのに気づいて、美佐子はドギマギしてしまった。 「いややわ、そんなふうに見んといてください」 「ん? あ、失礼しました。つい見とれてしまった……そうだ、あなたにお土産を差し上げようと思ってきたのです」  喬木はバッグの中から桐の箱を取り出した。長さ三十センチ、幅七、八センチ、厚さ五、六センチの真新しい箱である。喬木は身を乗り出すようにして、その箱を美佐子のデスクの上に置き、蓋を取った。 「あっ、人形代……」  箱の中には銅製の人形代が、薄紙にくるんで入っている。それを一つずつ、喬木が取り出してデスクの上に並べた。鈍い緑色の光沢を放つ五体の人形代が不気味な——見ようによってはひょうきんな姿で並んだ。 「こんなに沢山……」  美佐子は呆れたような声を発した。望田も驚いたらしい。「どうしたのです、これは?」と、詰問するような口調で訊いた。 「ははは、たまたま労せずして手に入ったものですからね、何かのお役に立てていただけないかと思ってお持ちしました」 「あの、どこから出土したものなのでしょうか?」  美佐子はおそるおそる訊いた。 「残念ながら、それは分かりません。もし何なら、垂水頓宮跡から出土したことにしておいても構いませんが」 「まさか、そんなわけにはいきませんでしょう? ねえ、先生」  美佐子が顔を窺うと、望田は複雑な苦笑を浮かべて、「そら、具合が悪いやろな」と言った。何となく、事情を知っているようなニュアンスにも聞こえた。 「いいじゃないですか、そんな固いことを言わなくても、いまは万事、ヤラセの時代なのではありませんか?」 「ははは、素人さんはそれだから困る。学問とは、そんないいかげんなものであってはならないのですよ。万事が適当な時代だからこそ、一つぐらいは融通のきかない世界がなければね」 「ごもっともです」  喬木は手をついてお辞儀をして、そのついでのように時計を見た。 「さて、それではぼちぼち失礼しますかな。夕方までに東京へ帰る予定でいたのだが、どうやら無理らしい」 「まさか車で帰るつもりじゃないのでしょうな?」  望田は危ぶんで、訊いた。 「いや、名古屋までは車です。レンタカーを返してから新幹線で帰ります」 「よしたほうがええのとちがいますか? 鈴鹿の坂は危険やし」 「ああ、酒のことですか? 大丈夫ですよ。こんなのは慣れてます。ではお嬢さん、ご馳走さまでした。土山のお茶の味は、忘れませんよ」  美佐子が立ち上がるひまもなく、喬木は手を上げると、身を翻すようにして、部屋を出て行った。望田が慌てて後を追った。  一人きりになると、デスクの上の人形代が、まるでいのちあるもののように見えて、美佐子は急いで紙にくるむと、桐箱の中に戻してやった。  望田は、見るからに気掛かりそうな顔をして部屋に入ってきた。 「まったく、強情なやっちゃ」  吐き出すように言って、窓の向こうに視線を送っている。 「あの、これ、どうしますか?」  美佐子は人形代を指さして言った。 「ああ、それはあんたが貰ったものやろ。持って帰りなさい」 「いやですよ、こんなの家には置いとけませんもの」 「ん? ははは、気色悪いか。それもそうやねえ。そしたら、ここのホールのロビーにでも展示したらどないかな」 「そうですね、それがいいですね」  美佐子はほっと胸を撫で下ろした。  それからほんの数分後に、浅見が訪れた。相変わらず一張羅らしいブルゾン姿だが、不思議に見すぼらしい感じはしない。 (噂をすれば影って、ほんまやわ——)と、美佐子はわけもなく心弾むような気分の中で思った。  浅見の後ろから、浅見よりずっと若い痩せっぽちの青年が入ってきた。 「彼が、東京から連行された容疑者です」  浅見は言って、「八木沢君といいます」と紹介した。八木沢はペコリと頭を下げ、とくに美佐子に向けては「どうも、よろしく」と大きな笑顔を見せた。美佐子はいやな気がした。油断をするとスーッと付け込まれそうな印象だ。その点、浅見のほうがはるかに好ましい。浅見がこんなふうに親しみを見せてくれたら、どんなにいいかしれんのに——などと思った。 「さっき、喬木氏が来とったですよ」  望田が言った。 「そうですか、それは残念」  浅見は最前の望田と同じような目をして、窓の向こうを見つめた。なぜか、ひどく寂しそうな横顔が、美佐子には気になった。 「まだ十分くらいしか経ってへんよって、いまごろはそろそろ鈴鹿の坂にかかる頃でしょうかな。浅見さんも車でしたか? それやったら、急げば追いつくかもしれん」 「いえ、僕は北回りで、竜王インターから東名に乗ります」 「それはかなり遠回りですが?」 「はあ、たまにはそっちも通ってみたいものですから」  浅見はそう言うと、お茶の残りを一気にあおって、立ち上がった。喬木の時よりも、ずっと心を込めて入れた土山茶なのに、そんなふうな飲み方をされて、美佐子は少し心が痛んだ。  浅見は挨拶をして、部屋を出かかったところで振り返り、「お茶、おいしかったです」と言った。  八木沢は久米美佐子のことをしきりに気にしていた。「なかなか可愛い子でしたね」と、車に乗ってからも振り返っている。塚越綾子が死んで、まだ初七日もすまないというのに——。 「少し不謹慎だよ」  浅見が窘《たしな》めても、意味が通じないのか、怪訝《けげん》な顔で「は?」と言った。江間部長刑事の言いぐさではないが、推理作家には変人が多いにちがいない。 「だけど、どうして遠回りして帰るんですか? 亀山から東名阪を行ったほうがかなり近いんじゃないですか?」 「そうだけど、通りたくないの」 「通りたくない? どうしてです?」 「どうしてだっていいだろう。通りたくないことだってあるんだから」  浅見が珍しく語気強く言ったので、八木沢は辟易したように首をすくめ、黙ってしまった。  長いなだらかな坂を下って、水口の町を抜けた。背後に遠ざかる鈴鹿山脈の向こう——関町坂下宿の近くで、乗用車の転落事故が発生している情景が脳裏に浮かび、浅見は追い立てられるようにアクセルを踏んだ。  エピローグ  緑のそよ風——とはよくいったものである。花の季節が過ぎ、土山の茶畑から鈴鹿山脈までのゆるやかな高原は若緑に覆われて、爽《さわ》やかな風が渡ってゆく。 「のどかで、いいところねえ」  小宮山頼子はフロントグラスを透かして、つぎつぎに移り変わる風景を目で追いながら、何度も賞賛の声を発した。 「ママはこういうところは軽井沢しか知らないのでしょう」  ハンドルを握る佳鈴が、世間知らずの母親をからかうように言った。 「そうね、そういえば軽井沢に似ていないこともないんじゃない?」 「似てませんよ。ねえ、白井さん」  佳鈴は助手席の白井をチラッと横目で見て言った。 「いや、似たところ、あるんじゃないの。かもしか荘へ行く辺りは塩沢湖付近の感じにそっくりだし」 「そうかしら。でも、国道沿いの風景なんか、何もなくて、私はつまらないわ」 「ははは、そりゃ、根っからの観光地ってわけじゃないのだから、仕方がないさ」 「そうですよ」と頼子は娘を窘《たしな》めるように言った。 「ふつうの町で、こんなにきれいにしているところは珍しいわ。派手な看板も少ないし。さすがに白井さんは、ちゃんとご覧になっていらっしゃる。あなたは万事、自分本位に考える、悪い癖がありますよ」 「へえー、ママがそんなお説教するなんて、珍しいことだわ」  佳鈴は呆《あき》れたように、おかしそうに、笑いながら首をすくめた。 「だけど、ママが喬木さんを知ってるなんて、意外だったわねえ」  佳鈴が言うと、白井も「まったく」と頷《うなず》いた。 「喬木さんは、そんなことはおくびにも出しませんでしたからね。しかし考えてみると、そういうことがあるから、佳鈴ちゃんを応援してくれていたんだなあ。ようやく謎《なぞ》が解けましたよ」 「でも、あり得ることでしたわね」  頼子が言った。 「たぶん、それは私の里、夏岡のほうのこの子の祖父が、こっそり喬木さんにお願いしたのですよ。私の父はそういうふうに、何でも秘密|裡《り》にするのが好きな人でしたから」 「それを知っていたら、私だって、もう少し喬木さんに愛想よくしたのに」 「ママだって、ご挨拶《あいさつ》ぐらいしたかったわ。何のお礼もできないまま、逝《い》ってしまわれるなんて……」  頼子の言葉には、この一瞬だけ、万哭《ばんこく》の想《おも》いが込められていたのだが、佳鈴も白井も、それに気づくことはなかった。 「それにしても、喬木さんはどうしてご自分でレンタカーなんかを運転なさったのかしら? ハイヤーにお乗りになればよろしかったのにねえ。ほんとうに車の事故は恐ろしいこと。佳鈴もお気をつけなさい」 「私は大丈夫。安全運転ですもの。今回だって、ママが一緒でなければ、この車で来るつもりはなかったのよ。ほんとにママは思いつきで行動するひとなんだから」 「そんなふうに、迷惑そうに言うものではなくってよ。ママがあなたのお仕事を観《み》るなんて、めったにないことでしょう」  まったく頼子の言うとおりであった。頼子がこんなに積極的に、映画のロケーションを見学する気になるとは、佳鈴はもちろん、誰も思っていなかった。それも、昨日の朝になって、とつぜんの閃《ひらめ》きのように、土山へ行くと言いだしたのである。 「でも早いものねえ。喬木さんが亡くなられてから、もう二十日でしょう。ついこのあいだお葬式だったような気がするのに……あの方の亡くなられたのは、この近くなの?」 「さっき通り過ぎてきました」  白井が前を向いたまま答えた。 「関町を過ぎて、鈴鹿峠の坂にかかってまもなくのところです。急な坂道のカーブで、ブレーキが甘くなっていた上に、ハンドル操作を誤ったということです」 「そうなの。もう過ぎてしまったの……」  頼子は背後に視線を巡らせ、こっそりと手を合わせた。 「何でしたら、引き返しましょうか? そう遠くありませんから」  白井がバックミラーを見ながら、言った。 「いいえ、それには及びません。どうぞ真っ直ぐいらして」  車は土山の町の真ん中を通り、垂水頓宮跡の森に向かった。頼子が突然、土山行きを言い出したとき、その理由として挙げたのが、この頓宮跡を見学したいから——というものであった。母親が王朝文学や古代史に通じていることなど、佳鈴はまったく知らなかったから、そのこと自体、佳鈴には意外でもあったのだ。  映画『斎王の葬列』の主演女優が来ると伝わって、御古址には町の人々が二十人ばかり集まっていて、その輪の真ん中に望田と久米美佐子が待機していた。  白井が「土山町文化財調査委員会の先生です。今度の撮影ではいろいろお世話になりました」と紹介したが、望田は頼子に特別な意味のこもった笑顔を見せ、「望田ですが、憶《おぼ》えていらっしゃいますか?」と訊《き》いた。 「あら、ごめんなさい」  頼子は狼狽《ろうばい》した。 「以前どこかでお目にかかりましたわよね。ええ、それは憶えておりますのよ。でも、ごめんなさい……」 「いえ、憶えていらっしゃらなくて当然なのです。夏岡家のお屋敷に出入りした大勢の中の一人ですので」 「まあ、そうでしたの。わたくしこの頃、少しぼけておりまして。ほんとうにごめんなさい。いつごろのことでしたかしら?」 「そうですねえ……」  望田はちょっと考えて、「十五、六年前だったでしょうか」と言った。三十四、五年前と言って、その当時の記憶を想起させるのは、頼子には酷な気がしている。  むろん、頼子の十五、六年前の記憶に、望田のことは何もなかった。  望田の案内で、御古址の森の中を散策した。その合間に久米美佐子は小宮山佳鈴のサインをもらった。森の外にいる人々に対して、美佐子はちょっと優越感に浸った。 「浅見さんて、ご存じでしょう?」  美佐子を従えるような恰好《かつこう》で並んで歩きながら、佳鈴は言った。 「ええ、知ってますけど……」  美佐子は思いがけない人物の名前が出て、目を丸くした。 「浅見さんが、あなたにお会いしたら、よろしくっておっしゃってました」 「ほんとですか?……」 「それから、おいしいお茶をご馳走《ちそう》していただくといいって」 「あら、そんなに立派なお茶やないのですけど」  美佐子は我知らず顔を赤くした。 「でも、もしよろしかったら、名物のおまんじゅうがある茶店においでになりませんか?」  美佐子の発案で、旧宿場町の茶店に行くことになった。「茶」と染め抜いた大きな日除け暖簾《のれん》の下がる店で、「茶々丸くん」という饅頭を食べ、お茶を飲んだ。ここでも、近所の人々が斎王役のスターを見に集まった。 「あなたって、けっこう人気があるのね」  頼子は娘の耳に囁《ささや》いた。 「そんなことはないわよ。この前のときなんか、ほとんど知られてなかったみたい」  佳鈴はおかしそうに笑った。 「いや、佳鈴はもうスターですよ」と白井が真顔で言った。 「女優がスターになる時は、蝶《ちよう》が羽化するときのように、一瞬一瞬の間に、どんどん変化してゆくものだよ」  道を挟んで、店と向かい側に並んだ野次馬の中から、オズオズという感じで、長屋富子が進み出て、頼子に近づいた。  望田が気がついて、(まずいな——)という目で頼子を見たが、制止するわけにもいかない。 「あの、憶えておいででしょうか? 富子でございますけれど」  長屋明正の母親は、遠慮がちに頼子に挨拶をした。 「富子さん?……とおっしゃると、どちらの富子さんでしたかしら?」 「ずいぶん昔のことでございますので、お忘れかと思いますけど……お嬢様のお身の回りのお世話をさせていただいておりました、片岡富子でございます」 「あら、えーっ、あなたトミさんなの?」  頼子は目を丸くした。 「まあ、あのトミさんなの? ほんと、そうだわトミさんだわ。懐かしいわねえ……」  頼子は人前を忘れたように、富子の皺《しわ》の多い手を取って、驚きと感激の声を発した。 「まあ、憶えていてくださいましたか」  富子は涙ぐんでいる。 「憶えてますとも。トミさん、急にお辞めになったでしょう。私のせいじゃないかしらって思ってましたのよ。ほんとにいつも意地悪ばかり言って……ごめんなさいね。わがままな娘でしたでしょう」 「いいええ、とんでもございません。とてもよくしていただいたことばかり思い出しております」 「でもよくまあ……どうしてお分かりになったの? このお近くなの?」 「はあ、いえ……あの、お嬢様のお嬢様が映画のスターさんにおなりとうかがって、飛んでまいりました。でも、こうしてお目にかかれるなんて……」 「ほんとねえ。そうそう、あなた、ご結婚はなさったのでしょう?」 「はい、でも、主人は亡くなりました」 「お子さんは?」 「はい、あの、息子も亡くしまして……」 「まあ、そうだったの……それはお気の毒にねえ。わたくしの父も五年ばかり前に亡くなったわ。そういえば、あの方も亡くなられたのよ。あなた、憶えてらっしゃるかしら、三浦さん。ほら、学生のときから父の秘書をしてらした、ちょっとハンサムな方」 「はい、存じております」 「このすぐ近くの峠道で、交通事故でお亡くなりになったの」 「まあ、さようで……」 「ほんとに、だんだんみなさん亡くなってしまうわねえ……」  話題は尽きることがなさそうだ。望田は白井に「では、そろそろ参りますか」と催促して、ごく自然な感じで、頼子と富子のあいだに割って入った。 「じゃあ富子さん、お元気で。またお会いしましょうね」  頼子は名残惜しそうに富子の手を握り直した。 「はい、ありがとうございます。お嬢様もお元気で……」  富子はまた涙を拭《ぬぐ》って、去って行く人々を見送った。  野次馬も散ってしまった茶店の前で、ポツンと残された富子の肩を、長屋敬三の手が叩《たた》いた。 「義姉《ねえ》さん、よう辛抱して、なも言わんかったなや」 「そら、言えまへんがな」  富子は悲しそうな目を地面に落とした。  明くる日、十二|単《ひとえ》の小宮山佳鈴を載せた御腰輿《およよ》を中心に、前回よりもはるかに規模が大きく、きらびやかに仕立て上げられた斎王の群行が、五月晴《さつきばれ》の空の下、鈴鹿峠の古い街道を下って行った。それはまるで、皇太子ご成婚の先触れのように、豪華で、平和で、のどかな情景であった。 本書は、平成七年四月小社から刊行したノベルズを文庫化したものです。なお、本書はフィクションであり、実在の個人・団体等とは一切関係ありません。(編集部)  自作解説  一般的にいって、作家は自分の作品を出版後に読み返すものかどうか、じつのところ知りません。僕に関していえば、ほとんど読まないといっていいでしょう。もちろん、最終ゲラチェックでは通して読みますが、その場合は推敲《すいこう》の過程として、一種のアラ探しのような読み方ですから、感興に流されてはいけません。作品を楽しむどころか、時間に追い立てられる中で、校閲の指摘してきた疑問点をどう解決するか、ミスの読み落としがないか、パニック状態の「労働」です。  それでもまだケアレスミスが数カ所、必ずといっていいくらい出てくるのだから、情けなくなります。その都度、読者のみなさんにご迷惑をおかけするので、初版本を開くのが恐ろしい。そのことが自作を読まない潜在的な理由の一つかもしれません。ありがたいことに、読者の多くはきわめて好意的で、その種のミスを指摘する場合でも、「すでにお気づきのことと思いますが」といった優しい書き方をしてくれます。あるいは「私の錯覚かもしれませんが」と前置きする方もいらっしゃる。大抵は「錯覚」どころか、まさに正鵠《せいこく》を射た指摘なので、編集者ともども頭を抱えるほかはないのです。  もっとも心苦しいのは、ハードカバーの初版本をお買いになった方に、そういった「被害」に遭うチャンス(?)が多い点です。出来立てのホヤホヤは新鮮であり、とくに時事問題などを含んだ作品など、作者としてはできるだけ早く読んでいただきたいのですが、それにしても高い本を買っていただいて、間違いだらけというのでは申し訳ない。この場をかりてお詫《わ》び申し上げる次第です。  初版本のミスは、新書化からさらに文庫化と、判型が変わるごとにチェックが入って、次第に改訂されます。それでも、文庫になって数年を経てからミスに気づくことが少なくありません。  それはともかく、自作を読み返さない本当の理由は別にあります。たとえていえば、嫁にやった娘の初めての里帰りを迎える親父の心境といったところです。なんとなく気恥ずかしくて、まともに顔を見られない——という、あれです。それに、嫁いだ先でどんなふうに思われているのかも気になります。親としてはいい娘に育てたつもりでも、世間様の評価はまた違うかもしれない。自信のないまま嫁がせた場合には、なおさらのことです。 「いいお嫁さんを頂戴して……」などとお世辞を言われても「嘘《うそ》だろ」と思ってしまう。その心配と不安の塊のような「娘」が、妙に晴れがましく着飾ったりして戻ってくる——それが新刊本です。  といったようなわけで、『斎王の葬列』もじっくり読んだことがありませんでした。今回、文庫化にあたり、この「自作解説」を書くために読み返しているところですが、そうやってあらためて「ご対面」してみると、見た目の容姿や性格ばかりでなく、どのようにして育てたか、その過程も思い出されて、ちょっとした懐旧の情を催します。  すでにいろいろな機会に表明していることですが、僕の創作法は、真っ当な小説作法や創作理論、ミステリーの法則等々とは無縁の、まったくの「我流」です。この作品ももちろん(例によって)プロットなしで書かれました。つまり、子育ての理論や教育方針などなしに、いわば放任主義で育った娘のようなものです。  親はなくても子は育つといいますが、作品はさながら「たまごっち」のように、ワープロの中で思いがけない育ち方をします。親としては、とりあえず基本となるテーマと方向性を与えれば、その先は「娘」の意思の赴くまま、ワープロのキーを叩《たた》く指の勝手で物語が進行するといっていいくらいです。  本書では「斎王」という大テーマを与えました。神聖にして冒すべからざる斎王と「葬列」という組み合わせは、本文中でも述べているように、大胆というか不遜《ふそん》というか、ショッキングなネーミングではありました。じつは、この『斎王の葬列』の文庫本が刊行されるのとほぼ時期を同じくして、『皇女の霊柩《れいきゆう》』(新潮社)を上梓《じようし》します。べつに意識して書いたわけではないのですが、偶然とはいえ、似たようなタイトルであり、タブーを無視した点でも似ている作品が書店に並ぶことを思うと、いささか気がひけます。  ところで「娘の育て方」ならぬ「創作のテクニック」としては、いくらプロットなしの無手勝流とはいえ、僕の作品にもそれなりの癖のようなものはあるものだということを、本書を読み返しながら考えました。  たとえば「謎《なぞ》の提示」です。この作品ではプロローグで三十四年前の出来事として、野元末治が御古址《おこし》の森で変死する事件を書いています。遠い過去の事件や出来事が因縁となって、現在の事件を発生させる——という展開が好きで、『「萩原朔太郎」の亡霊』『平家伝説殺人事件』『戸隠伝説殺人事件』『夏泊殺人岬』『高千穂伝説殺人事件』その他、この手法は僕の作品ではかなり多く用いられています。  発生した事件にのめり込み、謎の暗闇《くらやみ》の中を過去へ過去へと遡《さかのぼ》ってゆくと、やがて恐ろしいものが見えてくる——というストーリーは、誰だって面白いはずです。その過去の出来事を冒頭に提示して、読者に「いったいこれは何なのだ? 物語の本体とどう繋《つな》がるのか?」と疑問を抱かせる。まさに前口上としての役割を「プロローグ」が果たすことになります。読者の頭の中には、探偵が探し求めなければならない「謎」があらかじめインプットされているのですから、これは謎解きミステリーとしてはかなりフェアなやり方といっていいでしょう。  しかし実際には、せっかく提示してある謎も、物語の中でどういう意味を持つのか、なかなか見えてきません。簡単に見えてしまっては底が浅いわけで、そこに作者としての工夫と苦心があります。『夏泊殺人岬』などはその恰好《かつこう》の例ということができます。 『夏泊殺人岬』のプロローグは、ある傷害致死事件を描いています。その事件そのものは犯人が自首したためにすぐに片がついたことと、その当時起きた大きな事件の陰に隠れたことで、人々の記憶にも残らなかった——といった記述があります。「大きな事件」が何かは調べればすぐに分かる——と読者にヒントを与えているのですが、おそらくその意味に気づいた読者は一人もいなかったでしょう。というより、物語の面白さに夢中になって、ついプロローグのことを忘れてしまうのかもしれません。そうして最後の章を読み終えたとき「あっ」と驚く仕組みです。 『斎王の葬列』のプロローグは、プロローグそれ自体としては、僕の作品の中でもとくに気に入っているものの一つです。「御古址」という、名前からしてちょっとミステリアスな雰囲気のある場所の設定。皇太子ご成婚という社会背景。その盛儀とはあまりにも対照的な惨劇。コンクリートの鳥居の下で無残に潰《つぶ》れた顔面の上を、甲羅の赤い沢ガニが這《は》っている——といった道具立ては、これぞミステリーという感じがしませんか。  作品によっては、プロローグを後から書き足す場合もありますが、『斎王』では初めにプロローグありき——で書いたと思います。このプロローグをまず書いて、あとはその勢いに任せてストーリーを積み上げていったにちがいありません。  僕の場合は取材が何よりも重要な作業ですが、『斎王』ほど取材が威力を発揮した作品はそうざらにはありません。御古址の森の惨劇も沢ガニも、現地取材のときに見た印象から発想しました。鈴鹿峠を歩き、土山宿の街道をゆく斎王の行列を思い描き、そのあげくの果てのように映画のロケを発想しました。登場人物もまた現地で出会った人々のイメージを借りています。もちろん犯罪に関係する人物や事柄はまったくの想像の産物で、それに似た人や物は存在しませんが、それ以外の土地の描写はほとんど見たままといっていいでしょう。  さて、今回読み返してみて、『斎王』が予想以上に複雑な物語であったことに驚いています。浅見が登場するまでに二つの事件が起きているのも珍しい。  斎王に関する記述もそうですが、琵琶湖空港建設計画だとか、劇団や映画の裏事情など、社会背景についてのモロモロが話題に上りました。作者も勉強しなければならなかったけれど、読者も新知識に戸惑ったかもしれません。  事件の真相は——正直なところ、僕自身、自分が提示した謎の意味が分からなかったふしがあります。作者が分からないのですから浅見が分かるはずがない。まして読者には雲を掴《つか》むような話だったでしょう。その謎のヴェールを一枚一枚剥《は》がすようにして、浅見光彦が事件の真相に迫ってゆく。錯綜《さくそう》した人間関係のしがらみが明かされたときには、僕は「なるほど、そういうことだったのか……」と感心しました。  僕の手の内から創り出されていながら、浅見光彦はひょっとすると独立した人格を持って、自在に思考したり行動したりしているのではないか——と、ときどき考えます。作中の浅見の思考や行動に、ついて行けないような気がすることがあるのです。こうして何年も経ってから読み返したときなど、いっそうその感が深い。読者のほうも、とっくに僕の存在を通り越して、浅見光彦とじかに付き合っているのかもしれません。   一九九七年五月 内田康夫 角川文庫『斎王の葬列』平成九年五月二十五日初版刊行